三回前の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1009206422&owner_id=14874745)で説明した、「書きたいことと、書きたいことに向かって文の要素がきちんと機能していること」の大切さを理解していただくために、前々回の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1011245098&owner_id=14874745)で讀賣新聞のコラムを題材として、例題を用意しました。前回(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1014018205&owner_id=14874745&org_id=1011245098)に続き今回も、これらのコラムについて、文章の組み立てという観点から、見ていくことにしましょう。
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讀賣新聞コラム「編集手帳」より
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�U 2008.11.24
小説のなかでFBIの元捜査官が言う。解くのがむずかしい迷路も、つくるのはやさしい。まず正解の道を描いたら、あとは線を書き足して見せかけのルートをこしらえる。「答え(容疑者)がわかればパズルは簡単なものだ」と米国の作家ジェフリー・ディーバー「悪魔の涙」(文春文庫)の一節だが、答えが見え始めてから謎がいっそう深まる"簡単でない迷路"も現実にはある。男が正解ルートとして語る〈線〉の異様さはどうだろう元厚生次官宅の連続殺傷事件で無職の男(46)が出頭し、逮捕された。「昔、保健所にペットを処分されて腹が立った」と警察で供述しているなぜ、遠い過去の恨みを無関係の元次官や夫人に向け、証拠品の凶器に運動靴まで携えて出頭し、少しも悪びれた様子がないのか。幾つもの「なぜ」を残し、軽すぎる動機と重すぎる犯行を結ぶ〈線〉はぼやけている常識と分別を知る殺人者など世の中にいるはずもないが、これほど愚かしい動機で縁もゆかりもない者の標的にされ、たった一つしかない命を奪われたとすれば、たまらない。言葉もなく、迷路の前に立ちつくす。
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少しましだが、考え方の本質は変わらない
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今度は、�Uの文章を取り上げましょう。
この文章ぐらいになると、ちょっと不注意に読んだぐらいでは、どこが文章を構成する考え方の点でおかしいのか、気づきませんよね。
この文章で気になるところは、筆者が「してやったり」とほくそ笑んでいると思われる、の部分です。
この部分は、「なるほどうまく書いたな」という気にさせる書き出しです。しかしの話を受けたつなぎの発想である「答えが見え始めてから謎がいっそう深まる"簡単でない迷路"も現実にはある。」という説明は、の話を強引に「殺人事件の犯人の発想の不可解さ」の話に持ってくるためのこじつけにすぎません。
の話は、「解答からたどっていけば、元をたどるのは易しい」ということです。迷路というのは、出口に近づいていっていると思っても、実はそれが正解の出口ではないということが多いですよね。出口から遠ざかっているように見せかけて、そこが本当の出口への通路だったりします。
その迷路を、「出口からたどれば、くねくね回り道していても、紛れるところもなく一本道で正解を見つけることができる」というのが、の話です。
それに対して、殺人事件の犯人の発想の不可解さの話はどうでしょうか。「答えが見え始めてから謎がいっそう深まる"簡単でない迷路"」とは、上の説明で言えば、迷路を入り口から入っていって、近くに出口が見え始めたから、「もうそろそろ出口に近づいているに違いない」と、幻想を抱いて安心している状態です。
