文章を書く快感ってありますよね

 昨日の日記に対して、かもめさんから、うれしいコメントをいただきました。

自分のメッセージを使っていただいてありがとうございます。

あと、お願いがあるんですけど、僕みたいな国語の偏差値が30くらいで小論文なんか全然書けない高校生に伝えて欲しいです。

最初は、何も書けないかもしれない
指定された字数を埋めるのがまるで拷問のように感じるだろう
それでも歯を食いしばって書くんだ
書いているうちに、論理的に物事を考えることができるようになってくる
それは、将来、何か壁にぶちあたった時に、それを乗り越える力になる
大学入試が終わって、大学に入っても文章を書くことを続けて欲しい

 私、ほんと、これを伝えたくてやっているんです。私の気持ちをうまく、的確な言葉で表現してくださって、とってもうれしいです。

>僕みたいな国語の偏差値が30くらいで小論文なんか全然書けない高校生
と書いてくださっています。
 確かにそういう方は文章を書くことに対してよけい無駄なコンプレックスが大きいかも知れません。
 でも、本当は、偏差値が50くらいでも、また70くらいでも、やっぱり、「自分は文章は書けないな」というコンプレックスを持っている方は多いんです。
 わたしよく言いますが、国語の先生でも、文章を書くのが嫌な先生って多いんですよ。ほんと。

「書きたいこと」を分かっているつもりになっているだけ

 で、それはなぜかというと、文章を書く時、「自分が言いたいことがある」と、分かったつもりになっていることをいざ文章にしようとしても、文章にならないからです。
 偏差値がどうであろうと、文章を書くためには、自分が感じていることを、「本当に自分が言いたかったのは、どういうことなんだろう」と、もう一度よくよく振り返って、自分の本当に言いたかったことを、「見つけ出して」こなければいけないからです。

 ところがこれは、本当はしっかり把握していないことを、はっきりさせる作業なので、誰にとってもめちゃくちゃ大変です。しんどいんです。

 で、みんな、「分かっているつもり」、プラス、偏差値が高い人は、「ほんとうは、書けるはず」、国語の教員などは、「人よりは書けないといけない」もしくは、「書けると人に思われている」ということで、プライドはある、なのに、実際には、そのプライドを裏付けるほどうまくは書けない。
 だから、偏差値がどうであろうと、みんな文章を書くことについては、コンプレックスを持っている人が、とっても、とっても、とっても多いんです。
 ほんと、「ほとんどの人が」と言ってもいいぐらい。

書くに値する濃縮した時間について書かせる

 これ、たしかに、我々国語の教員の責任でもあるのでしょうが、作文の指導をするのに、担当しなければいけない生徒の数も多すぎます。
 一クラス40人なんて、本気の添削なんか、何度もできるわけがないです。
 でもう一つ、教員の責任は、手軽だから、行事の度に、時間つぶしもあって、書き方を教えないまま、作文を書かせちゃうんですね。
 私もよくやりますが。

 たとえば、あなたが何か旅行に行ったとして、その旅行について、作文を書けますか。

 私は難しいですね。

 何をしても、現実というのは、平凡な毎日の現象の延長でしかないんですね。
 そういう「平凡な毎日の現象の延長」である、経験した現実の中から、何か書くに値するようなテーマを一つ無理矢理にでも見つけ出してきて、そのテーマを読者に一つの統一した話として訴えていかなければ、文章にはならないんです。
 だから、たかが、「球技大会をやった」とか、「遠足をした」というぐらいで、ほんと普段毎日やっていることの延長のような体験で、心の持ち方で、自分の感じていることを突き詰めて、「こういうことだったのか」と発見しようとしていない時には、ちょっとまともな作文なんて、書けるわけがないんです。

 そういうことをやらせてしまうから、余計作文嫌いがどんどん増える。こういう悪循環を生んでいるわけですね。

本質的訓練を積んで、文章作成の原体験を得る

 で、どんどん話があさっての方向に流されていっているわけですが、このような事態を起こさないために、それではどうすればいいかというと、「自分が、これまで一番本気で考えた」「本気で悩んでいる」「何が何でも、これだけは言いたい」そういうことについて、とにかく、ありったけの力を振り絞って、全力をあげて、その内容を、作文にしてみるしかありません。

