前から続く
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文章の途中で、10,000字制限に、またまたなってしまいました。前の日記から懲りもせずに記事を続けることにします。
現代において伝わらない???
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サンタ まりぁさんのコメント
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【言葉について】
「!?(笑)は、使わないようにしましょう。」
これは、かつて「〜〜は、つかはないやうにしませう。」と表記されました(歴史的かな遣い)
おそらく、その時代では表記通りの発音をしていたはずです。それがいつの間にか音便や訛りのようなが原因で文字と音が分裂しだして現代仮名遣いに変わっていったわけですね。
その時代の正しい日本語を教えようとすれば「使わないやうにしませう」と書くのだから、文字に忠実な発音を指導していたはずです。
私にはどちらの仮名遣いが国語的に正しいのか判断できませんが、歴史的仮名遣いが正しくとも、現代において伝わらないものに意味があるとは思いません。
逆説的な話ですが、「明日も元気でがんばりませう」なんてコメントを見たりします(笑)
ご子息の話ですが、小学校2年生が「ぼくはね、お父さんと・・・・」といった文章を書いても何の問題もないと思います。これが「私は、父と・・・・」とやったらそっちのほうが大問題でしょう。
【ふさわしい場所 空気を読む】
私は俗語卑語に寛容ですが、当然、ふさわしい場所限定です。服装にたとえてみると、正式な和装もあれば、海パンもあり、ジャージもあります。卒業式に海パンで出席したら、ふさわしくないといえますが、海水浴に和服で出かけるのも常識的でない。
これをmixiになぞって考えれば、私の論旨は、ご理解いただけるのではないでしょうか?
文字の制約がある。
論文を書いたところで横書きでしか表記されない。
「日記を書く」欄はあっても「論文を書く」欄はない。
ほとんどの方が、ここで日常報告的な日記を開示性と匿名性をうまく利用し、喜びや悲しみ悩みなど表現することを楽しんでいるわけです。同情、共感、叱咤、アドバイスを得るためには、自分らしさが表現できないと意味がない。だから!?(笑)はある種の要約だったり、口語表現の活力的部分の代わりだったりするわけです。
先生の足跡によって私はここにお邪魔しましたが、皆様のコメントを見ていると、皆さんが正装でいるところに私が海パン一丁で飛び込んだ感じなのかもしれません。(一応隠すところは隠れてます)
しかし、ほとんどの人が普段着のはずですし・・・・少なくとも私のマイミク様は100%普段着です。
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歴史的仮名遣いの解釈はともかくとして、「!?(笑)」を使わない文章では、「現代において伝わらない」とサンタ まりぁさんが考えていらっしゃるのに対して、私は、「!?(笑)」を使うと伝わらなくなってしまう部分がある、と考えている点で、認識が根本的に違っているようです。
「正しい書き方」も確かに必要ですが、「正しいからそれを使うべき」というような観点から、私がこの話をしてきたのではないことは、これまでにもくどく言ってきました。
「!?(笑)」がある安易な表現でなければ受け付けない人たちが多くなってきているということと、「!?(笑)」を使えば、情感や内容をきちんと伝えることができるということとは、全くの別問題であることを、きちんと把握しておかなければなりません。
極論を言えば、たとえ、それを使わなければ、受け付けない人たちがどれだけ増えようとも、その表現に大いなる限界があるのなら、そのことを正しく認識しておくべきだと私は思います。
しかし、これは極論で、確かに、「!?(笑)」などがある安易な表現でなければ受け付けない人たちが多くなってきているとはいえ、きちんとした文章に対する感受性を育てていらっしゃる方は、まだまだたくさんいらしゃると、私などは信じています。それほど、皆さんの読む力を見くびりたくはないですね。