だから、このような状態の時は、当然、出口に近づいていると思っていても、出口に簡単にたどり着けるというようなことはあまり期待できません。「出られそうで出られないで、もやもやする」というのは、当然のことですね。
ですから、このような状態と、「迷路を出口からたどると、答えを簡単にたどることができる」というのとは、関連があるようでいて、実は、この自分が導入として使った話を全く無視した別の話なのです。
そのようなことが分かると、文章として気の利いたように見えるの段落は、全く意味をなしていないことが分かります。ゼロカウントか、もっと厳しく評価すればマイナスカウントですね。
こうやって言いたいことを言うのに余計な装飾を取り払ってしまうと、後には、「ペットを殺されたからといって、人を三人も殺害するのは許せない、納得がいかない」というどんな中学生でも書きそうな決めつけしか残りません。
実際この文章は、それだけの浅い内容を、うまく装飾をまぶして、さも内容があるかのように見せかけただけのものですから、それをうまくこなしてしてしまう筆者の筆力?には舌を巻きます。
「迷路の答えに至る道」という統一視点で文章を構成した点で、�Tのようにイメージの関連、関連で無意味につながっていく文章よりも、この文章は遙かにましです。しかし、根本のところでは、文章に対する基本的な考え方が、この�Uも�Tと同じであることに、あなたもすでにお気づきでしょう。
つまり、�Tも�Uも、内容を読者にきちんと伝えるということよりも、むしろ、浅い内容でも、どうやって奇抜な発想で装飾してそれらしく見せるか、ということを第一に考えているのです。
あなたはこの筆力?とやらを評価しますか。
私は、内容がないものを、ここまで内容があるかのように見せかける点で、こういう筆力は害があると思います。一番の弊害は、このような文章を書くことで、「自分自身が筆力がある」、「何か意味があることを書いた」と錯覚してしまうことです。
コラム�Uの点数
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文章の解説が、だいぶん短くなったことにあなたも気づいているでしょう。それは結局、文章の筋が通らないところが少なくなったということです。そういう意味で、�Tのコラムよりは、だいぶんましというところです。高くても65点ぐらいまででしょうか。
この内容で、それ以上の点数は無理というものです。
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�W 2008.11.29
日本の絵画を集めた展覧会がオーストラリアで催されたとき、ひとりの男性が一枚の絵の前にじっと立ちつくし、しきりに感心していた。扇の形をした紙「扇面(せんめん)」に描かれた風景画であったという男性が語ることには、自分はトラックの運転手だが、「雨の日にフロントガラスのワイパーの跡から見える風景だね」と。画家の安野光雅さんが演出家の故・吉田直哉さんから聞いた話として、ある対談で語っている札幌市で除雪の路面電車「ササラ電車」が早くも走りはじめるなど、北国から雪の便りが届く季節になった。扇面の白い絵を前にしてハンドルを握っている方もおられよう路面が凍結し、タイヤが滑りやすくなる。扇の外側には神経も届きにくい。どうか気をつけて…と、季節感を愉(たの)しむ前に用心の言葉が浮かんでくるのは、痛ましい輪禍の記憶が幾つも残るなかで迎えた冬のせいだろう〈白魔(はくま)はなおも跳(おど)りつづけていた〉とは武田麟太郎が戦前に書いた「雪の話」の一節だが、激しい降雪はいまも新聞の見出しなどで、ときに「白魔」と呼ばれる。美しい扇形をした雪景色にも魔は潜んでいる。
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一応文章になっている、かな?