 でも、そんな内容でも、最初からまともな文章なんか、まず書けません。

 それで、読む力のある人に読んでもらって、注意を受けて、書き直して、まだ「足りないところがある」とぼろかすに言われて、それでも、「やーめた」「作文なんて、もうまっぴら」とか投げ出してしまわずに、歯を食いしばって、何回も書き直して、何回、下手をしたら、十何回目かにやっとの事で文章を完成させたときに、「やっと作文ってこう書くのか」というのが、おぼろげながら見えてくるんです。

 「それで、おぼろげながらか、それじゃあ、本当に文章が書けるようになるなんて、気の遠くなるような話だなあ」とあなたは思うかもしれません。
 でも本当はそうじゃあないんです。
 こういう体験を少なくとも2度すれば、かなり大丈夫なんじゃあないかなと、私は思っています。
 本質的な文章体験を2度。
 そうすれば、「自分が本当に言いたかったことを探し」て、「それを伝えるための、もしくは、それを伝えるためだけの文章を書く」ことができるようになるんです。

 「そんな、見てくれるような先生いないよ」ということなら、本当は、私のような考え方をしている先生に見てもらった方が断然早いけれど、別に見てもらわなくっても、「自分で、時間をおいて、自分の文章を見直して、何度も何度も推敲する。」ということをやるだけでも、全然違います。

とにかくこだわって書き直すところから始まる

 私のこの文章でも、思いつくことを書きなぐっているように見えます。実際かなり推敲をいい加減にして、書きなぐっているんですが、それでも、一回書いて、それっきりじゃあないですよ。
 書いた後、すぐ何回か見返して、アップロードして、もういっぺん記事を読んで、また気になるところを書き直して、「だいぶよくなったな」と自画自賛しながら、「でも、ここもう少し、改行の幅をあけようかな」とか、「こんだけ見返しても、まだ誤字があった」とか、繰り返して、それでも、これだけの書き流した文章しか書けないんですよ。

 もしあなたが、たかがmixiの日記を書くときに、それだけのことを、毎回必ずやったなら、そうしたら、読むに耐えない文章しか書けないということは、まず無いです。

センスは必要条件ではない

 実を言うと、私は、「自分は作文のセンスはあまりない」と思っています。これ、謙遜じゃあないですよ。
 ほんと。
 私の文章は、センスで書いている文章じゃあないですから。とにかく、言いたいことを自分の中から探し出してきて、それをなるべくきちんと、いらない無駄は省いて、でもいることだけはきちんと伝えて、分かってもらおう」と、そういう気持ちだけで書いた文章なんです。

 生徒を見ていると、「こいつセンスあるな」という子は多いんです。特に、ものをよく考える女の子なんかは。
 でも、一つだけ私に取り柄があるとすれば、とにかく「自分の文章を大切にして、こだわる」ということです。
 たかが今書いている、これぐらいの文章でも、ちょっとした、数行のコメントでも、とにかくこだわる。書き直す。
 これ、普通の人は、まずしないですね。
 1回書いて、してもせいぜいちょっと書き直しただけで、「書けない」なんて言っている。
 私に言わせりゃあ、当たり前なんです。
 「あんた、才能があるのに、磨けばとってもいい文章が書けるはずなのに、何でもっと自分の文章を大切にしないの」こういうことです。
 ただそれだけ。

書ききった後に感じる喜び・充実感

 で、「そんな努力みんなしないよなあ」ということなんですが、それは、「おもしろさが感じられない努力」だからです。
 とにかく一番伝えたいことを何か書ききったという体験を1度でもすると、何かまた課題が出てきたときに、「それぐらいならもう一度書きたい」「書ける」とかいう気持ちになりますよね。
 そういう体験を何度かすると、大変だけれど、それを乗り越えて書けたときの満足感・充実感、何とも言えない書ききったという喜びがあるんです。

 なんだって、それをやりきったときの喜びを知っていれば、そのための苦労なんて、吹っ飛んじゃいます。
 「大変かも知れないけれど、それだけのものを得るためにやっているんだから、それを乗り越えた喜びを感じるためにやっているんだから、それは大変というよりも、必要な一つの乗り越えるべき課題なんだ」と。
 そういうように感じられるようになると、文章なんて勝手にうまくなるでしょうね。

