会話体の文章が、情感・内容の最良の表現法であるとは限らない

「小文字を散りばめる文体」は、新しい表現の形かも知れない
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 これまで、「小文字を散りばめる文体」については、一度も本気で考えたことなどありませんでした。しかし、もしかしたら、これは、会話時の様子を描写するためには、新しい表現の形が現れているといえるのかもしれません。
 ?!などでも、「疑問」「感嘆」なら何でもかんでも、この記号を使うようなやり方ではしないで、「なにい↑」のように、「語尾を上げて言うとき」「特に文末を強調して使うとき」などだけに限定して使用するなら、これらの記号も、会話時の様子の描写に一役買わないわけではありません。
 しかし、「?!」については、これまでの考察でもさんざん考えてきたように、「疑問」「感嘆」なら何でもかんでも、この記号を使うようになりつつあります。そして、さらに強調しようとして、表現をどぎつく、どぎつくするような使い方になっている現状では、「?!」が、会話時の様子を描写するための新しい表現として成功しているとは思えません。
 これら、新しい表現が、この後の日本語の世界で、どのように生き残っていくのかは、興味深いところです。

「小文字を散りばめる文体は親しみを表現する大事な手法」だというが
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たか〜らさんのコメント
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日本語は本当に奥が深いですよね。
「さよね」言葉は、確かに教科書には不適切(というか不自然)ですが、
ブログや手紙・メールのやり取りの大半を支配している現状がありますね。

さらに、小文字を散りばめる文体は親しみを表現する大事な手法です。

「ありがとう。」←そっけない、本当にありがとうと思ってない。
「ありがとぉ〜★」←甘えた笑顔が目に浮かぶ。
「あざぁ〜っす★」←おどけたカンジの笑顔が目に浮かぶ。
「あんがとぅッ★」←照れくさそうな笑顔が目に浮かぶ。

高校生の弟が、父親からのEMAILに本気で腹を立てていました。
「俺は父さんの会社の取引相手じゃない!
 堅苦しいメールばかり送りやがって・・・」

彼は、父親がEMAILで使う「です・ます」調の丁寧な文体に、
親近感を感じられず、疎外感を覚え、憤っているようです。
もちろん、彼はきちんとした小論文を書ける能力を持っています。

メールや手紙、ブログは限りなく話言葉に近くなってきていますが、
その背景には、文章で感情をいかに正確に誤解無く伝えるべきか、
という弛まぬ努力が感じられるのではないでしょうか。
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 たぶん、私の考えに反対なさっている方は、このようなお考えの方が多いのではないでしょうか。
 最近の文章に、「小文字を散りばめる文体」が多く登場して、それが、会話時の様子の再現に役立っている部分もあるというのは、確かにその通りだと思います。
 しかし、
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「ありがとぉ〜★」←甘えた笑顔が目に浮かぶ。
「あざぁ〜っす★」←おどけたカンジの笑顔が目に浮かぶ。
「あんがとぅッ★」←照れくさそうな笑顔が目に浮かぶ。
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には、表現に情感がしっかり込められているが、「ありがとう。」には情感がなく「そっけない、本当にありがとうと思ってない」という捉え方は、いかがなものでしょうか。
 確かに、「甘えた感じ」「おどけたカンジ」「照れくさそうな感じ」を出すには、それらの表現が有効かも知れません。でも、本当に自分にとって涙が出るほどありがたいとき、それを表現するのに、どのような書き方をすればよいのでしょうか。おそらく、「小文字を散りばめる文体」でそれを表現しようとすれば、それを受ける相手は、「バカにするな」と、反感を抱くだけのはずです。
 まごころを込めた「ありがとう」の雰囲気を伝えるためには、表現として一番きっちりしていると思われる書き方をしないと、多分その気持ちを正確に相手に伝えることはできません。
 しかしそれなら、きちんと「ありがとう」と書いておけば真心が通じるかというと、やはりそんなことはありませんよね。
 「ありがとう」という言葉は、本来、どんな色にでも使える言葉だと思います。本当にありがたいとは思っていない、口先だけの時にも、心底からありがたいと思っているときにも、どちらにでも使えます。そういう、どちらの色にもなる言葉を使いながら、前後の文脈の中にこの言葉を置くことで、この言葉に色が与えられるのです。言葉とは本来そのようなものなのではないでしょうか。
 「日本一」と書いても、どれぐらい「日本一」だと感じているのかが伝わらない。どのように「日本一」なのかも伝わらない。だから、「日本一」という言葉を、本当に伝えたい色に染めるために、前後の文脈が絶対に必要なのです。
 時には、「日本一」と書かないことも。

