H20.12.8(木)の各社コラム

 H20.12.8(木)の各社コラムを、前回の記事で紹介しました。どのような感想でしたでしょうか。

朝日新聞 天声人語
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 さすが朝日新聞ですね。「内容はともかくとして、表現をあれこれつないでいって、最終的に何か気の利いていることを言っているような気にさせる」ことを目指すコラムの典型的な文章と言ってよいでしょう。
 「不安定な政治局面で、いろんな人が、いろんな動きをしていることを紹介する」、ただそれだけの内容なのに、飾りで使った素材が内容面で齟齬(そご)することもなく、水紋画のイメージで統一させて、さも気の利いたことを書いているかのような文章に仕立て上げた点では、こういう文章観を持って文章を書く場合の模範的な例文として、その筋の教科書に載せてもよいくらいだと思います。

 確かに、中身がないものを、気の利いた言い回しとイメージでつないでいくこの手の文章は、文章の一ジャンルとしては、あってもよいかもしれません。それを好きな人たちもおそらくいくらかは存在するでしょう。
 しかし、こういう文章が社会に存在する意義というのは何でしょうか。中身を伝えようとする気がない、ただの美文なのですから、大学入試で取り上げたり、中学・高校で教え・習ったりする必要は全くありません。何かの趣味の集団が、こぢんまりまとまって、細々とマニアックなことをやっている、そういうようなもので十分なはずです。
 すべての人にとって文章術の習得が必要だとすれば、それは、自分の思いを正確にきちんと伝えるためには、そのために文章をどのように書いていくべきかということを、考えていかなければならないからです。
 文章を飾り、その結果、「思考整理」「思考の伝達」のそのいずれにもマイナスになるような文章術は、百害あって一利もありません。

毎日新聞「余録」と山陽新聞「滴一滴」
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 これも、文章観の点では、朝日新聞のそれと変わりません。内容がないことを、ちょっと気の利いたイメージで飾って、さも意味があることを言っているかのように文章を仕立て上げようとしているにすぎません。
 しかしこれらの場合は、使った「江戸っ子のゴシップ好き」「中高年は顔に責任がある」という話が、実質的には、後で言おうとしていることと全く無関係に置かれてあるだけです。
 そのため、これらの文章は、美文タイプの文書を書こうとしながらも、それすらできずに破綻してしまっているのです。

讀賣新聞「編集手帳」
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 この文章は、ちょっと微妙です。「意味を伝える」ことを重視した場合でも、評価できるかもしれません。

 「漢字表からも消えることで「匁」は記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていくのだろう」ということを本気で筆者が伝えたかったのなら、そういう文章の存在意義はあります。
 つまり、「生活に密着しながら、子どもの遊びの歌にまで使われていた『匁』という言葉が、やがて実生活上で顧みられなくなって、忘れられていく。その一つの分かりやすい目印として、今回の常用漢字表からの削除がある。」
 こういうことを、このコラムの筆者が本気で伝えようとしたのなら、「主張がある、しっかりしたよい文章」だと言ってよいだろうと思います。
 この文章をよくよく読めば、そのように読めないこともないような気もします。しかし一方で、他社のコラムや、讀賣新聞の他日のコラムなどと同じように、「とにかく、文章を飾って、それらしい文章に仕立て上げるのだ」というような、筆者の姿勢が、何となく漂っていることも否(いな)めません。
 「本気で、『生活に密着し、そして消えていった「匁」という言葉の歴史』に思いをはせるのなら、同じことを書いても、もうちょっと違った書き方になっただろうに」などと思ってしまうのは、私の気のせいでしょうか。

どれも関係がない飾りを用意している
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 これらのコラムを通読しておもしろいのは、いずれも、本題だけで話をまとめるのではなくて、文章を飾る道具として、本題とは一見無関係、もしくは本当に無関係な部品を使っていることです。

 「起承転結」という言葉があります。この言葉を、「文章の構成」というような意味で使う方も時にいるけれども、この言葉は、本来、文章構成の一つの型、すなわちやり方にすぎません。
 「起承」で話を続けていって、「転」で全く無関係な話を持ち出し、「何なんだ。これはいったい!」と、思わせておいて、「結」で、「起承」と「結」とを含み込む落ちを付けて、読者に、「すごい!」と思わせるやり方です。(「『起承転結は』練習するな」参照、https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_35.php
 これは、「〜とかけて〜と解く。その心は〜」というゲームと同じで、奇抜な連想力を楽しむ、遊び要素の強い文章の書き方です。
 このような構成の説明を参考に、各社のコラムを、あえて言えば、
   朝日新聞……「起、転、転(2)、結」
   毎日新聞……「起、承、転、結」
   讀賣新聞……「起、承、転結、(結2)」
   山陽新聞……「起、承、転、結」
というような形になっていて、すべて内容とは直接関係のない部品を用意し、「転」の部分を意識的に作り出すことで、「気の利いたことを言っている雰囲気」を作り出そうとしていることが分かります。(讀賣新聞の場合は、好意的に読めば、「直接関係がない」とまでいうのは、ちょっと言い過ぎかもしれませんが。)