 自分の意識の中では、「やっぱり自分はあまりうまい方ではない」と思っているし、「もっとうまい文章を書きたい」とも思っている。でも他人は、「あなたの文章、うまい!」って言ってくれる、そういうことになっちゃうんです。
 きっと。

書くことに抵抗感がないのは、一番の取り柄

 mixiで活動なさっている方は、基本的に何か文章を書くのが好きな人たちではないでしょうか。どんな文章か、自分の文章を自分がどう評価しているか、は置いておいて。
 で、そういう方は、一番大変な壁である、文章を書くことに対する一つめの大きな障害を、もう既に乗り越えているんです。
 みんなが毛嫌いしている文章を、書くのが苦にならない、苦になっても、それをあえてしようとして、実際なさっているわけですから。

 後はただ、自分の文章にこだわって、いつまでもより納得がいくように、書き直していくだけですよね。

「書く」ためには、自分の頭を使って考えること

 話を最初の偏差値の話に戻しましょうか。
 確かに、偏差値が高い人は、言葉の切れ切れの知識は多いでしょう。もしくは、一般的な常識ですかね。
 でもそれが、すぐに文章が書けるということにはつながらないんです。
 文章は、「自分の中から、言いたいことを見つけてきて、本当にいいたかったことを探りながら、それをきちんと伝えなければならないので。
 世間一般で、「当たり前だ」と思われていることを、そのまま自分でよく考えもしないで、自分の本気の実感もないまま書いた文章など、そんなの誰も読まないでしょう。
 だから、文章を書ける人は、必ずしも偏差値が高い人とは一致しないんです。
 もちろん出発点としては、知識が多ければ、その分有利にはなりますが、その程度の問題ですね。

 国語の先生が書けると思われていて、実際には書けないのも、それと同じです。
 そりゃあ、いくら何でも、高校生よりは書くでしょうがね。
 それは出発点が、それだけ有利だったってだけのことですよね。

 で、魅力的な作文を書く人ですが、やっぱり、普段からよく考え、悩んでいる人です。
 そういう意味では、特に中学生までは、「本をよく読んでいる」というのは、やっぱり有利になります。
 高校生ぐらいになると、
   本をよく読む=ものをよく考える
という公式が必ずしも当てはまらなくなってくるので、本については、一概に
  本を読むからよく書ける
なんて言えなくなってきますが。

 自分の生活を振り返ってみてくださいね。
  どれぐらい考えていますか。
 「腹減った」とか、「宿題やらなくっちゃあ」とか、「今度の大会、全国大会に行くぞ」とか、そういう現実的、即物的な思考でないことをですよ。
 それを振り返ると、ほとんどの人が、1日何分なんてレベルじゃあないでしょうか。
 これ、何もあなたをけなしているんじゃあなくて、私がそうだという話です。
 みんなそのレベルなんです。

 ということは、難しく言えば、私たちは、「人間としては数分ぐらいしか生きていない」ということですね。
 「その他ほとんどの時間は、動物としてしか生きていない」そういうことです。

 だから、文章なんて書けるわけないでしょう。
当たり前です。

ね。ね。

 まさか、「今日僕が起きてから、ご飯を食べて、……」なんて作文を書いて満足する人なんていないわけですから。

 ということで、ものをよく考える人ほど、よい文章を書けるようになる可能性は高い。
 それは、必ずしも偏差値とは比例しない。

 そういうことです。 

分析的に考える

 たとえばスポーツでも、バレーを例に出すと、「今度はレシーブをうまくやろう」というような発想で練習をしても、いくらやっても一緒なんです。

 「レシーブをうまくやるために」
  「手を出すタイミングはこう」
  「角度をどうするか」
  「その時の上体と手の位置関係はどうか」
  「次の動作に入りやすくするために何を考えどうするべきか」
こういうところを考えるから、基礎練習が基礎練習として意味を持ってくるんです。
 そんなことを考えずに、
  「今度はレシーブをうまくやろう」
  「今失敗したから、今度こそうまくやろう」
としか考えなかったのでは、「練習をやっているつもり」になっているだけです。