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この文章はこれまでの�T�Uとは違って、あまり細かく見なければ、一応書いていることの筋のつながりはある様に見えます。そういう意味では、�T�Uよりもましです。
しかし細かく見ると、これもいかがなものでしょうか。
「雨の日にフロントガラスのワイパーの跡から見える風景」を、扇に描かれた絵と重ね合わせてとらえたオーストラリアの男性は、車の窓から見える扇形に区切られた風景に人生を感じ、美しさを感じているのです。それはつまり、普通に大地に立ってすべてを見渡した風景に対して、ワイパーの跡を通して扇形に切り取られた風景の美しさを発見したということです。
この話は、ちょっとわかりにくいですね。
日本三景の一つに天橋立(あまのはしだて)というのがあります。そこで有名な「股のぞき」、あなたはやったことがありますか。海と湖の間に細く対岸まで続いた砂浜を、自分の股の間から、頭を逆さまにして見るのです。これをやると、なぜか、橋立の景色がすばらしく見えるのです。
不思議ですね。でも、気のせいではなくて、これは本当の話なのです。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは、自分の股が、余計な物を見せないフレーム(枠)となって、橋立だけに、自分の目を集中させるからです。
広島県の鞆の浦という所に対潮楼(たいちょうろう)というお寺があります。昔、朝鮮使節が立ち寄っていた由緒あるお寺のようです。
ここの座敷から見る島の風景がすばらしい。ただし、毛氈(もうせん)を引いてある場所から海を眺めたときだけです。これもつまり、電線だの、隣の家だの、じゃまな物が、窓枠や閉じた障子などで遮られて、絵を見るように、きれいなところだけが枠にはめられて見えるから、そこだけに目が集中させられて、とても美しい風景だと感じられるのです。
この現象は、私が勝手に理解して、説明しているもので権威ある方の説ではありません。しかし私はこれを、「フレーム効果」とでも名付けてもよいと思っています。
話を元に戻してオーストラリアの男性の気づきは、このフレーム効果についての気づきなのです。だから、「風景が美しい」というだけの話とは、違う。車の窓ガラスから見た風景を、まるで絵巻物でも見るかのように、とらえているのです。
ところが、このコラムで登場する雪の話は、このようなフレーム効果とは無縁です。車の中から見る雪景色は扇のような形をしているということと、雪景色は美しいということと、それだけの連想で前の雨の日の景色の話とつながっているに過ぎません。
つまり、「美しい扇形をした雪景色」とは、「美しい雪景色」と「扇形をした雪景色」とをイメージとして重ねてみただけで、雨の日の話のように、「扇形をした景色だからこそ美しい雪景色」というような意味合いとは、本質的に異なるものです。
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扇 →雨の車窓の風景→雪の車窓の風景
↓ ↓ ↓
扇形 扇形 扇形
美しい 美しい (美しい×)
雪
↓
美しい
白魔 →気をつけて!
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以上わかりにくい、理屈っぽい説明が続きました。しかし、このコラムも、肝(きも)として取り上げたエピソードが、実は本当に述べたい事柄の前振りとして、話の内容を、微妙にゆがめて言葉を飾るためだけに使われていることが分かると思います。
この話も、言っている内容を、それだけ取り出してしまえば、「雪道のドライブは美しいけれど、危ない。気をつけましょう」というただそれだけのことです。
筆者の努力が、その変哲もないことを美しく飾ることにだけに集中しているという点は、これまでの�T�Uと同じです。
コラムの�W点数
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�Uのコラムよりは、少しましでしょう。でも、何か内容を伝えるための文章であるという70点、すなわち一応の合格レベルとするには、ちょっとためらうところです。前の�Uを65点にしてしまったので、66点から69点の間くらいでしょうか。
コメント
もしかしたら、根拠のない想像ですけど、このコラムは、最初はちゃんとした文章だったのかもしれません
だけど、新聞だと、コラムを載せるスペースが決まっちゃってるから
あらかじめ作った文章を、できるだけ文章の流れを壊さないように短くしたんだと思います。
だから、接続詞が一個もないし、筆者の経験とか知識と、筆者の主張の間が飛んじゃって、読者が読んだときに筆者の「経験」「知識」「主張」の相関が薄いように感じ、読んでて読みにくい文章になってるんだと思います。
コラム�Uに対するNeko Fumioさんのご指摘に私も同感です。単に紙面を埋めるために無駄な文章をくっつけただけだと思います。
ちなみにコラム�Wの文章は、正直私には何が言いたいのか分かりませんでした。私には「扇の外側には神経も届きにくい。」という箇所が前半の文章に対して飛躍しているように思います。ある意味知識自慢のようにとれます。
かもめさん
記事を使わさせていただきました。
・コラムの文章の特徴(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1021546371&owner_id=14874745&org_id=1023367706)
・コラムの文章の長さ(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1023367706&owner_id=14874745)
おっさっちさん
返事を書きました。
・コラムの文章の長さ(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1023367706&owner_id=14874745)