言葉で考えることで、 初めて体験が自分のものになる

 うれしいことに、色々コメントやメッセージをいただき、書きたいことはあるのですが、書いても書いても、書くことが追いつきません。
 まだ、前回の文章も、誤字など直しきっていませんが、新しいことを書いてみます。

 わが家の7歳の坊主が、初めて隣のばあちゃんちに1人で泊まりに行ったので、この時間帯でも珍しく起きていられますが、完全によい子のおねむの時間に突入しているので、もう頭がもうろうとしています。
 果たしてこの記事、どうなることやら。

 前回の記事に対して、かもめさんから再度コメントをいただきましたので、続きを書きます。


かもめさんのコメントです。

「小論文」と話がずれるんですけど「言語」について書こうと思います。
言語の専門家の方に言語について書くのはちょっと恐いんですけど、自分が大学で習ったことをもとに書こうとおもいます。
難聴の患者さんなんですけれど、難聴の患者さんは親がどれだけ早く子供の異常に気付き、リハビリで言語訓練をさせるかで、その子の一生が決まってしまうんです。
ある一定年の年齢を超えてしまうと、もう永久的に知能が回復しません。
これは、難聴の子供は耳から言語が入ってこないためです。

人間は、言語によって思考を行っています。言語が無ければ思考は無いんです。

あと、こんな面白い話があるんです。

昔、狼に育てられた少年達(確か二人の兄弟)がいました。
リハビリによって、その少年達は喋れるようになりました。
まぁ、狼と暮らしてたわけですから、研究者達がその少年達に昔の暮らしについて尋ねます。
ところが、少年達は自分の胸を引っかきながら
「思い出せない!」
というだけなんです。
一番最初の記憶について尋ねると、その時期がちょうど、言葉を覚えた時期に一致するんです。

なんと、記憶も言語によって媒介されているんです。
みんな、赤ん坊のころの記憶が無いのはこのためです。

こんな例を挙げて、僕はいったい何をいいたいかというと
言語というのは、単なるコミュニケーションの道具ではないということなんです。
記憶、思考は言語によってできている。

小論文の練習は、自分の考えを表現するためだけではなくて、人間として成長するためにやっているのだと考ろと書けば、小論文を練習している高校生のモチベーションを上げることができるのではないかとおもい、こんな文章を書きました。

あと、最近、小学生に英語の授業を行うという話を聞きました。
僕は、その考えに反対です。
母語である日本語がまだちゃんと身についていない小学生に英語の授業を行うなんて絶対間違っている。

外国語だって基盤となる、母国語がしっかりしていなければまともな会話はできません。
外国語なんか教えている時間があれば、母語を教えて欲しい。
数十年後に、文部省は自分達の過ちに気付くことになると思います。

 かもめさんのアプローチの仕方とは若干違いますが、「言葉で考えることによって、初めて体験が自分のものになる」ということについて書きたいと思います。

 「右脳」「左脳」という言葉をご存じですか。
 今手元にきちんと説明した本がなく、私も生かじりの知識なので、正確に説明できないかも知れませんが。

 「右脳」は言語以前の感覚などをつかさどるところで、「左脳」は、言語を中心とした、抽象的思考をつかさどるところ。
 この二つの脳が連携して、人間の思考や記憶がうまく機能しているんです。
 で、3歳ぐらいまでは、ほとんど右脳中心でとらえていて、それからだんだんと左脳中心の思考に移行すると言われています。
 大人はほとんど左脳ですね。

 たとえば、一枚の絵を何秒間か見て、それからそれを隠して、次の絵と、覚えた絵との違いを当てるゲームがあるでしょう。
 それを、「右上に帽子をかぶった人がいて、帽子はシルクハットの赤色で、服は……、
くつは……、
その隣に……、」
というように言葉に直して覚えていくのが、左脳中心の思考、
見てそれをイメージとしてとらえておいて、元のイメージと新しいイメージとを重ね合わせて、違いが何となく点滅するような感じで分かってしまうとらえ方ができると、右脳中心の思考でこの問題に答えたということになります。

