ふたつ前の、「文章の構成3(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1014981547&owner_id=14874745)」に、かもめさんが考えるとおもしろい話題を提供してくださっているので、それをネタにして、コラムの文章の特徴について考えてみましょう。
かもめ 2008年12月06日 16:27
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もしかしたら、根拠のない想像ですけど、このコラムは、最初はちゃんとした文章だったのかもしれません
だけど、新聞だと、コラムを載せるスペースが決まっちゃってるから
あらかじめ作った文章を、できるだけ文章の流れを壊さないように短くしたんだと思います。
だから、接続詞が一個もないし、筆者の経験とか知識と、筆者の主張の間が飛んじゃって、読者が読んだときに筆者の「経験」「知識」「主張」の相関が薄いように感じ、読んでて読みにくい文章になってるんだと思います。
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プロは、文章体験の「コア」を持っている
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清水幾太郎の『論文の書き方』(岩波新書)だったような気がしますが、「自分は学会誌か何かの書評を長い間担当して、『その書評のために定められた原稿枚数で、どれだけのことが書けるか』という文章体験のコアのようなものができた」というようなことを書いておられたように思います。
何分もう何十年も前に読んだ本なので、詳細はご勘弁です。「文章体験のコア」というのも、私が勝手にこう名付けているだけです。
この「文章体験のコア」というのは、ほぼ同じ枚数の原稿を、人に見てもらうために、しっかり何回か書いていると、その枚数が自分の体感として身に付いてきて、「どうやったら書けるだろう」とか、「どれだけの材料でこれだけの文章になる」とかいうことが、自然と分かるようになるということです。
コラムを書く人というのは、それ専門に毎日携わっているプロですから、我々時々しか文章を書かない素人とは違って、
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「新聞だと、コラムを載せるスペースが決まっちゃってるから、あらかじめ作った文章を、できるだけ文章の流れを壊さないように短くした
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結果、文章が中途半端になってしまったというような、学生がよく陥りがちな状態になっているということは、まず考えられません。
字数が少ないなら少ないなりに、多いなら多いなりに、その量に合わせて、文章の書き方を変えていくのが、文章のプロというものです。
コラム特有の特徴がある
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かもめさんの指摘でおもしろいのは、そのようなことが考えられないにも関わらず、実際に、
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接続詞が一個もないし、筆者の経験とか知識と、筆者の主張の間が飛んじゃって、読者が読んだときに筆者の「経験」「知識」「主張」の相関が薄いように感じ、読んでて読みにくい文章になってる
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ということが起こっているということです。
これはつまり、書き慣れた人が書いてこういうことが起こっているのですから、「コラム特有の事情・特徴」というものを考えないわけにはいきません。
新聞の文章の特徴
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「天(てん)の木鐸(ぼくたく)」などという言葉を知っている人の方が少ないでしょうか。今では、もう死語になっているかもしれません。
「木鐸」というのは、「中国で法令などを人民に示すときにならした鈴」のことで、そこから、「世人を覚醒させ、教え導く人」(広辞苑)のような意味で使います。
明治時代などのごく初期の新聞や、ある政党の広報誌のような新聞では、自分達の政治思想を主張することで、人々を啓蒙(けいもう)してやろうというような姿勢で作られたものもあります。
しかし、今日の全国紙に代表されるような一般的な新聞では、そのような意味での政治的な立場というものを、はっきりとは表明せずに、「客観的な中立の立場で、世人(せじん)を導く」というような姿勢をとっています。今日の一般的な新聞で、それを作っている人が、まさか「自分が、ある特定の政治的な立場に立って、その偏った見方・考え方を世に広めようとしている」などと考えている人はいないでしょう。「自分は、公平な立場で、偏りのない主張をしている」と考えて、「世人を覚醒させ、教え導く人」であろうとしているのです。
