自立しているからこそ、他人のありがたさが身にしみる

生き方に対する考え方は、共通する部分がたくさんある
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 前回、大島さんの「コメント文字数オーバーしてしまったので…」というコメントを紹介しました。それを受けて、思うことを少し書いてみましょう。元の文章が長いので、今までのように長く引用することができません。ですので、すこし、読みにくくなるかも知れません。

 大島さんのコメントを読んで、私の考えていることと正反対のことを言っていると、あなたはお思いになりましたか。真反対のことを言っているようでありながら、基本的な生き方についての考え方には、ずいぶん共通する部分があるように、私は思いました。
 ただ、やはり、「自分を責めている人間をどう捉えるのか」という点については、寄って立つ立場の違いはあるように思います。
 自分が、実際に、必要以上に自分を責めてきて、自分の人生を矮小化してしまったことを自覚している人間が、もっと自由に生きる方が、結局豊かに生きることができるのではないかと考えている立場と、自分を責める自分を、ある程度許しながら、余裕を持って眺めることができている人間の立場とでもいいますか。

 このようなことを言ったら、また余計な反感を抱かせるだけかも知れませんね。

なるほど、自分の意見に対するこだわりはあるかも知れない
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 「文章が上手く書けません (13040)」、「プロ仕様・文章作成技法 (26949)」それぞれのコミュニティの客層の違いについては、「プロ仕様・文章作成技法 」の方に専門家で、考察を重ねていらっしゃるような、いわばマニアックな方がいらっしゃる反面、文学家を気取って、「(笑い)」「!」「?」「……」「顔文字」、さらには、体言止めや倒置などを使うことこそが、文学的な表現で、それを使うことで表現が豊かになると信じていらっしゃる方も、たぶん多くいらっしゃるのだろうと、思っておりました。 
 文学を志す方の中には、文学的表現と、私が書いているような、何か意見を伝えようというような文章とは、全く別物で、上にあげたような、世間一般に「文学的」だと思われている表現を使わないと、文学表現ではないかのように考えていらっしゃる方も、おそらくいらっしゃるような気がしています。

 しかし、なるほど、同じように納得がいっていなくても、反論するのか、無視してほおっておくのかという点で、自分の意見にこだわりを持って主張しようとされる方が多いというのも納得がいく話です。

みなさん、意のあるところをよく酌(く)んでくださった
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 自己啓発については、文章についてほど長い期間考えてきたわけでもないし、書いた経験も少ないので、文章について書く時以上に、やはり私自身、自分の考えをまとめきれていませんね。
 それでも多くの方が、私が言いたいことをうまく感じ取ってくださったように思います。
 前回の記事のコメントに、ひまわりなつこさんが、うまくフォローをしてくださいました。同感するところが多かったです。

 ここでは、言葉が足りなかった部分について、もう少し考えておこうと思います。

自分の幸・不幸を他人に依存させない
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 「自分の幸・不幸を他人に依存させない」というのは、他人との関わりを大切にしないということではありません。
 「他の方のために一生懸命に考え、やってあげる」「他人にしてもらったことに対して、ありがたいと思い、『ありがとう』と言う」、こういうことは、人間として、とっても大切なことですね。
 ですから、他の方の言動によって、幸せを感じる心理状態になることすべてを、「幸を他人に依存している」といっているわけでは、もちろんありません。
 「幸を他人に依存している」とは、他人から、幸福になる反応が返ってこなければ、幸福になれない状態のことです。もっといえば、「思う反応が他人から帰ってこなければ、不幸になってしまう」、こういう状態です。

 たとえば簡単な例を考えてみましょうか。
 人に出会ったときに、挨拶をしますね。それに対して、挨拶が返ってくるかどうか。返って来る場合もあるし、返って来ない場合もあります。
 で、普通の場合、挨拶が返ってこなかったら、「こっちがせっかく挨拶してやっているのに、あいつは何だ、このやろう」という風になってしまいますよね。
 つまり、「こちらが相手を気遣って挨拶したから気持ちいい」という心理にはなれなくて、相手の気持ちいい挨拶が返ってきて、初めて幸福になるわけです。この場合、挨拶をしたときの私の気持ちよさというのは、相手の挨拶如何に依存している。相手が、挨拶を返してくれれば、気持ちよくなれるけれども、挨拶を返してくれなければ、嫌な気分になってしまうわけです。

 しかし、考えてみれば、相手との人間関係を円滑にしようとして、もしくは相手のために、相手の意向はそれほど聞かずに、とりあえず自分の勝手で、挨拶をしているわけでしょう。それなら、最低限、相手の迷惑になってはいないことを確認できさえすれば、あとは、こちらが、「相手のために配慮できた自分」に自己満足して、それで十分に幸せを感じてもよいのではないでしょうか。
 ところが、多くの人は、そういう、「自己満足」などできなくて、他の方のために何かやってあげたら、それを他の方が評価してくれないと、気がすまないのです。評価されて初めて、幸せになれる。

