2008年2月23日の「だ・である」の文体で文章を書けるように訓練しようのコメントで、ひまわりなつこさんが、文体を変えて書いてみる実験面白い実験をなさっています。13年も経って今更の感はありますが、面白い実験なので、これを考えておくことにします。
今日の記事の概要
例文が多いので、途中に言いたいことを挟んでいると読むのが嫌になってしまう懸念もあるので、今日の記事の概要(言いたいこと)を先に書いておきます。
ひまわりなつこさんが、文体を変えて書いてみる実験面白い実験をしてくださっています。最初に話し言葉調の文章(No.1 )で書いて、ここには再掲していませんが、「読み手の理解度を考えながら敬体で日記を書く」例文を経て、「No.2 読み手の理解度を考えながら常体で日記を書く」文章です。
この実験を通して、「読み手を意識して常体で言い切るにはそれなりの覚悟がいって、その分心をみつめる結果になりました。」という報告をしてくださいました。
彼女が言う「読み手の理解度を考えながら」には、「読者に自分の気持ちを理解してもらおう」という意識を持って書くという意味合いが強いように思います。その結果、俺の心理分析が進んで、説明がどんどん増えていきました。それで今度は、気持ちはくどくどと説明してあるのだけれども、なんかその時の臨場感というものが薄まっているようで面白くない。そんな結果になってしまっているのではないでしょうか。
それをN0.3の様に書き直したらどうなるか。ある程度臨場感を持ちながら、No.1よりも遥かに深く自分の心理も説明している。そういう文章になっているのを実感できますでしょうか。
普通我々の頭の中の思考というのは、No.1の様に、言いたいことがあって、自分は言いたいことをしっかり分かっていると思っているのだけれども、よくよくそれは何かと考えてみたら、自分の思いを捉えきれていないところがある。それを突き詰めていったらNo.2の様になるのだけれども、それをさらに言いたいことに焦点を当てて推敲し直して、No.3の様に仕上げていくということが、私が体得してほしいと願っているまさに作文推敲の真髄なのです。
みんなが普通使う事が多い話し言葉体にはない「だ・である」の破壊力を実感していただけたらなあと思います。
ひまわりなつこさんの実験
No.1 はなし言葉でいつものように日記を書く
珍しく親父が早く帰ってくる。帰ってきたってかまわないが、ご飯の時間が
早くなるのが断然困る。いつもより早い時間に晩御飯を飯べたくないんだよね。
親父は腹が減ってるかもしれないけど、俺はまだ減ってないんだよ。
それなのに
「ご飯よう」なんておふくろに呼ばれると、気が重くなる。で、
「はーい」と、返事をするものの、食べたくないんだよね。
逆らってるつもりはないけど、ちょっと行くのが遅れると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、親父は言う…
いや、「待ってるのはあなただけでしょう」といいたいよ。
よく学校の先生が、「子供と一緒にご飯を食べると円満家族」とか
保護者にいうけど、何もご飯中しか親子の会話ができないわけでなし。
親父の説教をききながら食べても、おいしくもなんともない。
第一、保護者にそういってる先生が
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」なんて、教室でぼやいている。
知るか!そんなぼやきは、一人でしてろ!ってな感じ。
世の中の親父ってそんなに子供とご飯たべたいわけ?
