前回の「今日この頃」についての考察に、こうのすけさんが面白い書き込みをしてくださったので、それについて考えてみます。
ただそのフレーズは半ば冗談で使用する場合が増えているのではないでしょうか
ニュースや新聞など公共的なメディアで語られるのや
比較的高齢の方々が定型文として使うのは別として
若いひとたちにとっては
少し古臭いが尤もらしい言い回しをパロディとして使用し
それを軽く笑っているという感じではないかと思います
つまり
今日この頃という定型文のまえに来るべき
中身はないがそれらしい言い回しとは異なる物言いをして
その違和感を楽しんでいるのではないかという事です
さらに
その定型文のまえに来るべき中身はないがそれらしい言い回しをあえて使い
その文章全体すら笑いの対象にしているようにも思えます
これらは
ねこさんやタンポポさんや僕が共有しているであろう言語感覚が消滅していることを示しているのか
それとも新しい感覚が生まれ我々がついていけないのか
その辺を考えないといけないのではないでしょうか
僕自身は
パロディとして使用しつつも
ニュースや新聞などで使われると
ごまかしの表現だなあと思います
私自身、おっしゃるようなパロディーで使う文章や、顔文字を使う文章を全く読まない人間なので、的はずれなことをいうかも知れません。もし的はずれなようなら、コメントで、反論してくださればと思います。そのような前提で、以下、私の感想を述べてみます。
私がこの話を読んですぐに思い浮かべたのは、現代のまじめなことをいうことを格好悪いと思う風潮でした。
「今日この頃」をパロディーで使うという場合、どのような使い方なのでしょうか。おそらく、ちょっとまじめそうなことを言いながら、でもそれほどシリアスなところまでは追求せずにおいて、ユーモラスな語り口で、最後に「〜という今日この頃ですね」というような締めくくり方をするのではないでしょうか。
このような使い方なら、「新しい感覚が生まれ」ているというようなものではありません。
「定型文のまえに来るべき中身はないがそれらしい言い回し」というのが、実際にどういう言い回しなのかよくわかりませんが、おそらく、この「今日この頃」の前に来る内容は、全くのふざけた内容ではなくて、ある程度もっともらしい、まじめに論じれば論じることのできるようなもののはずです。それを従来の様に、自分の豊かさを感じさせるようにまじめにはそのままストレートに出さずに、「自分はそんな風にはまじめには感じていないぞ」というそぶりで、斜(はす)に構えて提示するのではないでしょうか。
このような表現になるのは、「今日この頃」をもっともらしく使う人たちを笑いのめすような心理からではなくて、むしろ、この「今日この頃」こそが、人の奥深いところを表現することのできる表現なのだと、私の嫌う所のこの言葉の威力を最大限に信じているからにほかなりません。
私は、こういう表現をする人というのは、まじめなことを普通に表現することができない人たちなのだと思います。しかし、百歩譲って、そうではないにしても、こういう表現をするときには、まじめなことを、まじめに人に聞かせることを避けようという心理が働いているはずです。本当は、まじめなことを言おうとしているのだけれども、くそまじめなことを言っていると、聞いている人には思われたくないという心理ですね。
これは、この前から私が文体の話で問題にしている、「だ・である」で書く自分を、いかにもえらそうぶって書いているように感じて、必要のない自意識を持ってしまい、「です・ます」でしか文章を書けない人の心理に似ています。
今の若者の中には、まじめなことをまじめに議論することを、くそまじめで格好悪いとバカにする傾向があるのではないでしょうか。そのような風潮を、そのまま真(ま)に受けて、文章を書くと、まじめな文章を書く自分にてれを感じてしまうわけです。これは、本当はいらぬ自意識過剰なのですが。
そうなってしまうと、まじめなことを感じていても、まじめな自分は出せないわけですから、そういう自分を中途半端に表現して、「〜という今日この頃です」と、さも本気ではないかのように茶化してお茶を濁してしまうしかないわけです。
このようなのが、おっしゃる「今日この頃」をパロディーで使う本当の意味なのではないでしょうか。
もしこのようなことであるなら、このような使い方は、「今日この頃」の、「内容がないのにもっともらしく見せる」という面をきちんと把握して、それをパロディーにしてしまうというようなものではもちろんありません。むしろ、「内容がないのにもっともらしく見せる」この言葉の威力を信じ込んでいるからこそ、この表現を選んでまじめな自分を表現し、でも、それは、自分の本心ではありませんと、茶化して見せているのです。
「今日この頃」という言葉の、もっともらしく見せる威力を正確に把握して、それを聞いたり読んだりする者に、きちんと伝えることができるパロディーがあるとしたら、それはどんなものになるのでしょうか。私には想像もつきません。
この表現で、自分のまじめさをごまかすことはできても、表現の奥にあるごまかしをきちんとえぐり出すことは、それほど生やさしいものではないはずです。
コメント
おっしゃることは最もですが、僕が言いたかったのはもっと簡単な話なのです。いい具体例がありませんが、しょうもない話をして「のように感じてしまう今日この頃です」としめることで、そのしょうもない話と少しだけ固い「今日この頃です」という表現の落差を笑うだけなのではないでしょうか。「今日この頃です」と使う事で、言語的な効果を意識的にせよ無意識にせよ狙っている、というような指摘をする事自体がバカらしく思えるような状況になっているのではないかと思うのです。聞く人がどう感じるかは別として、これを使う人は、昔のちょっと固い人が使う古い表現であるという1点のみに注目して使用しているだけで、この言い回しを巡る心理のありようが消失していっているのかもしれません。そしてそういう状況を、新しい感性という言い方をして、皮肉ったのです。
無意識の問題を、しっかり説明しようとすればするほど、「そんな難しいことではない。もっと簡単なことなのだ」という反論は、当然起こってくることが多いです。
具体例がないので、予想止まりですが、「のように感じてしまう今日この頃です」の前に来るのが、本当にしょうもない話の場合で、笑いを誘うような場合でも、「今日この頃に対する信頼」は強いと、私は思いますね。
それらしい自分の状態を表す言葉として、この言葉を信頼して、使っているからこそ、しょうもないことを感じている自分の状態を、もっともらしさを感じさせるこの言葉によって、戯画化して示すことができるのです。
この、「今日この頃」という言葉は、それほど、人に影響を与える強い言葉なのだ、というのが私の感想です。
まじめな報告のパロディでは、中途半端な印象にしかならないので、ばかにして受け取られる、可能性もおおいにあると感じました。
まじめとパロディでは、反対の表現に、感じます。
中途半端な表現を、楽しむとか、あれっと思わせる効果はあるようにも、感じます。
まじめに言葉を使っているのに対して、パロディとして扱われるようになると、言葉が、時代に経て変わってきたとなるのかも知れませんね。
主流の使い方としては、まじめに捉え、本来の使い方ですから、
使い方に、気をつけるべき言葉ということと、似たような言葉に置き換えられて、解釈されることもあるので、「今日この頃」に頼り、自分もまじめさを皮肉っていう必要性はあまりないように思います。