3つの文体の違いは、文の質の違いを生む
前回(https://www.sakubun.info/?p=172)と前々回(https://www.sakubun.info/?p=171)と、それ以前とで、文体を変えてみました。これを読んでいただいて、感想はいかがだったでしょうか。
「ただ単に、書く文体を変えただけだろう」とお思いになりましたか。内容は、全く変わらないで、ただ単にNekoが書く技術をこれ見よがしにひけらかして、書き方をちょっと変えてみただけではないかと。
たぶん、多くの方が、そのように感じておられるのではないかな、という気がします。
私が、最近書いている文体は、大きく分けて3種類です。
一つは、教科書に出てくるような、「だ・である」体。話言葉を一切排除して、書き言葉用の言葉を使います。以前お話した、「教科書に出てくるような文体」というのは、これにあたります。
https://www.sakubun.info/?p=152
前回の文章はこれで書きました。
https://www.sakubun.info/?p=172
2つめは、書き言葉体の中でも、かなりくだけた調子。「です・ます」を使い、かなりくだけた感じで書いています。
今、この文章を書いている文体ですね。
そして最後が、最近までこの日記を書いてきた、話言葉調の文体。今のところは、元書いたままですが、そのうち、これらは、上の2つめの文体に変えちゃうかもしれません。と、ここの一文だけ、この文体で書いてみました。
この3つの文体が、自分の思考に与える影響があると、思うのか、思わないのか、たぶん、これらをただ単に文を書く技術上の問題で、本質的な文章の質の差など無いと考えておられる方が多いはずです。
しかし、これらの文体で書かれるそれぞれの文章は、本質的な文章の質の違いがあることを、皆さんもっと自覚しておいた方がよいと、私は考えています。
書き言葉の文体は、思考の厳密さを要求する
前回ような、書き言葉体の教科書に出てくるような文章を書いてみて、やはり相当疲れました。時間もこれまで書いてきた文章の2倍ぐらいかかったかもしれません。
本人の文章のつながりに対する自覚の程度により、幾分かの差はありますが、このような書き言葉の文体は、文の流れのつながっている部分、つながっていない部分を一番明確な形で我々書く者に自覚させてくれます。
この文体をとると、「です・ます」や、まして、話言葉の文体などでは、気にならなかった、自分の文章のつながっていない部分が、否応なく出てきてしまうので、その部分を解消しようとしていくと、必然的に時間がかかってしまうのです。
ある程度「書きたいことがある」と思っているのに、「いざ文章にしようとすると、書けない」ということが、よくありますよね。こういう時の状態というのは、頭で考えたり、口でしゃべったりする分には、何とかつながった論理的な思考をしていると自分では思っているのだけれども、いざ文章にして、思いをつなげて書いていこうとすると、自分ではつながっていると思っていた思考の、実はつながっていない部分が、やっぱり何となくつながらないで、違和感を感じてしまうというようなことなのですね。だから、「文章など、もうこりごりだ」ということになってしまうのです。
これを別の言葉で説明すれば、このような状態に陥るときの我々の分かり方というのは、書き言葉の文体の文章にするほどの厳密さでは、因果関係をとらえきれていないものだったということなのです。
これを試しに、「です・ます」体、話言葉体、文章ではなくしゃべってみる、とやってみると、その順に、書きやすく、話やすくなってくるのがよく分かるはずです。
要するに、その順で、つながっていなくてもつながった気で文章を作れる度合いが高まってくるわけですね。
これまで、私もいろいろな文章を書いてきて、この小論文や作文を話題にしているmixiの日記のような文章では、厳密な思考ができていない部分があって、どこかかなりごまかしているところがあるだろうなとは、漠然とは感じていました。
でも、その時の予想としては、「どこか」というぐらいで、具体的なイメージとして「どこまで」という所まではなかったのです。
ところが実際にこのような文章を書いてみると、これまで軟らかい文章を書き流していたときと較べ、現実にかなり時間が余計にかかる。さらに、これまでの文章だったら、たぶん書いていただろうなという話題でも、どうしてもその中に入りきらずに、書けなかったものが出てきました。
なぜ書けないのかは、以上の説明の通りです。曖昧にその内容を入れ込んでしまうのではなくて、文の流れの中に入れ込もうとしたときに、その話題がどうしても流れに乗らなかったということです。
このようなことで、久しぶりに教科書のような文体の文章を書くことで、改めて、思考の流れを大切にした文章とはどのようなものか、というのを再確認したわけです。