 レシーブの練習なんて、小学生のクラブチームでも、素人目にはうまくやっています。それをプロの方が同じようにやっているように見えても、実は内面的なところが全然違うはずです。
 そういうことを考えながら、より速い高度な行動に結びつかせるために、よりやりやすい状況の中で動作の確認をするから、基礎練習が基礎練習として、意味を持ってくるのです。
  「基礎練習は、ウオーミングアップするためだけ」
  「高度なことは高度なプレーの中でしか練習できない」
こんな考えでは、絶対にうまくなりません。
 だって、めちゃくちゃ速い動きをしなければならないときに、形にこだわって正確に行動するなんてことがあなたにはできますか。
 できるわけがありません。誰でも。
 だからこそ、行動に余裕があるときに、型にこだわって正確に行動する練習をして、より高度な動きをするための練習をするんです。

 考えるということは、そういうことです。そこまで色々と考えて追求していく。
 そうした対象については、言いたいことはこれだから、これを伝えるために何が必要か、何が必要でないか、それだけきちんと確認していれば、文章なんて書けないはずがありません。

 だから、文章を書く練習をするなら、「自分が一番本気で考えている」「一番好き」なことについて、とりあえず最初に完璧だと思えるものを仕上げてみる、という体験が大切なんです。

受験・就職のための指導をきっかけとして

 話がころころ変わりますが、私、受験のための小論文指導や、就職のための作文指導、嫌いじゃあありません。
 なぜかというと、生徒が嫌々ながらでも、本気で取り組むからです。
 普段だったら、「こんなんだめ、書き直せ」というのを2回もやろうものなら、「もう、赤点になってもいい」とふてくされて出しません。
 でも、自分の進路が絡んでいると、何回でも死にものぐるいでやってきます。
 そうすれば確実によくなる。

 そういう体験を無理矢理にでもやらされることは、とっても意味があると私は思うんです。
 せっかくそういう場があるなら、とにかく本物の文章体験を与えたい。
 それを1回やれば、本当は2回やるだけでも、それが、今後それこそ、かもめさんがおっしゃるように、生きていくいうえで、ちょっとした文章を書かなければならないようなときに、自分では全く気づいてはいないかも知れないけれど、絶大なバックボーンになって、なんとかやっていける。
 そういうことを期待して受験指導、就職指導をしています。
 それが本当に、私の思惑通り、そうなっていれば、とってもうれしいですね。

 かもめさんのおとといの記事については、また書けませんでしたので、予定が狂わなければ、また次に続きを書きたいと思います。

コメント

  1. momomi より:

    はじめまして。
    足跡からきました。
    私は高校生のころ小論文入試で受験をすすめてきた者です。恩師に出会えたお陰で当時11倍程あった小論文入試をクリアして今に至っています。
    前から読書感想文なんかも好きでしたし、今は自分のブログをつけたり仕事のプレスリリースにほんのちょこっと携わっています。
    NEKOさんの仕事の熱心さには感心します。当時の小論文の授業を思いだしました。NEKOさんのような先生がたくさんいればいいのに。
    私にとって文章を書くのは、生きがいのようなもので、ねがわくば書くことを仕事にしたいなぁと思っています。仕事にしようと思うとちょっと苦しくなる部分もありますがNEKOさんのおっしゃる文章を書く楽しさのようなものを常に持っていたいです^^
    またお邪魔します☆ 

  2. 匿名 より:

    感想ありがとうございます。
    自分は大学で友達少ないんで、自分の話をきいてくれるひとがいると嬉しくなってしまいます。
    「小論文」と話がずれるんですけど「言語」について書こうと思います。
    言語の専門家の方に言語について書くのはちょっと恐いんですけど、自分が大学で習ったことをもとに書こうとおもいます。
    難聴の患者さんなんですけれど、難聴の患者さんは親がどれだけ早く子供の異常に気付き、リハビリで言語訓練をさせるかで、その子の一生が決まってしまうんです。
    ある一定の年齢を超えてしまうと、もう永久的に知能が回復しません。
    これは、難聴の子供は耳から言語が入ってこないためです。
    人間は、言語によって思考を行っています。言語が無ければ思考は無いんです。
    あと、こんな面白い話があるんです。
    昔、狼に育てられた少年達(確か二人の兄弟)がいました。
    リハビリによって、その少年達は喋れるようになりました。
    まぁ、狼と暮らしてたわけですから、研究者達がその少年達に昔の暮らしについて尋ねます。
    ところが、少年達は自分の胸を引っかきながら
    「思い出せない!」
    というだけなんです。
    一番最初の記憶について尋ねると、その時期がちょうど、言葉を覚えた時期に一致するんです。
    なんと、記憶も言語によって媒介されているんです。
    みんな、赤ん坊のころの記憶が無いのはこのためです。
    こんな例を挙げて、僕はいったい何をいいたいかというと
    言語というのは、単なるコミュニケーションの道具ではないということなんです。
    記憶、思考は言語によってできている。
    小論文の練習は、自分の考えを表現するためだけではなくて、人間として成長するためにやっているのだと考ろと書けば、小論文を練習している高校生のモチベーションを上げることができるのではないかとおもい、こんな文章を書きました。
    あと、最近、小学生に英語の授業を行うという話を聞きました。
    僕は、その考えに反対です。
    母語である日本語がまだちゃんと身についていない小学生に英語の授業を行うなんて絶対間違っている。
    外国語だって基盤となる、母国語がしっかりしていなければまともな会話はできません。
    外国語なんか教えている時間があれば、母語を教えて欲しい。
    数十年後に、文部省は自分達の過ちに気付くことになると思います。 