どうしても内容が二の次になる
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 もちろんこのような書き方でも、深い内容を伝えながら、なおかつ奇抜な連想力を発揮したすばらしい文章が書けるかもしれません。しかし、上のコラムを見ても分かるように、「奇抜な連想力」に主眼においた場合、どうしても内容が二の次になってしまうことが多いのです。
 さらには、「結」のところでは、「起承」と「結」とをきちんと受けてまとめていかなければならないのに、そういう意識が元々無いか、もしくは中途半端な結果、どうしてもまとめきれずに終わってしまうということも頻繁に起こってきます。

「起承転結」と、飾りを優先した文章観とは本来全く別物だが
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 「起承転結」というのは、言いたいことを伝えるための文章の一形式であり、コラムによく見られる、「とにかく飾りを優先して、もっともらしい文章に仕立て上げたい」という文章観とは、本来全く別物です。
 ところが、飾りを優先する文章では、本題とは関係のない話を文章の飾りとして持ってこようとするために、どうしても形の上で「起承転結」の文章のような体裁になってしまうのです。

 コラムによく見られる、「とにかく飾りを優先して、もっともらしい文章に仕上げたい」という文章観をもって文章を書く時、最も極端な場合は、その文章で伝えるべき内容などは一切無い、思わせぶりな話がイメージの連想だけでつながっていく、入り口と出口がぐにゃっと曲がっているような文章になります。
 そこまで無節操でない場合は、一応その話で伝えたいテーマらしきものは見いだせます。そのような時に使われる、それらしい感じを持たせるための手段が、「主題とは一見関係がないもの」、もしくは「本当に全く関係がないもの」を飾りとして持ってくるという手法です。
 この場合、このような文章観で書かれた文章は、ほとんどの場合、「起承転結」が崩れたような文章になります。
 そして、「本当に全く関係がないもの」を無理矢理つなぎ合わせようとするから、それらしいことを言っているのだけれども、それを読んで腑(ふ)に落ちるということが無いのです。どこか、納得できない違和感が残る。

 飾りを優先したコラムの文章が、このように、「起承転結」でいうところの「結」の部分で破綻して、ほとんど「『起承転結』の崩れたような文章」になってしまうのは、まさに自分が、「起承転結」の応用のような型で文章を書こうとしているということに気づいていないことが原因です。
 つまり、「文章を飾る」ために、本題とは違った話題を持ってくるのだけれども、自分が「起承転結」の型で文章を書いているという意識はないために、きちんと「結」で内容をうまく締めくくらなければまともな文章にならないことが全く意識の中から抜け落ちてしまっているわけです。

 一方、「起承転結」は、本来漢詩の詠み方ですから、文芸、特に随筆の書き方としては、今後も生き残っていくし、その存在意義もあります。
 もし、元々この型で文章を書くつもりなら、当然、話のまとまりをつける「結」の部分が文章の要(かなめ)であることを強く意識しないはずはありませんから、新聞のコラムのように、「結」のところで破綻した文章が出来上がる可能性は低いはずです。
 後は、「文芸として享受するに値するだけの内容」を、この型でどれだけ表現できるかということがやはり勝負所になるでしょう。

「起承転結」は文章を書く訓練をするのには向かない
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 ここまでコラムを見てきて分かるのは、発想を飛躍させる素材を生かすことが、いかに難しいかということではないでしょうか。
 コラムを毎日書いている、各社選(え)りすぐりのプロでさえ書くのに四苦八苦して破綻している。そういう世界に足をつっこんで、これから文章を書き始めようかという人が、初めての取り組みとして苦労するのにふさわしいだけの効果を期待できるかどうか、ちょっと考えてみれば判断できるでしょう。

 「起承転結」は、発想の飛躍がポイントになるため、もともと、論理的な文章を書くのには向きません。
 作文や随筆のようなものなら、適切に使うことができれば、インパクトのある文章を書くことができます。ですから、もし、あなたが本当に有効な材料をお持ちであるなら、使ってみるのもよいと思います。
 でももしそうでないなら、「起承転結」を意識の端にでも残しておくべきではありません。「起承転結」の文章を目指そうとすれば、必ず、内容をきちんと伝えようとする意識が希薄になります。その上、「転」を作り出す発想をきちんとできる人など、ほとんどいません。
 それができる人が、まさか、「文章が書けな〜い!」なんて、悩んでいるなどとは、とても考えられないでしょう。
 「自分はできる」と独りよがりに思いこんで、新聞のコラムのような意味のない文章を書いて喜んでいらっしゃる方も、結構多いかもしれません。

 作文や随筆を書く場合でも、「言いたいことをきちんと伝える文章」を目指すことが、一番の文章マスターになる近道です。無意味に文章を飾ることや、応用編(「起承転結」)に気を取られて、文章の王道を見失わないように、地道な努力をしていきましょう。

点数を付けると?
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 もう点数を付ける必要もありませんが、一応付けてみましょうか。