「です・ます」を使った柔らかい文章体
「です・ます」を使った柔らかい文章体については、「です・ます」という、文章の内容とは関係のない余分なものが常に入ってくるので、上の教科書のような文章と較べると、必ず、間延びした、長さの割に、内容がのらない文章になります。
そして思考の厳密さについても、柔らかく書こうとする分、あまりきちんとつながっていなくても、気にならないように書くことができてしまいます。
ですから、この文体を使って、厳密な思考を持った、親しみやすい文章を書こうとするのは、教科書体の文章を書くよりははるかにむずかしいことなのです。
高校生など、文章を書き慣れない人は、「だ・である」調の文章を自分が書くということについて、「何か自分がえらそうぶって書いている様に人から思われはしないか」、というてれくささがあって、「です・ます」調の、こういう文章を書きたがります。
https://www.syouron.com/nyuumon/?page_id=13
しかし、それは、つまり、「だ・である」などの、思考の厳密さだけに注意を集中して文章を書くことができる、教科書のような基本の文章を書く練習をしないで、いきなり高等な応用技術を練習しようとしているようなものです。
ですから、「です・ます」の見かけの易しさに惑わされて、このような「です・ます」の文章を書く練習を最初にするのは感心しません。これでいくら練習をしたつもりになっても、いつまでったってもましな文章を書けるようにはなりませんから、その点をきちんと把握しておかなければなりません。
なお、このように「です・ます」を使う文章では、全部の文末で、敬体、すなわち「です・ます」で統一します。
私が書く文章は、一部で文にリズムを付けるために、「です・ます」を付けないで、「〜する」で終わらせるような書き方をしています。大学入試などの試験では、このような書き方は減点の対象になりますから、まねをしないでくださいね。
敬体にするためには、このように「です・ます」を常に文末にくっつけなければならないので、これを使うと、全体に文末が単調になってしまいがちです。それを、そう感じさせないための技術的な配慮も必要です。
話言葉調の文体は、頭の中の曖昧さをそのまま反映する
話言葉調の文体は、頭の中をそのまま反映しようとするものだと考えればよいかと思います。
私たちの思考というのは、かなり筋道立てて考えていると自分では思っていることでも、かなりアバウトな相互関係で物事を考えています。それが、このような文体を取ろうとするとき、かなりストレートに出てきます。
先日、私のこの話言葉体の文章に対して、下のようなコメントをいただきました。
https://www.sakubun.info/?p=170
私の書く文章の内容・くどさはともかくとして、このように「何処か今時の中高生のような表現をしているよう」に感じられて、読者にこびているかのように受け取られるのは、おそらく、この文体が、頭の中の思考を、割合ストレートに反映しやすいということも影響していると考えられます。
私の場合は、岡山の人間ですから、
「わし(私)の、話言葉の文体言ぅのは、自分の岡山弁を標準語のよーなもんに翻訳して、文章にするんじゃあけぇど(のだけれど)、考えかたそのもんは、せー(それ)ほど、つながりのついてねー(ついてない)人間ほど、めちゃめちゃじゃあねぇけぇ(ないから)なあ」
という様な感じで思い浮かべたのを、「私の、話言葉の文体というのは、自分の岡山弁を標準語のようなものに翻訳して、文章にするんですけど、考え方そのものは、それほど、つながりのついていない人間ほど、めちゃめちゃなわけではないですからねえ」
と、こんな感じに翻訳して書いている訳ですね。
あまり思考の整理を付けることができない人が、これを使ったら、たぶんつながりのあいまいな「うまい」?話言葉になるんでしょう。でも、私の文章では、かなり砕けてつながりは、少しいい加減になっているとはいっても、話言葉の柔らかい文体にすぐ直せるほどの、整理ぐらいは少なくともついている。だから、普段書き言葉体を見慣れている人が見れば、文体の調子と、思考内容の整理の付け方との調子に、違和感を感じて、何か読者にわざとらしくこびているように思われてしまう。おそらく、こういうことが起きているのではないかという気がします。
このように、話言葉体というのは、基本的に頭の中の言葉を割合ストレートに表現する言葉ですから、言葉自体に、思考のつながりの薄さを反省させるような機能は少ないのです。
まとめ
以上、文体と、人の思考との関係を理解していただけたでしょうか。教科書に書く文体から、話言葉体になっていくほど、無自覚にやれば、論理のつながりがいい加減でも、文章文として一応つながったように見えてしまうのです。