ものの見方には、本当は、偏らない「中立」というようなことはありえません。
ものの見方というのは、漠然とした区別のない混沌の世界から、それが意味するところを取り出す作業なのですから、そのどこを取り出すかという点で、すべていずれかに偏っているものなのです。(これをきちんと理解していただこうとすると、また何回か、記事を書き続けないといけないので、今回はこれだけでやめておきます。この日記のコメント部分を参考にしてください。)
けれども、新聞を作る方は、「中立の正しい立場をとって記事にしている」と思っているし、少なくとも読者には、そのように思わせなければなりません。
そのため、新聞は、「主張をしている」と露骨に思わせるような書き方をすることは、基本的にはありません。
まして、一個人の感想をそのまま感想として掲載するようなことは、絶対にありません。「誰々が〜と言っている」というような書き方をし、自分の判断に有利な事実を選んで並べることで、客観的なそぶりを装って、判断を示すのです。
(自己主張がなされている、「社説」の問題点は、こちら)
コラムの文章の特徴
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コラムは新聞の中では、数少ない個人色を出せるところですから、個人の経験や感想を書いてはいけないというわけではありません。しかし、上に挙げたような新聞の基本的な姿勢には、コラムといえども、やはり大きく影響を受けています。
「個人色を出してもよい」とはいっても、「できることなら、個人色を出さずに、なるべく個人の経験や主張であるとは感じさせないように、客観的な意見であるかのように文章を書きたい」という思いは、コラムを書く方には強いのだろうと思います。
そのような思いが反映された文章だから、どうしても経験よりも知識優先でこれといった主張を持たない文章になりやすいのではないでしょうか。
こういう点で、個人的な意見・経験を書けないことはないとはいえ、個人的な感想を、個人の経験に基づいて自由に述べることのできる一般の随筆のような文章とは、コラムの文章は、ちょっと違った特殊な文章なのです。
形からくるコラムの文章の特質
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コラムを一目見て気づく形態上の特徴は、段落の区切りを「行換え・一字下げ」でせずに、▼や◆でして、改行もしない点です。
少ない紙面で、しっかり字数を確保しようという現実的な要請が、こういうやり方をする主な動機になっているのでしょう。
しかし、私は、この改行の仕方が、文章の内容にも影響をしている面があるような気がしてなりません
この点について、以下に書く内容は、以上書いたこととは違って、私の中でもきちんとした考えがまとまっているわけではありません。現段階における私の仮説として読んでいただきたいと思います。
普通の原稿用紙に普通に段落分けした文章と、コラムのような段落分けをした文章とで、どのような印象の違いがあるのかということを、できればやってごらんになると面白いと思います。これまで三回にわたって考えてきた四つの文章を、できればワープロにコピーして、原稿用紙形式で出力して、読んだ印象を比べてみてほしいのです。
そうすれば、これが意外と違う印象になることに、びっくりするかもしれません。
私が今現在考えている▼や◆の影響は、各段落同士が、他とははっきりと区別された▼や◆で区切られるために、一つ一つの段落がコンテナに入れられたかのように、はっきりと区切られた感じになるということです。
ところが、不思議なことに、このようにして各段落同士がはっきりと区別されるはずなのに、コラムのような書き方をする方が、段落同士の関係をはっきりと説明しないでも、なぜかつながっているように感じやすいのです。
もしかしたら、改行をせずに▼を間に挟んだだけで、次の段落をすぐに続ける省エネスタイルが、思わぬことにこのような副次的な効果を生んでいるのかもしれません。
このような、段落の書き方がもたらす、コラムの内容に対する影響は、想像以上にかなり大きいのではないでしょうか。
かもめさんが指摘なさった、
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接続詞が一個もないし、筆者の経験とか知識と、筆者の主張の間が飛ん
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でいる
という様な文体も、このようなことと無関係ではないと私は思います。
コンテナで区切られた段落が何となくつながって感じられる?