 これまで私は、「自分の幸・不幸を他人に依存させない」という言い方をしてきました。でも本当は、もう少し言葉に気をつけた方がよかったのかも知れません。

 「他人が自分の努力を認めてくれないと幸福になれない」ということは、他人の評価次第で、不幸にもなってしまうということです。そして、こういう風な発想法しかできないと、幸福を感じるよりも、不幸を感じる確率の方が、圧倒的に高くなる。
 さらに、幸福を感じている瞬間にも、自分を信じていないものだから、「こんなに自分を評価してくれていることが、長く続くはずはない。いつか買いかぶりが解けて、自分の化けの皮がはがれて、嫌われるかも知れない」とびくびくしながら、過ごすことになるのです。

 「他人のために、何かをやってあげて、それに対する見返りがないとうれしくなれない」というのは、結局、その見返りがあることを「当然である」と思っているからだと私は、思います。
 だから、それを逆に言えば、見返りがあっても、それは当然で、それほどうれしくはない。
 ところが、相手の迷惑になっていない限り、相手のためにやらせてもらえているだけでうれしいという場合もありますよね。この場合は、相手の反応を当然のこととして期待してはいません。相手のためにしてあげているだけで、そういうことをできる自分を幸せに感じている。だから、「相手の反応を当然だ」と期待していない分、もし反応があったときには、見返りを期待していたとき以上に、喜びも大きい。こういう事ではないかと、私は思っています。

 上の挨拶の例では、挨拶をして、こちらが気持ちよくなれたんだから、それで、満足しておけばいい。挨拶が返ってこないのも、こちらが挨拶をしたつもりになっていても、聞こえなかったからだ、なんて事もしょっちゅう実際にはあるのです。
 そして、相手から気持ちのよい挨拶が返ってきたら、なおさらそのような交流ができたことを、素直に喜ぶのですね。

 ひまわりなつこさんが、ご主人とのとってもいいお話を、書いてくださいました。
 ご主人を気持ちよく迎えたいと考えて、帰ってくる前に、部屋を片づけようと心掛けるわけですね。そのように、ご主人のためにと思って、自分が行動できるだけで、うれしいのではないでしょうか。
 それが、お節介になるなら、確かに、自己満足だけにして終わってしまってはいけません。意図が伝わらないで、却って相手に嫌な思いをさせてしまったなら、それは改めて軌道修正するための努力が必要でしょう。
 でも、そうでないなら、その人のことを思って何かする相手がいることそのものを喜べばいいのではないでしょうか。
 そして相手が、その自分の親切を理解してくれたなら、なおうれしい。

 ところがこういう場合、ほとんどの人は、そこまで献身的に尽くしている自分のことを、分かってくれない相手に対して、腹を立てます。そして、相手に分かってくれることを要求し、分かってくれても、それは、一面で、そのように反応してくれて当然のことだと捉えてしまうのです。

 このように考えてしまうことを、「自分の幸・不幸を他人に依存する」という言葉で、言いたかったのです。

承認要求が引き起こす多大な弊害
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 いま、デール カーネギーという人の、『人を動かす』という本を読んでいます。今私が書いているような、自分の考えを人に見ていただこうという文章を書こうとしている人間にとっては、とても得るところが大きいです。
 その中心的な考え方は、人を言い負かしても、絶対に人は納得しない。めちゃめちゃにやっつければやっつけるほど、相手は意固地になって、反論してくるだけだというものです
 誰だって、自分を他の方に受け入れてほしいという願望を強く持っています。そして、受け入れられなければ、殻を閉ざしてしまいます。
 ところが、「この人に受け入れられたい」という欲求は、誰でもがすぐに満たされるということはありません。仕事をやめた専業主婦のような場合、社会との関わりが、会社勤めをしている方と較べると、どうしても希薄になりがちです。
 そして、別に専業主婦ではなくても、他に対する要求が強いほど、些細な承認では満足できなくて、さらなる承認を求めて、飢餓状態になることもあります。