だから、そのような砕けた文体を使いながら、なおかつ厳密な思考をしようとすれば、それを使う側が、かなり意識的にそのための努力をしなければなりません。
ところが、そのような努力をしても、やはり、そのような説明だけでは、言い足りていないところが実はまだあります。
その言い足りていないところとは、文体が、その人の思考を形成しているということです。いくら厳密な思考をしようとしても、「です・ます」を使いながらでは、どうしても限界があって、教科書のような文体で書くときほど、厳密にはなりきれない。
厳しくいうと、本当はそういうところがあるのです。
話言葉体の文章を卒業するには
以下、技術的な話として、誰でもできる、自分の文章を「文章体」にするワンポイントレッスンをします。
簡単ですよ。
文末に「です・ます」を付けない。
「けど」
「〜なんです」
「すごい」
それから、文頭の
「〜。なので、〜」
これらを全てやめてください。そうすれば、それだけで、あなたの文章は、見違えるようにしっかりとした文章に見えるはずです。
「けど」「だけど」は、最悪です。何を書いても小学生の作文のようになってしまうのですから。
これを、「けれど」「だけれど」と変えるだけで印象はがらりと変わるでしょう。
「けれど」「だけれど」が、文章体と話言葉体のぎりぎりの許される境界線です。「でも」「けど」になってしまうと、もうだめ。
もっと、教科書のような文体に近づけていきたければ、「しかし」「だが」とやればいいわけです。
「すごい」は、他の文章に使える言葉に換えて、なぜそうなのかを読んでいる人に分かってもらえるように、詳しく説明します。
コメント
>文体が、その人の思考を形成しているということです。
面白い表現ですね。表現者が伝えたいことをその人がこれまで出会ってきた言葉の中から、表現者がある文体を選択するのではないかと思っていたので、その逆がありうるということですね。面白い。
村上龍の書いた「半島を出よ」の中に詩人のイシハラが登場します。支離滅裂の言葉を使いながら、物事の本質を表現する人です。架空の人物ではありますが、村上氏の頭の中では存在していたわけです。イシハラはどんな思考形態をとっていたのだろう、と今回の日記から考えました。
そうですね。今回マイミクになり、いろいろ文章の大切さを痛感しはじめているところです。
もともと国語は得意ではなかったので、これからもご指導・ご鞭撻よろしくお願いいたします。
足跡からで失礼します。たしかに文体の違いは大きいですね。まったく同感です。
以前に大学院入試で「です・ます」調で数学の証明を書いてみたのですが
やたらと長くなりました。(普通はそういう書き方はしないものです)
普段、mixiでは格式ばった印象を与えないよう意図的に教科書的「でない」
書き方を心がけています。それでも「すごい」と「すごく」の誤用には抵抗がありますね。
論理学や哲学、数学基礎論の方は厳密な記述が必要だから大変そうです。
言葉って難しいですね、言葉の定義に既に言葉を使うという不可避な障害が
ありますからね。国語を教えることができる方は尊敬してしまいます。
初めてコメントさせていただきます。
私は「文体が文の質(性格というべきでしょうか)を規定する」という論旨とは、正反対の理解をしています。すなわち、「です・ます」調を用いることが論理的文章を書く妨げになるというよりも、論理的文章には常体の方がしっくり来るという捉え方です。
その最大の原因を考えてみますと、「です・ます調」は、形式的とは言え敬語である丁寧語を使っている点が挙げられます。敬語は、感情を含むものです。一方、真に論理的な文章は、書き手からさえも離れて客観的に吟味されるべきものです。とすれば、論理的文章に敬語の一種の丁寧語を用いることに違和感が生じても不思議ではないということになります。それは、つきつめると「書き手=文章」対「読み手」という構図になってしまうからです。
かかる背景があって、論理的文章では常体を用いるのが、言ってみれば「作法」になっているのだと認識しています。
正反対のアプローチにも関わらず、「論理的文章には常体を使うほうがよい」という結論は同じです。
正しいかどうか不安が残るところですが、私は以上のように理解しています。
今回、言葉の奥深さにあらためて思いを致すことができました。この場を借りて御礼を申し上げます。
足跡からお邪魔しております。私は、3つの文を携帯から見させて頂きました。正直に申し上げます。文章を比較したり、内容を深く考えたりしにくく、最終的に私はあなたが何を伝えたいのか分からなくなってしまいました。正直混乱しています。書いてある内容が、全く異なり、内容を考えながら、文章の構成を読み解く事は非常に難しいです。もし、内容が同じで、文章の構成のみが違っていたら、また別の考えに至るのでしょうか?
