3回前の「コラムについての文章」(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1028205246&owner_id=14874745)は、自分で書きながら、何となく「書き切れていないような」と思っていたところが、やはり、言葉足らずでした。
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飾りを優先したコラムの文章が、このように、「起承転結」でいうところの「結」の部分で破綻して、ほとんど「『起承転結』の崩れたような文章」になってしまうのは、まさに自分が、「起承転結」の応用のような型で文章を書こうとしているということに気づいていないということが原因です。
つまり、「文章を飾る」ために、本題とは違った話題を持ってくるのだけれども、自分が「起承転結」の型で文章を書いているという意識はないために、きちんと「結」で内容をうまく締めくくらなければまともな文章にならないことが全く意識の中から抜け落ちてしまっているわけです。
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の段落を追加し、他も部分的にかなり修正しておきました。
こうのすけさんから下のようなコメントをいただきましたので、上の書き足りない部分も含めて、私の考えを書いておきたいと思います。
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今は亡き明治生まれの祖父の手紙を読んだことがありますが
形式というものは大変のものだと感じたことがあります
中世の人たちが和歌をやり取りするのには高い教養が必要ですが
素地になる知識を積み上げなければ形式を踏襲することなど出来ないのではないでしょうか
起承転結で日本語の作文をするというのは
誰が考案したのか知りませんが
教養がなくても一応何か書くことが出来るための
究極に簡略化された形式ではないのでしょうか
その形式にうまく乗っかっている文章が
全国紙の1面を毎日飾っているのですから
考案した人の戦略は大成功という他はありません
文章には伝えたい内容や書くことの社会的意義などなくてもかまわない
いやむしろそんなものない方がよい
ということが社会や日常生活では常識になっているのでしょう
こういう状況をおかしいと感じる僕はもはやマイノリティなのです
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文章がおかしいのは、本質を忘れた結果だ
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上の修正箇所にもあるように、私は、コラムの文章が破綻してしまうのは、「起承転結」の型を取るからだとは考えていません。
むしろ、「起承転結」の型で書こうという意識が筆者に少しでもあれば、破綻せずにすんだのではないでしょうか。もし「起承転結で書こう」という意識が少しでも筆者にあれば、当然、話のまとまりとしての「結」の部分の重要性は意識するはずですから、今日のコラムほど、破綻した文章になるはずはありません。
文章を飾ろうとするために、文章の中で異質な内容を盛り込みながら、それらをきちんと矛盾無く配置しなければならないという意識がないために、破綻が起こってしまうのです。文章を飾ることに一生懸命で、文章にとって一番大切なものを見失ってしまった結果です。
型は、努力の省力化のためにある
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型については、それがない場合よりもその型が目指すものについては、習得が容易になるから型ができたり、認められたりするのだと思います。
作文や手紙についても、戦前のように、よい作文・手紙の型がはっきり決まっていれば、今日のように「思うことを好きに書きなさい」といわれるより、はじめの取りかかりははるかに楽でしょう。
今日の言文一致に慣れた人から見ると、「よくこんなものを、型を練習して書いたな」と思われるかもしれません。しかし、その当時の文語体の文章が普通であった時代に、その型があったから、型を習得するために、型が無い場合以上の努力が必要になったとは考えにくいと思います。
たとえば、手紙の場合、「始まりの文句、時候の挨拶、本文、終わりの文句」と書くことが決まっていれば、どうやって書き始めようか悩まなくてもすみます。「よく意味の分からない文章を使うな」と思われるかもしれませんが、多くとも12パターンの挨拶を、見本を見て写せばいいだけですから、「この本文を切り出すのにどうやって始めようか」と悩むことを考えたら、はるかに楽なはずです。
その型について見直さなければならない時があるとしたら、それは、みんながその型の形式ばかりにこだわるようになって、型がその目指すものを提供しなくなる時か、もしくは、その型が提供するものよりも、もっと大事な何かを社会が必要とするようになった時かのどちらかでしょう。
そのどちらの場合でも、結局、型にこだわることで、内容が見えなくなってしまった時だということができます。
正しく文章を読み取る目を磨こう
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文章には伝えたい内容や書くことの社会的意義などなくてもかまわない
いやむしろそんなものない方がよい
ということが社会や日常生活では常識になっている
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について、私は「常識になっている」とは思いません。けれども、それは、重点の置き方の微妙な違いだけなのかもしれません。
伝えるべき内容がない文章など、そんなものは理屈で考えたら、誰も認めるはずはありません。そして事実、誰も認めないはずなのに、天下の大新聞が、こぞってそういう文章を、「これをお手本にして文章を書け」と言わんばかりに堂々と発表して、みんなそれをおかしいとも気づいていないのです。そういう世の人のあり方・認識というのは、どこか歯車が狂っているとしか思えません。
そして、そういうような誤った文章観が一般の人たちだけではなく、指導に当たる教師にも蔓延(まんえん)しているわけです。そのような危機的な状況に、今日の作文教育は立たされているのです。
このことについては、また書いてみたいとは思っています。
意味のないやりとりを喜ぶ風潮もある
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上に書いたこととは別に、「意味のあるやりとり」をうっとうしく思う現代人の風潮が、かなり世間で広がっているということは、言えるかも知れません。
まじめな事を言う相手に対して、「何をそんなまじめくさった眠たいことを言っているの」というような人と人のつきあい方がかなり広く行き渡っているということです。
このような間柄の中では、意味のある対話・文章自体がナンセンスですから、書かれる文章も、携帯メールでの、何気ない些細な事柄のやりとりが延々続くような、そのようなものになるはずです。
こうして書かれる文章については、上で問題にしている、社会に向かって投げかける文章とは違う種類のものですから、一応分けて考える方がよいでしょう。
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