No.2 読み手の理解度を考えながら常体で日記を書く
今日は父が早く帰ってくる。父が早く帰ること自体に関心はない。
関心がないというと語弊があるので弁解しておくが、つまり、
父の帰宅時間は父の都合で決まるべきと私は思っている。しかし、
その父の行動により、晩御飯の時間が一定しないのが困るのだ。
特に帰りがいつもより早くなることは苦痛だ。
いつもより早い時間ではまだお腹がすいていないために、おいしく晩御飯が飯べられない。
それに、食事はお腹が空いてからとるほうが、僕的には身体に合っている。
父の空腹は理解できる。しかし、繰り返し言うが、僕の食欲はまだ目覚めていない。
だから、食事時間が一定しないことに若干の抵抗感はある。
しかし、母は、父のペースにあわせて動くし、
一日家族のために働いてきた父に合わせるくらいのモラルは僕も持ち合わせている。
「ご飯よう」と、よばれると、気が重くなることもあるが、
「はーい」と、僕は返事をする。返事をしないと繰り返し呼ばれ、
そのことがまた、僕の反発心をあおるからだ。その反発心は、まだ食べたくないのに
両親のために合わせようとしている、その僕の思いやりを理解されていないと感じることから
生まれてくるのだと思う。それなのに、ほんの少し、僕が食堂に行くのが遅くなると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、父はあきらかに不機嫌な顔をする。
みんなが父にあわせていることに、まったく気づいていないからこそ
生まれる父の不機嫌さだと思う。もちろん、空腹ゆえの苛立ちもあるだろうが。
ところで、「子供と一緒にご飯を食べると円満な家族になる」と、
保護者説明会で母が聞いてきた。たしかに、幼児が一人寂しく食べる姿は僕も望まない。
しかし、中学高校となれば話は違う。個々に生活ペースが生まれ、
皆で食べることに固執しすぎると、返って不利益がでることもあるだろう。
こういうことを、中学の保護者会に伝えたがる人たちというのは、
食事の時間しか親子の会話をしてこなかった人たちの発想だと思う。
僕の父は、食事中にあれこれ僕に注意をする。なかばそれが習慣になっている。
たまにしか顔を見ないからというが、食欲もないのに、注意をされながらの食事では、
おいしくない。食事時間を合わせてあげているという思いもあるせいか、
いつもよりさらに父への反発心が募る。
食事は食事、注意は注意、親子の情をはぐくむのは別の機会と、
分けたほうがいいような気がする。少なくとも、僕と父の間では。
そういえば先日、
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」などと、先生が教室で嘆いていた。
保護者に「子供とご飯を食べよう」と指導したのに、自分は実行していない。
そういうことを生徒に伝えて何の価値があるのだろう。自分ができないことを人にいう
節度のない先生と自らを認めたことになるだけである。しかし、
娘とご飯が食べられないことがそれだけ寂しいということなのだろうが。
先生のように、家族で食事をしたいと心から願っている父親は、多いのだろうか?
それとも、一緒に食べるべきだと思っているから寂しく感じるのだろうか?
No.3 「だ・である」体で推敲 Neko Fumio
今日は父が早く帰ってきた。
父が早く帰ること自体には問題はない。しかし、それによって、晩御飯の時間が一定しないのは困る。
特に帰りがいつもより早くなることは苦痛だ。いつもより早い時間ではまだお腹がすいていないために、おいしく晩御飯が飯べられないからだ。
しかし、母は、父のペースにあわせて動く。何事も、一日家族のために働いてきた父に合わせるのは、仕方がないことなのかもしれない。しかし、「ご飯よう」とよばれると、気が重くなる。
「はーい」と、僕は返事をする。返事をしないと繰り返し呼ばれ、そのことがまた、僕の反発心をあおるからだ。それは、まだ食べたくないのに両親のために合わせようとしている、その僕の思いやりを理解されていないことへの反発心でもある。
それなのに、ほんの少し、僕が食堂に行くのが遅くなると、「遅い、みんな待っているんだぞ」と、父はあきらかに不機嫌そうな顔をする。みんなが父にあわせていることに、まったく気づいていないからこそ生まれる父の不機嫌さだ。
「子どもと一緒にご飯を食べると円満な家族になる」と、保護者説明会で母が聞いてきた。
たしかに、幼児が一人寂しく食べる姿は僕も望まない。しかし、中学高校となれば話は違う。個々に生活ペースが生まれ、皆で食べることに固執しすぎると、返って不利益がでることもあるのではないだろうか。
こういうことを中学の保護者会に伝えたがる人たちというのは、食事の時間にしか親子の会話をしてこなかった、発想の貧しい人達なのではないかとさえ思う。
それに、僕の父は、食事中にあれこれと僕に注意をする。なかばそれが習慣になっている。「たまにしか顔を見ないから」というが、食欲もないのに、注意をされながらの食事では、さらにおいしくなくなる。
食事時間を合わせてあげているという思いもあるせいか、より一層父への反発心が募る。
食事は食事、注意は注意、親子の情をはぐくむのは別の機会と、分けたほうがいいような気がする。少なくとも、僕と父の間では。
そういえば先日、「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」などと、先生が教室で嘆いていた。
保護者に「子どもとご飯を食べよう」と指導したのに、自分はそれが実行できていない。そういうことを生徒に伝えて何の価値があるのだろう。
しかし、父親は父親で、娘とご飯が食べられないことがそれだけ寂しいということなのだろうか。それとも、一緒に食べるべきだと思っているのに、それがかなわないがゆえの寂しさにすぎないのか。
これ、文章としても結構面白い文章に仕上がりましたね。
コメント