 あなたはこんな問題のとき、どうしていますか。

 ほとんどの方は言葉で覚えようとすると思います。
 それで、覚えきれず、解けません。

 この場合は、一枚の絵ですが、我々の日々の生活というのは、この絵が、絶え間なくずっと更新されて流れていくようなものなんです。
 しかも映像だけではなくて、聴覚も、嗅覚も、その他、人間の感覚器官では自覚できない、何となくの感覚などというようなものも含めて、たとえば紫外線ですよね。
 これ自覚はできませんが、たぶん、何かわれわれを取り巻く雰囲気を形成するのには影響を与えています。

 このような、「虫の知らせ」としか言えないようなものも含めて、ありとあらゆるものに囲まれて、わたしたちは生活しているわけです。
 そのようなものに囲まれている一瞬一瞬が、ずっと流れていっているのが、私たちの生活のイメージではないでしょうか。

 これ、言葉にするとわかりにくいですよね。
 イメージ的には、映画のフィルムを思い描いていただければわかりやすいかも知れません。
 一枚一枚の映像が、ずうーっと続いて、一コマずつ連なっていっているというような。

 で、このようにして体験した全体を、もう一度自分の感覚として、すなわち右脳記憶として巻き戻すようなことは、可能でしょうか。

 死ぬときに、「自分の人生を走馬燈のように思い出す」といいます。
 それは多分、このような感じになるのでしょう。

 でも、普通の場合は、こんなことをするのは、ほとんど不可能です。
 自分を取り巻くすべては、ただの何かよく分からない、連続したある程度の起伏や変化にすぎませんから、それら触れるものの区別は、我々経験しているものには、違いがはっきりと自覚されてとらえられているわけではありません。
 そういう現実を、我々がどうやって、考えたり、とらえたりしているかというと、経験するすべてを覚えようとはしないで、そのような混沌とした現実から、自分にとって必要なものだけを取り出して、つまりそれを難しい言葉で言うと、自分にとって必要なものだけを「抽象」して、その他を全部を「捨象」、つまり捨ててしまって、それを点として結びつけて覚えているんですね。

 現実には、我々が経験する現実は、切れ目なくつながっていて、本来明確な区別、つながり、脈絡のようなものはありません。
 それを考えるのは、人間にすぎないのです。
 
 で、このような、明確な区別、つながり、脈絡のない現実に、自分との関係を考えて、必要なものを取り出し、つながりをつけて、物事の因果関係、意味をとらえるときに使われるのが言葉なんです。

 ですから、ものに名前があるということが、すなわち、つまりは、区切りのはっきりしない現実から、我々がそれを取り出したということそのものなんです。
https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=82

 だから極端に言うと、「言葉がないものは、現実にはないのと同じ」こういうことになっちゃうんです。
 このことを、「最初に言葉ありき」なんて言われたりもしますよね。

 で、こういう言葉を使った抽象的思考をつかさどるのが、左脳の働きです。

 右脳・左脳それぞれに大切で、どちらがより重要というような話ではありません。
 ですが、ここまでの長々しい説明で分かることは、右脳だけで生活をしていると、その場その場では生活できても、それを、つながりのある意味のあるものとしては、とらえられないということですね。

 それで、かもめさんが説明してくださったような現象も起こってくるわけです。

 以上ここまでが前置きです。
 私の文章、いつも前置きが長くて、前置きばかりで終わってますね。ちょっと反省です。

 話をここから本題である作文に移しますね。

 色々体験をします。
 でも、言葉で考えないとすれば……。
 そうなんです。結局、経験していないのと同じ。考えることも、思い出すこともできないんですから。
 言葉で体験を振り返らなかったら、体験が自分にとって意味があるものにはならないということです。
 前回の記事で、バレーの練習をするときの意識の持ち方について書きました。

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 たとえばスポーツでも、バレーを例に出すと、「今度はレシーブをうまくやろう」というような発想で練習をしても、いくらやっても一緒なんです。