 それを、「小文字を散りばめる文体」でなければ、情感がこもっていないと考えてしまうとすれば、それは、文章に込められた情感を本当に理解しようとしているのではなくて、「小文字を散りばめる文体」ではない、普通の文体を見た時点で、感じることを拒否している、そういう態度になってしまっているのではないでしょうか。そういう意味で、以前ぶんさんが書いてくださったような、このような文体でないもののマイナスの記号化がなされていると考えるべきだと思います。
 「ありがとぉ〜★」「あざぁ〜っす★」と書いて、伝えられる情感というのは、この表現の種類だけ、何パターンかしかないわけですから、それ以上に、「ありがとう」に込められるべき無限の情感を、本当にきちんと伝えたいなら、このような「小文字を散りばめる文体」だけに頼っていればよし、というような考え方には、到底同意できないはずです。
 もし仮に、やはりこのような「小文字を散りばめる文体」を使う場合であっても、それを使うだけでだけで「情感を伝えることができた」などと安心はできません。必ず前後の文脈の中で、これらを色づけて使おうと考えるはずです。

 お父さんの手紙に、どのような情感が載っていたのか、私には分かりません。しかし、多分文面には、子どもを気遣う優しさが、素っ気なくであるか、濃くであるか、にじんでいたのではないでしょうか。それに、腹を立てる受け取り方しかできないとすれば、失礼ですが、きちんとした文章が書ける、読めるということは、おそらくないと思います。

口語化していることが、気持ちを伝える努力であるとは必ずしも言えない
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メールや手紙、ブログは限りなく話言葉に近くなってきていますが、
その背景には、文章で感情をいかに正確に誤解無く伝えるべきか、
という弛まぬ努力が感じられるのではないでしょうか。
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 「書く言葉が、話言葉に近くなってきていることが、文章で感情をいかに正確に誤解無く伝えるべきか、 という弛まぬ努力の結果である」という考え方には、そのまま賛成する気にはなれません。
 私がいつも書いているように、私たちの頭の中というのは、かなり筋道を立てて考えているように思っていることでも、そのつながり具合はいい加減です。それをそのまま文章にするようなことをすると、とっても甘い文章になってしまいます。
 会話のやりとりというのは、基本的に内容をきちんと理解するという前提で成り立っているというよりも、それをやりとりするお互いが形成する雰囲気によって、かなり曖昧な内容を含みながら成立していきます。
 ですから、もちろん伝えたい内容にもよりますが、会話で、内容・情感をよりよく伝えることができるというのは、おそらく幻想に過ぎません。
 確かに、会話時の雰囲気や、様子は、話言葉調の表現を工夫することで、よりよく伝わるのでしょうし、「小文字を散りばめる文体」や顔文字などは、そのそのための工夫であると、私も思います。

 しかし、会話時の雰囲気や、様子を、たかが表記によって伝えることが、内容・情感を深く伝えることに直結していると考えるのは早計です。
 今日の、話言葉調の文章、顔文字などの大流行は、むしろ、内容や情感をきちんと伝えようという欲求が、希薄になってきているからではないかという気が私にはしてなりません。
 何事でも、伝えたい情感であるにしろ、内容であるにしろ、そういうものをきちんと伝え、受け取ろうとすれば、とても大きなエネルギーが必要です。そのエネルギーを払わないで、日常我々が接している人たちとするような、深入りしないやりとりに最適な表現が、いま大流行している会話体の文章なのです。