子どもは子どもなりの文章表現
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何も子どもに大人のようなませた文章を書かせようとは私も思いません。
しかし、会話体の文章であっても、文章は話言葉そのままではありません。まして、文章を書くには、会話体ではない文章の方が有効な場合も多いのです。
文章を書くのに、「文章は会話とは別のものなのだ」という自覚がないことから、文章が書けなくなってしまう例はいくらでもあります。
ですから、小さい子どもの時から、子どもであっても、子どもなりに、「書き言葉と話言葉とは違う」「使い分けなければならない」という感覚を育てておくことは大切です。
これまで、私の息子の日記の宿題は、問答をしながら、とおちゃんが、ほとんど文章にしたものを、写させてきました。しかし、先日は、こちらが何も口出しする間もなく、知らないうちに、下のような文章を書いていました。
せかいのさく文
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ぼくは、さばくをあるきました さばくは、とてもひるはあつくて、よるはとてもさぶいです。だからそんなに、どうぶつがすんでいません あついから らくだはこぶのところに水をたの(「め」の間違い)てます。だからあついところでも水のまなくてもいいです
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日記
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きょう、くるまのはくぶつかんで、くるまにいっぱいのりました。ボンネットバスでいいせきがとれてうれしいきぶんでした。うんてんしゅさんといっぱいはなしました。ほしいトミカがいっぱいありました。また、いきたいです。
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おかしな所もたくさんありますが、こういう文章を書くようになれば、「作文の書き方」「書き言葉と話言葉とは違う」という感覚を、小学校2年生なりに、少しは伝えることが出来ているのかな、と考えています。
ふさわしい場所で、ふさわしい表現を使えばいいというけれど
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「くだけた表現は、くだけた表現として、教科書のような文体を要求されているときには、それにふさわしい文体で、書き分ける」と多くの方が簡単にいいます。
しかしこの「書き分ける」ということは、そんなに思うほど簡単にできるわけではありません。
普段、学校でだらしない格好をし、敬語など一切使う気のない生徒が、就職試験などの「面接の時にはきちんとやる」と言い、自分では「きちんとできる」と思っています。でも、そんなことはできるわけはないのです。それは、「きちんとする」ということを、理屈として頭で理解したつもりであっても、それを実際にやったわけではないから、本当のところが分かっていないからです。
文章もこれと同じで、普段、教科書のような文体で書くことを練習していない方が、いつも、くだけた文体で書いていて、「いざとなったら、使い分けるよ」と考えているほど、それほど文章というのも甘いものではありません。
それは、実際に書くときの、言葉に対する感覚が、これら二つで微妙に異なっているからです。
だから、書けるつもりであるけれども、実際には書けない。くだけた文体をどこまでもずるずると引きずってしまいます。
私が、このmixiの日記で説明しようとしていることは、この辺りの、文章を書くときの、筆者の心に働く裏の心理です。それに気づけば、色々な文章を自在に操れるようになると思うから、あえて、裏の心理を辛口で説明しています。
ですから、実際に、教科書のような文体でも、効果的な小説でも、あるいは今はやりのメールのような文章でも、本当にきちんと使い分けることが出来ているような人なら、私がこの日記で説明しているようなことは、あえて口にしなくても、きちんと分かって使い分けていらっしゃるに違いないと私は思います。
mixiで裃(かみしも)を着て歩いている???