  3. たかちゃん より:

     ねこさん、
     私が担任の先生から「作文が上手」と言われるようになったのは
    小学2年生以降でした。授業参観後に親が残って「懇談会」をして
    いた途中に、担任の先生が「生徒の作文を読みます」と言って読み
    始めたんだそうです・・・話を聞いているうちに「あ、うちの子だ」
    と母は感じ、とっても嬉しい気持ちになって家に帰ってきたのだそう
    です。両親に「あなたは文章が上手」って褒められながら育ってきて
    現在に至ります。職場では専ら議事録やら資料作成を担当しています。
     成績は超優秀ではなかったけど、「きらっと光るもの」を担任の
    先生が見つけてくれたおかげで、幼いながらも「自信」を持てたの
    かな?なんて・・・今は思っています。自分の思いを文章にするのは
    簡単なようで難しい。けれど、私が原稿用紙を目前にして考えるのは
    「起承転結」、それだけです。あと、、、なんだろ?何かをする時に
    いろんなことを思い巡らせる癖があるので、気づいたら文章っぽい
    考えになっていてすすっと書けちゃうのかもしれません。
     この頃、ねこさんの日記にはまっています

  4. Neko Fumio より:

     nekonosippoさん、たかちゃんさん、
    コメントありがとうございます。
    まあ私は道楽者なので、
    同僚は、
    夢にも仕事熱心だなどとは
    思っていないでしょうけどね。
    生徒が本当に、
    >NEKOさんのような先生がたくさんいればいいのに。
    というようなことを思っていてくれれば、
    涙が出るほど
    うれしいんですけど。
    現実はなかなか、そうもいかないようで。
     でも、nekonosippoさん、たかちゃんさんも
    いい先生に巡り会えてよかったですよね。
     私はちょっと違うけど、
    まあ、別の面で、
    先生の指導のおかげということは
    やっぱりありますね。
     お二人のコメントをネタに使わせていただきましたので、
    よかったら読んでやってください。
    https://www.sakubun.info/?p=157
     かもめさん
     投稿ありがとうございました。
    またネタに使わせていただきました。
    https://www.sakubun.info/?p=156
     書いていただけると、
    こんなことについて書きたいな
    というネタが、
    色々思い出されてきます。
     ありがたいです。

  5. ひまわりなつこ より:

     みなさんのコメント楽しく拝見させていただきました。
     
     中学生までの読書が基礎になるって本当にそうだと思いました。
     小学校一年生のとき
     「お母さんあのね」と、いうタイトルで作文を書かせると、
     どの子も魅力的な個性的な作文が書けるのに…次第にかけなくなる。
     それにあわせて読書嫌いも増える。感想文を書けって宿題がよくない。
     作文指導のチャンスだけど、でも、目的を持った読書って、なんかそれだけでかったるいらしい。
     もっとも、私は賞ねらいの感想文をいくつも書いたが…
     で、まあ、時には、いわゆるよい作文を書き続け、
     大学生になって、こじゃれた作文を私に提出して
    「作文力が災いして、自分がちっとも表現できていない。就職には不向き!」と、ばさっときられるわけです。
     なぜそうなるかはNEKOさんが、この日記で指導してくださってますね。
     
     

タイトルとURLをコピーしました