 「レシーブをうまくやるために」
  「手を出すタイミングはこう」
  「角度をどうするか」
  「その時の上体と手の位置関係はどうか」
  「次の動作に入りやすくするために何を考えどうするべきか」
こういうところを考えるから、基礎練習が基礎練習として意味を持ってくるんです。
 そんなことを考えずに、
  「今度はレシーブをうまくやろう」
  「今失敗したから、今度こそうまくやろう」
としか考えなかったのでは、「練習をやっているつもり」になっているだけです。
=========================================================
こういうことを考えずに、
「次はもっとうまくやろう」と思いながら練習をやっても、確かに動物的な反応はよくなるでしょう。
 でも、そこまでですね。こういう意識の持ち方では。
 そうではなくて、自分の練習について、具体的なやり方をもっと色々考えていくことによって、反省の上に立った、一段上のレベルの練習ができるのです。
 普通だったら、「この次はうまくやろう」で済まして、それ以上突き詰めて考えないところを、もう一歩進めて、「なぜだろう」「これが原因か」「自分が感じているのは結局どういうことなのか」と突き詰めて考えていくから、因果関係を捉えた、より高いレベルの思考なり練習なりになるんです。

 もうここらあたりまで来ると、話がだいぶ作文の方に流れてきているので、後は、どんどん話を変えていきますね。

 「作文を書いてみなさい」と言われて、普通書けませんよね。ほとんどみんな。
 それはなぜかというと、上の例でいえば、「次はがんばるぞ」で終わっているからです。
 うちの7歳の坊主に作文を書かせる時、感想を聞くと、「おもしろかった」で終わってしまいますね。
 「どこが面白かったん」「どういうこと思ったん」としつこく聞いていくと、「なんで、面白かったじゃあいけんのん」といって、かんしゃくを起こしてしまいます。
 それは、普段誰もが、自分に起こっていることについて、「どこが面白かったん」「どういうこと思ったん」と、振り返って考えていないから、そうなって当然なんです。
 で、「どこが面白かったん」「どういうこと思ったん」ということを、突き詰めて、普段漠然と感じていることを、はっきりさせていくということは、めちゃくちゃ大変なんです。
 だから、それをいつもやっていない人に、やれと要求したらどうなるか。
 「なんで……」というかんしゃくになって返ってくるんですよね。

 もうお分かりのように、そのような、「どこが面白かったん」「どういうこと思ったん」ということを突き詰めて、漠然と感じていることを、はっきりさせていくということが、作文を書くということです。
 だから、はっきり言って、これ、めちゃくちゃ大変ですよ。
 でも、それをやることで、「面白かった」といってすましていただけでは見えなかったものが見えてくる。
 そういうことですね。

 作文を書くかどうかは別にして、上のバレーなどの例でも、動物的に漠然と感じて対応していくのではなくて、色々色々具体的に分析しながら考えていくことが、その人の自力を高める上では絶対に必要です。
 そうしない人間は、素質があっても、絶対に、割合早いレベルで行き詰まってしまいます。まず、プロのレベルにまでは届かないでしょう。
 で、それ、すなわち、自分で分析しながら、具体的な問題意識を、上に書いたようなレベルで、自分でできるようになるかどうかということも、もう一つの大きなハードルです。
 今まで色々見てきて、大学生ぐらいになると、優れた指導者がいなくても、自己管理というようなこともある程度は可能なようです。
 でも、高校生は、そこまで要求していくのは、ちょっとやっぱり無理なようですね。
 そこの所に常に注意させる優れた指導者が必要になってきます。

 で、ここまでの所、何事にであれ、とにかく、自分を分析的にとらえながら、具体的な問題意識をもって物事に取り組んでいく姿勢の大切さですね。そのことを説明しました。
 話がどんどんそれて、収拾がつかなくなってきました。

 もう一度、作文に話を戻します。

 ここまでのような意識を持って何かに取り組んでいる人なら、作文の指導をするのは簡単なんです。
 「体験・思ったことの中で、自分が一番言いたいことだけを一つ選んで、そのことをイメージを描いてもらいながら分かってもらえるように、そのことだけを考えて書いてごらん。」
 これだけです。
 これだけで、まだうまく書けないとしたら、それは、余計なことを色々考えるからです。
 作文というのは、「~を書くものなのじゃあないん」とか、「スピーチだから、経験したことを、順番に書いてもいいだろう」とか、起承転結を考えるとか。
 本当に色々考えて、悩んで取り組んだことなら、そういういらないことを一切放り捨ててしまって、「体験・思ったことの中で、自分が一番言いたいことだけを一つ選んで、そのことをイメージを描いてもらい分かってもらえるように、そのことだけを考えて書く」ということに集中したら、恐ろしくすばらしい文章に絶対になります。
 ならないはずがない。