 たとえば、その承認要求が社会では満たされないものだから、それがひたすら夫に、そして特に子どもに向かうということもあるようですね。

 本人は、自分の承認要求を、子どもに認めてもらうことで満たそうとしているということなど、気づくはずはなくて、ひたすら「子どものため」と思って行動している。そして、「こんなにあなたのことを思って行動しているのに、なぜ分かってくれないの」と子どもを責めたてます。
 このような親に育てられた子どもは、常に親にありがたがることを強制させられて育ちます。そしてありがたがらなければ、親から責められる。
 もしかしたら、子どもは、反発して親の言うことを聞かないかも知れません。でも、やはり、子どもにとって、親という存在というのは、絶対なのですね。言うことに反発しながらも、親に認めてもらえない自分を、自分が悪いから、親が自分を愛してくれないのだと、責めるようになってしまうのです。
 もしかしたら、この承認要求からではなくとも、親に愛されずに育ってしまった不幸な方もいらっしゃるかもしれません。このような場合も、自分のせいではなく、他人によって、自分を嫌う感情を植え付けられます。
 このような、自分の承認要求を満たそうとする親や、自分を愛してくれない親に育てられたが故に、自分には元々自分を嫌いになる何の理由もないはずなのに、自分を嫌ってしまう場合が多くあることを、加藤諦三という人が、よく話題にします。そして、「あなたの自己嫌悪の原因は、あなたが悪いせいではない。自分を責めないで」と教えてくれています。

 また、親が原因でなくとも、自分の強い承認要求が満たされないで、自分を嫌いになる場合もあるかもしれません。その場合は、自分を嫌いになると同時に、自分を受け入れてくれない社会を恨む。承認要求が強ければ強いほど、些細な承認では満足できなくて、いつも不平不満を抱いて不幸である。こういう状態になってしまいます。
 でも、この場合も、世間が自分を認めてくれないのは、自分が悪いからでは必ずしも無くて、自分の承認要求が強すぎるからだという場合も、当然多いはずです。

自分の承認要求を、他人に押しつけない
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 精神的に自立するというのは、自分の承認要求を、他人に押しつけないということです。それは、他からの承認を一切受け付けないということでは当然なくて、他からの承認が思うほど無くても、不幸にならない状態のことです。自分自身で、幸せになるために自由に生きて、人のためにしても、他には要求をせずに、人のためにした自分に満足できている状態。
 そして、他からの承認が返ってくれば、もっとハッピーになれる。

 ですから、こういう風に自立した人間が多くなればなるほど、優しい人間集団になるはずだと、私は考えています。
 人に優しさを押し売りせず、さりげない配慮ができて、なおかつ、それを受け入れてくれる相手がいれば、優しさを共有する。そのような社会は、本当に仏様の社会のようだと、私は思うのですが。

文学は基本的にマイナス思考
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 「人に知らせたくない自分の醜い姿を、『現実暴露の悲哀』に耐えて、あえてさらけ出す」ことこそが、真実の人間の姿を描き出すことになるのだ」と考えた日本の自然主義の作家達だけではなく、文学というのは、基本的に人間のマイナスの心情を描き出し、さらすことが圧倒的に多いはずです。
 おおらかで前向きの、のびのびした物語など、「児童文学だ」「幼稚だ」などとして軽んじられることが多い。
 たとえば、「自分の個性を生かすことが、人類のためになるのだ」と考えた武者小路実篤のような人たちの文学というのは、あまり小説好きには評価されないことが多いのではないでしょうか。
 彼ら武者小路実篤達のグループを、白樺派(しらかば)と言ったので、それを逆にして、「ばからし」と揶揄されたというのを聞いたことがあります。うまく言ったものでしょう。

 「自分の個性を生かすこと」が、「人類のため」ですよ。「身近な人のため」でもなく、「日本のため」でもなく、いきなり、「人類のため」。このように言い切って、何の変哲もない、そこらに転がっている石をひたすらかき続ける、社会からは全く評価されるはずのない、「石描きさん」のような人物を評価するのです。
 これって、本当は凄いことだと思いませんか。普通の人は、「自分の個性を生かすことが、周りを傷つけることになる」とさえ思っているところにもってきて、自分を信じ切って、いきなり、「自分の個性を生かすことが、人類のためになるのだ」と「ノーテンキ」に言い切れるわけですから。

 でも、そういうプラス思考は、文学の世界では、やっぱりあまり評価されることは少ないです。
 で、評価されるのは、漱石とか鴎外とか、極端なところでは、太宰治などマイナス思考の文学者です。

人の生き方として、すべてを見通せる人がすばらしいとは限らない
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 文学好きの人は、文学で描かれるような、「人間の真実」に目がいかないような人は、「低級だ」と考える傾向があるような気が私にはしますが、気のせいでしょうか。
 しかし、そういう人間の弱い面に全く気づかずに本当に一生を終えることができるのであれば、極論を言うと、他人からどう思われていようと、その人にとっては、「いい人生を送ることができた」といえるのではないでしょうか。おめでたくとも、それでその人が、本当に満足した人生を送ることができたのなら、それは低級だなどとさげすむべきことでははないと思います。
 「低級だ」とさげすむ人ができない満ち足りた人生を送ることができた、という意味において、「低級だ」とさげすむ人よりも、むしろ、すばらしい人生を送ることができたとさえ考えてもよいと思います。
 ところが、他人に迷惑をかけて、他人からは、自己満足しているように見えても、多くの場合、やはり、そのことを本人自身が自覚していて、心の中にぽっかり穴があいたまま、虚勢を張り続けて一生を終わることが多いのではないでしょうか。だから、不幸せ。
 なかなか、エゴイスティックな生き方だけで、自己満足して一生を送ることができる人物など、そういるものではありません。