またまたお邪魔させていただきますm(__)m
文体が文の質の違いを生む・・・確かに、
そうかもしれません。
しかし、作者が『それ』を意図して、
巧妙に文体を使い分ける場合も無きにしも非ず、だと思いますし、
また、それはかなりの『高等技術』とも言えるかと思います。
そうした『技術論』を論ずる前に、先ず私達は
『正しい思考の導き方』の練習をしなければならないのではないか、
と思います。
思考の導き方、と云うと大層かもしれませんが、
原因・理由→経過→結果・結論というプロセスを
おろそかにしている面があると思います。
それを踏まえず、『国語』という教科の中でだけ、
『論文の書き方』『小作文の書き方』として
起承転結や書き方の法則を教えられたりしても、
生徒としては消化&昇華できないと思うのです。
物事を順序だてて考える事の大切さについて、
学校教育はもっと時間を割いてもよいのでは・・・と思う次第です。
趣旨から逸れていたら申し訳ありませんm(__)m
小説や詞(虚構)はそこそこ書けるのに
作文や論文(事実)を書くことが苦手な人間からでしたm(__)m
ねこさんの日記を読むといろいろ考えさせられます。
今回は文体ということで…
私の日記は基本的にです・ます調です。頭に描く話相手がいるからだとは思いますが、である調で書くと面映ゆいので。
時にはただの喋り言葉に徹したりもします。
それで思考の甘さが浮き彫りになる。
それもいいではないか!
というのが私の考えなので。
だって日記ですから。
でも、難しい事も深く考える、考えてゆける文章を書ける技術を持つのは、とってもいいことだなって思いました。
BLADEさん、Takami-nekoさん
記事を参考にしながら、次の記事を書いてみました。(https://www.sakubun.info/?p=178)
ゆうちゃんさん
こちらからも、よろしくお願いします。
laughting manさん
「『すごい』と『すごく』の誤用」とは、どのようなことでしょうか。
果たして尊敬されるほど、「国語を教えることができ」ているのかどうか、不安ではありますが、いろいろ努力はしています。
りえたん@檄!鬱中さん、ペスさん
記事を参考にしながら、次の記事を書いてみました。(https://www.sakubun.info/?p=179)
個人攻撃をするつもりはないので、悪く取らないでくださいね。
Miwa☆Miwaさん
>文章を比較したり、内容を深く考えたりしにくく、最終的に私はあなたが何を伝えたいのか分からなくなってしまいました。
おっしゃるとおり、まじめに比較しようとすればするほど、ちょっと難しいかもしれません。まして携帯から見るのでは。
どれだけ比較がうまくいくか分かりませんが、とりあえず、同じ内容のものを三つ文体を変えて書き換えてみました。書き換えた感想は、そちらの方に書いておきました。
・元記事「読者に迎合しない」(https://www.sakubun.info/?p=172)
・「です・ます」(https://www.sakubun.info/?p=175)
・話し言葉調(https://www.sakubun.info/?p=176)