 マインドマップというのがあって、これ、面白いです。
最近使えるなと思っています。

 で、これを説明し出すとまた長くなるので、それは別の機会ということにして、とにかく、何かテーマを決めて、部活動でも、趣味でも、悩みでも何でもいいんですが、それについて思うことを一枚の紙に、表にして、とにかく全部、書き付けていくんです。
 細かいことでも何でも、頭に思い浮かぶことを、とにかく全部。
 そういうことをやらせたときに、どれだけ紙が埋まるかというのが、そのことにその人がどれだけ自覚を持って取り組んでいるかのバロメーターになります。
 それだけですぐに、すばらしい文章が書ければいいんですが、それほどうまくはいかないですけれどね。
 で、これをやったときに、「部活動」「検定」「授業」「趣味」ぐらいの本当に抽象的なレベルでしか言葉が出てこないような人は、もちろん作文なんか書けません。
 そういう人は、自分のそういう思考の浅さに早く気が付いて、普段から、ちょっとずつでも、考える習慣を持とうとする。そういう気持ちが大切です。
 これが基本中の基本。

 しかし、今すぐ書かなければならない生徒にとっては、そんな悠長なことは言ってはいられないので、テーマを選ぶときに、少しでも、本気で語ることのできるものが多いテーマにします。
 そのテーマで、自分の考えを深めていく努力をしてみる。
 こういうところでしょうか。

 一番得意なテーマでも、たとえそれが遊びについてであっても、一つでもそのことについて、ましな文章が書ければ、それは必ず、その人の大きな財産になります。
 その時書いた文章のレベルが他の分野についても書ければ、それはまともな文章が書けているということですから。

 と、こういう風にして、受験生などの場合は、受験勉強・就職試験の強制力を利用して、生徒に本気で文章に取り組んでもらうことで、一気に作文を書く力を、本人の知らないうちにあげていくんですね。
 少なくとももくろみとしては、私なら、こういうところです。

 話が長くなってきたので、この、自分で物事を考えるようになる姿勢ということについて、たかちゃんさんからコメントをいただいていますので、次の記事でそれについて書いてみたいと思います。

 そう言やあ、英語教育について書こうと思いながら、書くのを完全に忘れていました。

 かもめさんのおっしゃること、同感です。
 またこれについても、次というわけにはいかなくなりましたが、機会があれば書いてみたいと思います。

コメント

  1. ぽこ より:

    はじめまして〜ぽこです。
    あしあとから来させてもらいました。
    先生なのですね〜。
    ゆっくり読ませてもらいます。
    色々教えてもらいたいです。
    また良かったらあたしのとこも来て下さいね。
    また来させてもらってもいいですっっか?

  2. Neko Fumio より:

    ぽこさん。
    こちらこそ初めまして。
    中学生の頃から
    文学少女だったんですねー。
    そういう方、
    私のこの日記に来てくださる方の中には
    やっぱり多いです。
    中学校の3年生になって
    初めて「シャーロックホームズ」を読んだ
    文学のかけらもなかった
    私などとは、
    キャリアが違います。
     この日記かなり勢いで書いた文章になってますが、
    よろしかったら
    いつでも読んでやってくださいね。
    「先生だ」という意識で読まれると、
    色々なところで、
    それらしくないところがあって、
    ちょっとつらいかも知れませんが。

  3. ぽこ より:

    レスありがとうございます。
    いや〜もう〜文学少女とか〜そんないいモンではありません。
    あたしは音楽演ってます。
    ギターの弾き語りです。
    オリジナル曲も演ってるんです。
    また来させてもらいます。
    ありがとうございました。
    どうぞ宜しくお願いします(ぺこりん)。

  4. nonco より:

    足跡からお邪魔しました
    初めまして noncoです
    《文章を書く》のは好きですが どうしても創作が出来ずにいます
    テーマのある物に対してなら そこそこ書ける様にはなりましたが…まだまだ修行の最中です
    また こちらに寄らせて頂きます
    よろしければ…アタシの日記にも またいらして下さいね 