 これらを小論文として評価した場合、どれも合格点には達しません。
 読売新聞の場合でも、「言いたいことをきちんと読者に説明して伝えよう」という姿勢が、少し足りません。
 ここでは、作文・随筆として、それぞれ点数を付けてみましょう。

 朝日新聞の場合は、評価が分かれると思います。内容をあまり重視しない、「気の利いた文章こそが優れた文章なのだ」と考えているような国語の教師などが採点すれば、かなりな高得点になるかもしれません。
 でも、どちらかといえば、文章・論理よりも、書かれている事柄そのものを重視するような社会科の教員なら、合格点以下。
 私は、両者の中間ということで、合格ぎりぎりの70点でしょうか。内容が無くとも、きちんと一貫して文章を流せる生徒は少ないので、これぐらいの評価を与えないと、合格点の人がいなくなってしまいます。

 毎日新聞と山陽新聞は、本当は文章が論理的につながってはいないということで、合格点以下。65点。

 読売新聞は、これも、筆者にどれだけ好意的に見るかによって、点数は分かれてくるでしょう。しかし、どれだけ好意的に見ても、まあ80点止まりでしょうね。
 「主題を書ききっていない」という点で、最高点である、85点以上を与えることはちょっと無理です。

コメント

  1. かもめ より:

    なるほど。
    「起承転結」は使えれば使ったほうがいいけど、気をとられすぎると内容がダメになる。
    優れた文章を書こうとする場合そのバランスが重要だということなんですね。
    で、新聞のコラムは、本当は内容を重視すべきなのに、形式や飾りの方に重きが置かれてしまっているということなんですか。
    そういうバランスって、難しいですよね。
    新聞とかは、大衆に新聞を買ってもらわなければいけないから、奇抜な発想も重視されて、それで今のコラムは内容がダメになってるのかもしれません。
    コラムみたいに話が飛んでしまうのですが
    昔、国語の授業で俳句について習いました。
    俳句は随筆に比べ、形式を重視するものなのかもしれませんが
    「自由律俳句」という、五、七、五とか、季語とかそういう形式ぶっ壊そうとする人たちがでてきて
    そこでまた「春風や闘志いだきて丘に立つ」といって「自由律俳句なんて俳句じゃねぇ」と言う人もでてきて
    争った歴史を学んだ記憶があるんですけど
    今思えばそれも、形式と内容のバランスが問題になっていたのかなと思いました。

  2. Neko Fumio より:

     「『起承転結』は使えれば使ったほうがいい」という表現は、ちょっと気になります。
     「『起承転結』は使えれば使ってもいい」けれども、それを使うことができる場面は、非常に限られているということです。
     もっと言えば、文章を書くためには、「『起承転結』は、必ずしも必要ではない」ということでもあります。
     「主題を伝えるために素材を有効に配置する」ということ以外、文章に必要不可欠な要素は何もありません。
     「起承転結」も、ごく限られた場所で効力を発揮する、「主題を伝えるために素材を有効に配置する」やり方の一つなのです。
     「形式」というのは、本来は、内容を伝えるために有効だから、そういう形式が出来上がったのです。
     ところが、そういう本質を理解しないで、「形式さえ整えていればいいんだ」という人が多くなってくる。そうすると、内容のない、形ばっかり整ったものが世の中に氾濫するわけですね。
     そういう状態をおかしいと思う人は、正常な感覚の持ち主です。そういう人が「現状をどうにかしたい」「少なくとも、自分はそれでは満足しないぞ」と思うのは当然です。
     俳句のことはよく知りませんが、お書きになっていることは、そういう歴史の一こまでしょう。

  3. こうのすけ より:

    今は亡き明治生まれの祖父の手紙を読んだことがありますが
    形式というものは大変のものだと感じたことがあります
    中世の人たちが和歌をやり取りするのには高い教養が必要ですが
    素地になる知識を積み上げなければ形式を踏襲することなど出来ないのではないでしょうか
    起承転結で日本語の作文をするというのは
    誰が考案したのか知りませんが
    教養がなくても一応何か書くことが出来るための
    究極に簡略化された形式ではないのでしょうか
    その形式にうまく乗っかっている文章が
    全国紙の1面を毎日飾っているのですから
    考案した人の戦略は大成功という他はありません
    文章には伝えたい内容や書くことの社会的意義などなくてもかまわない
    いやむしろそんなものない方がよい
    ということが社会や日常生活では常識になっているのでしょう
    こういう状況をおかしいと感じる僕はもはやマイノリティなのです

  4. かもめ より:

    なるほど、そういう考えもあるのかぁ〜。
    でも、「形式は、そんな簡単に踏襲することなど出来ない」
    「こういう状況をおかしいと感じる」
    っていうのは、同じ考えみたいですね。

  5. Neko Fumio より:

    こうのすけさん、かもめさん
     ありがとうございました。
     上の文章は、かなり言葉足らずな部分があったようです。部分的にだいぶ修正を加えておきました。
     それから、こうのすけさんのコメントについての感想を、次の日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1043128367&owner_id=14874745)に書きました。

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