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新聞のコラムには、「関連関連で、話がつながっていって、最後に結論らしきものが、最初に述べたことと全然関係がないところにたどり着いていた」というようなものが、結構多いです。そこまで話がねじれていなくても、はっきりと話の流れを示さずに、何となく関連があるような話を並べていって、最後に落ちをつける、「起承転結」の崩れたようなものも多くあります。
この「『起承転結』の崩れた」というのは、話のまとまりを「結」のところできちんとつけて文章を締めくくろうという、私の言うところの「書きたいこと(主張)」をふまえようとしない文章のことです。
このような文章が、コラムに多く見られてしまう理由には、上で仮説を述べた、「コンテナで区切られた段落が何となくつながって感じられる」▼による段落付けの影響がかなり大きいように思われます。
普通の原稿用紙の使い方で書いていれば、改行して一字下げをする段落をつけたからといって、コラムの書き方ほどはっきりと段落が区切られるわけではありません。
段落同士の関係が繋がっていくのか、「起承転結」の「転」に当たる部分のように、全くとぎれてしまうのかは、文章の内容で表現していかなければなりません。
「結」の部分が、「起承」と「転」とを受けて、まとめていることを示すのも言葉によってです。
ところが、コラムのような書き方をすると、「つなぐ言葉を一切省いても、区切られていながら、つながっている」という微妙な状態を現出できるのです。
このようなところにも、コラムが、前二回の説明で浮き彫りになったような、飾りばかりで、書きたい内容(主張)のない文章になってしまう原因が隠れているような気が私にはしてなりません。
コメント
文章構成3のところで
■実際この文章は、それだけの浅い内容を、うまく装飾をまぶして、
さも内容があるかのように見せかけただけのものですから、
それをうまくこなしてしてしまう筆者の筆力?には舌を巻きます。
(中 略…過去日記を参照のこと)
■あなたはこの筆力?とやらを評価しますか。
私は、内容がないものを、ここまで内容があるかのように見せかける点で、
こういう筆力は害があると思います。一番の弊害は、このような文章を書くことで、
「自分自身が筆力がある」、「何か意味があることを書いた」と錯覚してしまうことです。
業界の問題点や社会への批判をする学生の作文で、こういう状態になっているものが多いです。
作文に自信がある人にかぎってこういう書き方をします。
簡単な言葉で表現できるのに、あえてこねくりまわして、難しい言い方にする人もいます。
私が添削をしているのは、自己アピールのための作文だから、
装飾はいらない。シンプルでわかりやすいもの。内容の深いものがよいです。
しかし、新聞コラムの真似をして一般論でまとめ、自分の意見が全くない人が多いです。
だから読んでいてもおもしろくない。個性がないから。
「その意見はワイドショーで聞きました。」「新聞に書いてありましたね。」
と、言いたくなることがあります。(いいたくなるから言います。)
あえてそういうテーマを選ぶなら、自分なりにデータを集めるなりなんなりして、
独自の見解も伝えるつもりで書かないと、自己アピールにはなりません。
で、こういう人がやる技法は…
「これでいいのだろうか?」「なにか対策を立てねばならない」
「社会の進むべき道を本気で模索するときがきたようだ」的なまとめ。
社会に問題提起をした気分で、作文に重みを持たせ、
完璧な自己アピールをした気分になっている。
問いかけるだけではその問題は自分の問題になっていない。
つまり、作文の目的を果たしていない。そういうことに気付かない人が多いです。
僕は、捻くれ者ですので、以前自分で「文章のかけない高校生は、まず教科書の文章や新聞の社説を諳んじてしまえ!!」とか書いておきながら、
Neko先生が、「コラムを書いてる人が文章のプロだ」と書くと
(いや、新聞記者が文章のプロなわけないだろう)とか
(いや、朝○新聞は、意図的に、ある特定の政治的な立場に立って、その偏った見方・考え方を世に広めようとしているだろう!!)
http://jp.youtube.com/watch?v=ejAWKlrCzfM
とか、つい考えてしまいますが。
先生の仮説も、なるほどなと、ありえそうな新聞記者の事情だなと思いました。