  5. Neko Fumio より:

     創作というのは難しいですね。
     私が主題にしている、
    考えを伝えるしっかりした文章とは違う要素が入ってくるので。
     売れている、読者の心をつかむ文章と、
     だらだらと思いつくままを書いただけの
    カタコトで自己満足の文章と、
    よく分からない人が見たら紙一重ですから。
     私は、「取扱説明書」のような
    http://mixi.jp/view_diary.pl?&id=650880610&owner_id=13250056#bottom
    発想の文章は好きですよ。

  6. nonco より:

    ありがとうございます
    そう言って頂けるのは とても励みになります
    バトンばかりですが こんなのもあります
    脳内変換辞書
    http://mixi.jp/view_diary.pl?&id=661477152&owner_id=13250056
    観察日記
    http://mixi.jp/view_diary.pl?&id=662407240&owner_id=13250056
    他愛もない 言葉遊びですが こんな物ばかりが ゴロゴロしている日記です
    よろしければ 過去日記の添削をお願いしたいと思います

  7. Neko Fumio より:

     ここにご返事を書こうとしていたんだけれど、
    「他の方にも見ていただきたいかなあ」と思ったので、
    前の私のコメントとあわせて、
    日記にしちゃいました。
    https://www.sakubun.info/?p=160

  8. 匿名 より:

    {だから極端に言うと、
    「言葉がないものは、
    現実にはないのと同じ」
    こういうことになっちゃうんです }
    なるほど。
    自分の部屋を眺めてみました。
    たしかに、名前のないものなんてありませんでした。
    「机」、「椅子」、「本」、全部名前がありました。
    名前が無いものを見つけてやろう!とか思ったんですけど、
    自分が知らないだけで、たぶんこいつにも名前があるんだろうなぁ〜って、くやしいです。

  9. Neko Fumio より:

     名前がないものなんて
    いくらもありますよ。
    たとえば、
    地面にいくらもあるでこぼこ。
    自分がいつもそこでつまずいて転ぶような
    でこぼこがあれば、
    自分にとって意味があるこぶだから
    名前を付けるでしょうが。
     商品にある
    でこぼこだって、
    売るのに支障がなければ
    何もなし、
    支障があれば、
    「ここに傷がある」
    という具合ですね。
     他の人が興味を持って分類していれば、
    一応名前はありますよ。
    紫外線のような
    目に見えないものだって。
    でも、自分が気にしていなければ、
    言葉を知らない。
    言葉を知らなければ
    ないのと同じ。
    誰かさんが好きな
    化粧品の区別なんて
    電気製品の区別でもいいんですが、
    そんなん、どれも
    ただの場所ふさぎ。
     興味がない人にとっては
    そのものとしての
    違い、名前は認識されないんです。
     もしかしたら、
    そういう「場所ふさぎ」という認識すらもないかも。
    毎日目の前にあっても
    あることすら気づかないというように。
    これが、究極の「あってもない」です。
     花の名前だって知らなければ
    それぞれの花の区別なんて
    ないのと同じ。
    「スミレとひなげしの
    どこが同じなの。
    見りゃあ、全然違うじゃない。」
    と言ってみても、
    それは、
    違いの有意義さを認めている人の
    せりふなんです。
    名前を知らなければ、
    皆同じ
    「はな」
     私はこれですけど。

  10. 匿名 より:

    {だから極端に言うと、
    「言葉がないものは、
    現実にはないのと同じ」
    こういうことになっちゃうんです }
    ってことは、じゃあ「存在するものはすべて名前がある」って意味なのかなって思ったんでけど
    ・言葉があるということ
    ・存在するということ
    は、主観的なものだということなのでしょうか?
    つまり、言葉を知っている人ほど世界が広く、言葉を知るほど世界が広がる。
    魚の専門家は、魚についての言葉をよく知っていて、魚に関する世界が広い。
    ムカデの専門家は、ムカデに関する言葉をよく知っていて、ムカデに関する世界が広い。
    でも、「現実に存在する」ことって、だれでも共通な物と感じてしまうんですよ。
    現実にあるんだから、誰が何と言おうとある、みたいな。
    自分でも、何言ってんだかわかんないです。
    すいません、
    つまり、僕が聞きたいことは、「存在する」言う意味は、何ですか。「存在する」って、どういうことなのでしょうか?
    国語、もっと勉強しとけばよかったです。