 私自身は、「見えない幸せ」よりも、「見える苦労」を選んで、なおかつ豊かに生きていきたいと考える人間なので、文学も好きですし、文学好きのマイナス思考を喜ぶ心情も理解できます。
 しかし、「どうやったら自分が豊かに生きられるのか」を考えることなく、闇雲に「マイナス思考の文学を理解することこそが、高級だ」というような偏狭な考えを信奉してしまうのなら、それは生き方という面で、大きな損をしてしまうと私は思います。

プラス思考という言葉は、薄っぺらに聞こえる
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 「プラス思考」というと、薄っぺらに聞こえませんか。そして、薄っぺらに使われることが、実際に多い。
 何か失敗をする。「そんなの、気にしていても、くよくよするだけだから、ノーマインド、気にするな。」
 銀行が破綻しそうになっても、「失敗することを考えていたら、成功する確率はゼロになるから、いけー!すすめー!神風を信じて、突撃だー!」

 こういう風に考えようとする方も多いし、みんな「プラス思考」をこういう風に捉えているから、「プラス思考」嫌いという方がいても、不思議はありません。
 しかし、こういうのは、プラス思考でも何でもない。ただのノーテンキです。
 マイナスの条件と、プラスの条件とを見比べて、それを吟味して成功する可能性が十分あるから、それに賭けて、ゴーサインを出す。それがプラス思考です。
 成功する可能性が十分あるのに、わずかな失敗の可能性しか見えなくて、簡単な一歩を踏み出すことができなければ、マイナス思考。
 自分の失敗に必要以上にこだわってしまう多くの人たちは、どうしても、「その一歩」を踏み出せずに、またまた後悔する人生を送ることが多いのですよね。

薄っぺらいプラス思考には、みんな辟易(へきえき)している
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 誰だって失敗をすれば反省をしますし、後悔もします。そして、私も、反省し、後悔するべきだと思います。それを、プラス思考だといって、うやむやにしてしまえば、それは無責任な人間のすることです。
 ひまわりなつこさんが紹介してくださった下のような発言も、
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先日、テレビの就職セミナーに「かごめ」の社長が出ていて、
「明るく前向きで〜」みたいな、指導をうけた人間ばかりじゃつまらない。
暗さのあふれた人間もいいじゃないですか。
そういうのがあって社会はなりたってます。的な発言をされていて、

さて、今度履歴書がきたら、添削をどうしようかなと、悩んでいるところです。 =========================================================

これは、「プラス思考だ」と、いい加減に自分をごまかして、自分をきちんと見つめることができない子供じみた人たちにいい加減うんざりしている方の発言であろうという気がします。
 やはり社会生活をする以上は、自分の言動に、きちんと責任を持って生きていきたいですよね。

物事には多用な側面がある
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 前々回の日記で、浅見帆帆子の紹介をしました。彼女は非常に若い。けれども、生きる考え方は、学ぶべき所があると思います。

 物には多用な側面があるのですね。リストラをされたら、まず、自分の不幸を嘆きます。しかし、「そのリストラは、自分にとって何か必要だったから、それが自分に起こったのだ」と彼女なら、考えるでしょう。自分にとって必要なことが、自分の現在の状態とシンクロして、自分の周りに起こってくると彼女は考えるからです。
 車がパンクをしました。「ついていない」と考えるところを、「今パンクしたから、タイヤを替えるべきサインを送ってくれたのかもしれない」と考えるわけですね。それで本当に、大きな事故に遭わなくて済んだかも知れない。
 今つらいことがあって、それで、悲劇のヒロインを気取ることは簡単です。でもそれでは、自分の人生をよい方向に持って行くことなど絶対にできませんね。
 自分の現在の有り様を、全部人のせいにして、人を恨んでみじめな終わり。そうではなくて、もしかしたら、その試練は自分にとって必要だから起こっているのかも知れないと考えて、一生懸命に自分の置かれた状況に、正面から立ち向かっていこうとするのです。
 そうすると、苦しい状況を乗り越えたときに、「あのつらい状況があったからこそ、今の自分がある」そう思えるときが来るかも知れません。
 そのように、マイナスを人のせいにしないで、物には多用な側面があることを信じ、自分の人生を進んで真正面から受け取って、精一杯生きる、こういう考え方をさせるのが、プラス思考であり、自己啓発であると私は思っています。

次に続く
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 文章の途中で、10,000字制限になってしまいましたので、いつもの回りくどい文章であるのはこの際気にしないことにして、次の日記に懲りもせずに記事を続けることにします。

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