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これも毎回くどく書きました。私はmixiという限定された場での文章のことなど問題にしてはいません。
mixiという場に限定するなら、みんなが部屋着でくつろいでいるところで、Nekoが裃(かみしも)を着て、がんばって自己主張をしているというような感じでしょう。
mixiで、日常をさらけ出しながら、まだ見ぬ友達を求める心理の危険性については以前書きました。「そういう危険性は知っていた方がいい」と私は思っています。でも、mixiでは皆さんそうなさっていて、mixiというのは、そういう場です。そういう場で、私は違う使い方をしているわけだから、そういう意味での違和感をお感じになるのは、むしろ当然かも知れません。
しかし、また一方で、私のような日記に対して、こういうまじめなものを読みたいと思っていらっしゃる方もたくさんいらっしゃるので、わたしは、私の思いを伝える場として、このmixiを利用しています。
用途と、形式からいえば、私のような内容は、ホームページかブログ向きでしょう。これをmixiから、ブログに転載していこうとも考えています。
しかし、いくら用途がきちんと合っていても、読者に読んでもらえなければ、書く意味がありません。その点、mixiは、多くの読者に読んでいただけるので、mixiで、場違いな日記を書いているだけです。
コメント
ブログよりmixiの方が好ましいです。ブログは一方通行的な所があるので、私は好きではありません。
mixiでブログ的にお書きなるのが中庸でよろしいのではないでしょうか。
コミュニケーションはmixiの方は取りやすいです。
最終的にはご自分での判断ですが。
失礼します。
【正しい文章が書けようと、礼儀が身に付かないなら教育には意味が無い】
日記「表現の奥に動いている心理」で、私を含め7名の方コメントされています。
ざっと確認しただけなので見落としがあるかも知れませんが、「たか〜ら様」「りゅうじろう様」そして、一番どうでもいい「私」のコメントにしか反応されていません。
10,000字制限があろうと20,000字制限だろうと、最優先すべきことが出来ていません。「せっかくコメントをいただいたのだが、返礼する気が無い」といったことを表現されているのでしょうか?
いくら美辞麗句を並べようと、間接的にあなたはこの場で「返礼も出来ない大人(しかも教育者)」を表現していることになります。
前回の日記に「ありがとう」の表現方法が云々・・・ありますが、「あんがと」だろうと「あざ〜す」だろうと粗野な表現でも取り急ぎお礼すべきです。
「コメントくれた皆さんすんません。忙しくて個々に返礼できません(泣)まとめてお礼します。サンキュ!」
の一行でいいんじゃないでしょうか?
20,000字近く使って書き記した日記を、いま一度要約し、礼儀礼節を欠いていないかご確認ください。
体言止、倒置法の多用された文章はいかにも安易で、鼻につきますが、敷衍ばかりの文章も非常に読み難いですね。辞書が必要なほど難解な単語は努めて敢えて使用していないのはわかりますが。
mixiにしろ、ブログにせよ、まとまった量の語数を含んだ文章をネット経由で開示して、パソコンの画面から人に真意を伝えるのは無理があると感じています。Neko Fumioさんの書かれている文章(20,000字)も二日に分かれているので、読み返そうとすると前の日にアクセスしなおさなければならないし、全文を通して読むには何度もマウスをいじりながらスクロールしなくてはならないので、文章を俯瞰して理解するのが難しいです。
もしこの文章が文庫本あるいは、新聞の紙面に書かれたものであるならば、文章から受ける印象は異なったものになるのではないでしょうか。前の文章に戻りたければ、紙のページをペラペラとめくればいいだけの事ですし。
私自身もmixiで日記をいくつか書いていて、そこに書かれたコメントを拝見していて感じた事ですが、2000字を越えるとコメントの量が減ってきます。おそらくは文字を読むのに画面をスクロールするという作業は読み手の心理に負担を与えていて、読むことよりPCを操作する事に手間がかかるので、文章の理解を阻害しているのではないか。というのが私の仮定です。
スクロール無しで見渡せる量の文字の中に、一つの意味を読み取れる文章にしないとPCの画面で読むことを想定した文章は読み手に真意が伝わらない。そう考えると、印刷される事を前提として書かれた長文とネット上での情報交換を想定して書かれていた文章とでは、その技法が異なってくるはずだと考えています。
PCの画面というサイズの制約の中でどう相手に真意を伝えるのか。興味あるテーマです。
「文章の書き方」というNeko Fumioさんのテーマとはずれてしまっているかも知れませんが、思うところを書かせていただきました。
zaza*39さん
おっしゃるとおりです。mixiは、みなさんが本当に本気になって反応してくださるので、使いようによっては、すばらしい世界であると、私も思います。
ブログや、ホームページは、ほんと反応がありませんから。
サンタ まりぁさん
ご忠告、せいぜい肝に銘じておきます。
キンさん
ありがとうございます。返事を日記の方にしてました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=803883232&owner_id=14874745&org_id=802600423