  11. Neko Fumio より:

     存在することと、
    それを認識することとは、
    全く別物だということですよ。
     上の例で言えば、
    あるのに全く
    気づいてなくて、
    あるとも
    思っていないというような。
     でかくて目に付かないはずがないようなものでも、
    全くそれがあることに
    気づいていないようなものってあるでしょう。
     それは、客観的な世界としては
    存在しているけれど、
    その人にとってはないのと同じ。
     そのものについて、
    その言語に言葉がないということは、
    その言語を使う人にとっては、
    全くないのと同じ。
    少なくともあるとは
    認識されていない。
     逆に、
    出世魚なんてのがありますよね。
    同じ魚が成長していって
    名前を変えていく。
     ハマチ、ぶり
    なんて。
     でこういう風に全く違う名前があるということは、
    「イヌ」と「ネコ」とが全く別物と認識されるように
    「ハマチ」と「ぶり」も
    全く別物だととらえられているということですね。
    同じ魚の種類の違いとしてじゃあなくて。
     少なくとも、
    我々消費者じゃあなくて、
    魚を捕って生活している人にとっては。
     逆に
    「牛」なんてのを
    英語で調べてみてくださいね。
    雄、雌、
    の区別だけではなく、
    去勢された牛
    されない牛、
    食肉用の牛
    ・・・・
    全部全く別の言葉です。
    日本はすべて、
    ・・牛
    つまり呼び分けることはあっても、
    それはすべて「一つ牛というものの一種」
    としてですね。
     だから見え方が全く違う。
     使う言語が違えば、
    客観的に触れる世界は同じであっても、
    見えているものは、
    全く別のものだ
    ということは、
    大げさではなくて
    あり得(う)ることなんです。
     だから、
    我々がとらえている世界というのは、
    どんなに客観的にとらえようとしても、
    それは言葉によってとらえるのだから、
    すべて主観的なものだ
    と、
    こういうことですね。
     おっしゃるように
    「言葉を知っている人ほど世界が広く、言葉を知るほど世界が広がる。」
    ということは、
    当然あるでしょうね。
    でも、
    その人たちにとって、
    意味のない区別を
    色々言い分けても、
    やっぱり全く意味はない
    と、こういうこともあるわけです。
    こういうこと
    『ことばと文化』 (岩波新書) (新書)鈴木 孝夫 (著)
    にうまく説明してあります。
    ずいぶんと古い本ですが、
    このことについて書いてある、
    基本文献ですね。
    時々高校の国語の教科書にも載ってます。
    興味があったら読んでみてくださいね。 

  12. 匿名 より:

    お返事、ありがとうございます。
    話が変わるんですけど
    今日、本屋に行きました。
    (国語の先生と、mixiでやりとりしたし、国語の参考書でも見ようかなぁ〜)なんて思って、
    しかし、大学受験のコーナーを目の前にして、魔力を感じて足がすくんでしまいました。
    なんか恐いんです。
    高校のとき国語が苦手でした。
    定期試験では、まだそんなに酷い点数は取りませんでしたが、模試になってしまうと、今まで自分が読んだことが無い文章ですから点数が酷くなってしまうんです。
    まず、自分は文章を読むのが遅いです。
    ゆっくり読まなければ内容がわからず、一回読んだだけではよくわからないので、設問を解くときに、また文章を読まなければなりません。
    家に帰ってから模試の解説を読むのですが、論説文のほうは、まだなんとなく理解できるのですが、小説文のほうは、解説読んでも全然理解できませんでした。古文、漢文は、今思えば、勉強していればできたかもしれません。
    大学受験コーナーに行くのはあきらめて、何を考えたのか、中学受験コーナーへ行きました。
    「日能研」とかいう中学受験専門の塾が出している本を読みました。
    (小学生が、こんな難しいな文章を読むのかぁ〜)
    (よく大学受験の合格体験記に「僕は、部活が終わった8月から一日4時間の受験勉強で東大に受かりました」なんて書いてあるけど、そういうやつらは、小学校のときからこんな文章を読んでいるんだろうなぁ〜。蓄積が違う。勝てねぇーわけだよ)
    そんなことを考えながら、読み進めると、設問のとき方について書いてありました。
    ・ひとつの段落にに一番多く書いてある単語を○でかこめ!
    ・その単語が、その段落の中でキーワードとなる。
    ・設問の中の選択肢のなかで、キーワードがたくさん含まれているものを選べ!
    中学受験を専門にしている先生がそう言うんだから、中学受験ではそういうやり方で問題が解けるのかもしれません。
    自分が国語の問題が解けないというコンプレックスも、もちろんあります。
    でも、こういう国語の教え方って、どうなんでしょう?
    中学受験の国語の指導についてどう思います?

  13. Neko Fumio より:

     かもめさん、こんにちは。
    返事を、別記事にして書いてみました。
    https://www.sakubun.info/?p=161

  14. ひまわりなつこ より:

     楽しかったあ。
     絵文字の少ないこの対話もすごく好きです。
     絵文字入りの文章も好きだけど。
     でも、友達に、「もっと絵文字使って」とか、
     「改行いれて」「長くて文章読む気にならない」とか言われると
     ちょっとむかっ!
     「じゃあ、読むなよ!」って言いたくなりましたが…
     確かに、読みにくかったかと思い、改行とか入れるようにしました。
     長文は、相変わらず続けてますが…
     皆さんの論点とは違うかもしれませんが…
     経験って大事だと思います。
     たとえば、「さくらさくら」と、教科書で読んだとき、
     経験の無い子は、桜という言葉と、挿絵の桜の花しか感じることができない。
     でも、たとえば、お花見に行ったことのある子は、
     「さくらさくら」で、お父さんの酔っ払った顔。みんなの笑顔。花吹雪…いろいろな物を同時に感じることができる。
     桜から連想して、世界が広がっていきますね。
     その想像力こそが、人間の醍醐味ではないかと思います。

  15. Neko Fumio より:

     そうですね。
     ただ言葉を言葉として
    抽象的に受け止めるだけではなくて、
    それをイメージとして受け止めることができる能力というのは、
    大きいですね。
     「『さくらさくら』と、教科書で読んだとき、」
    と言われて、
    私は、
    「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる
    昭和8年から使われた戦前の教科書を
    すぐに思い浮かべちゃって、
     「ひまわりなつこ さん、
    いったい、いつの人ですか」
    とつっこみを入れたくなっちゃったんだけれども、
    よくよく調べてみたら、
    「さくらさくら」の歌は、
    始まりは戦前でも、
    今でも教科書に載っていたんですね。
     どちらが年寄りなのかわかりゃあしない。
     もっとも私も、
    高度経済成長期に生まれた人間ですがね。
     でも、「『さくらさくら』で、お父さんの酔っ払った顔。みんなの笑顔。花吹雪…いろいろな物を同時に感じることができる。」
    なんてイメージ、
    どう考えても、
    戦前の『少年倶楽部』かなんかの挿絵のイメージですよね。

  16. ひまわりなつこ より:

     そういえばそうですね。
     ちなみに私は32年うまれなので、偏差値教育の申し子です。
     学校でもらう成績表にも偏差値が書かれていた。
     
     はるか20年前、妊娠中の私と夫でお花見に行ったら、
     夫がものずごく酔っ払って、
     つれてかえるのに苦労して…
     しっかりしてよといってたら、ふいっといなくなって…
     さがしたら
     子供連れでお花見に行くたびに、夫はいい気分でよって、
     途中からは花粉症になって、酔わなくなったけど。
     娘にきくと、お花見といえば、「花吹雪にお父さんの上機嫌の顔」だそうです。
     ショッチュウ親子喧嘩をしますが…
     こういう経験が、イメージ(楽しい花見。腹のたった花見など)として心に残り、その子の生き様に影響していくのかなあと思います。
     
     
     

  17. Neko Fumio より:

     そういうのって、いいですね。

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