「さ・よ・ね」を一括で論じてきたが
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 「ねさよ言葉廃止運動」というような言い方をされたので、何も考えずに、「さ・よ・ね」を一括で論じてきました。しかし、考えてみると、りゅうじろうさんが、下の文章で考えてくださったように、それらをすべて一括して論じてしまうのは、ちょっと乱暴すぎました。

りゅうじろうさんのコメント
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今回ばかりは、大きな課題を頂きました。

ありがとうございました。
結構時間がかかりました。

本来、私自身「さよね言葉」に対しては
{たか〜ら サン}が仰るように
文章に感情を入れる手段だと思っていました。
なので、大きな嫌悪感を抱くどころか
私自身も使ったりしています。

ただ、それを使う時の感情に光を当てて考えてみました。

そこで感じてきたのは、「自己完結出来ていない」という事です。

「さ」を使うときは、少し違うのかもしれませんが
照れを隠したり、逆に虚勢を表現したり
と、自己の「勢い」を表現するときです。

しかし、「よ」「ね」に関しては、
必ず、相手に同意を求めています。
自己の主張に対して、意見として完結していない為
同意を求めてしまうのではないでしょうか。

これが、言葉でのコミニケーションの場合
反応までの時間が限られている事もあり
同意を求める事は多いと思います。

特に女性同士の場合は意見を求める
会話より、会話をしている時間を楽しむ
傾向があります。
古くは、井戸端会議です。
ここでは、「意見を求める」より
「同意を求める」会話を主体に構成されます。

これを、そのままの形で文章として表現すると
「よ」「ね」が増えるのもうなずけます。

紫式部などの手紙と、史実を合わせれば
行間にどのような思いを込めたか見てきます。
本当に伝えたいことを書かず
それを伝える事の方がしっかり伝わる
事を、意識していたのでしょう。

先生が仰るように
文章と会話は違うのです。
PTOも存在します。

ただ、自己完結できて、自分の意見を持つ事が
「さよね言葉」を使う事と関係していると思います。

相手の感情変化をくみ取りながら文章表現をしていく
これが、文章表現の究極の美学でしょうか。
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 このように、「それを使う時の感情」を振り返ってみる視点は、とても大切なことだと思います。それによって、それまで無自覚な時気づかなかったことが、かなり見えてくるはずです。
 りゅうじろうさんのアプローチとは若干異なりますが、私なりに、この違いについて考えてみます。

文の途中に出てくる「さ・ね」
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 わたしは、生粋(きっすい)の岡山県人なので、「さ」など使いません。今テレビの「バッテリー」でやっているように、「〜してなー、こうしてなー、〜なんじゃぁ」。文の途中なら、「な〜」で、文末なら「じゃ」です。
 東京の人などは、「さ〜」でしょうか。

 文の途中で出てくる「さ・ね」は、相手に語りかけて念を押していますね。「〜してね、〜でね〜なの」
 これはまさに、会話をしていて、相手に念を押しながら語りかけている言い方を、そのまま文章に移したものでしょう。
 これを文章を書くときにいつも使うとすれば、前回私が言ったように、「話言葉と書き言葉とは違うから、使い分ける必要がある」という認識を育てるためには大きなマイナスになってしまいます。
 会話体の文章でなければ、親近感を持てない感性を育ててしまいがちになるという意味で、小学生にこういう指導をしてしまうのは、弊害が大きいと思います。

文末の「ね」
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 これも、会話体の文章に違いはありませんが、文末にたまに出てくる程度なら、言ったことに対して、念を押すという意味で、時にはこうした表現も必要になる場面もあるでしょう。
 特に、「です・ます」の文章で、相手に念を押す必要がある場合には、「ですね」という言い方を、私も時々します。
 しかし、文末に毎回出てくるなら、上の文中の「さ・ね」と同じことが言えます。

文末の「さ」
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 これは、東京の人たちのように、普段から「〜さ」をよく使っている人たちと、私のように普段はまったく縁のない人たちでは、そこに込めるニュアンスが変わってくるかも知れません。
 普段頻繁に使っている人たちなら、もしかしたら、語りかけて念を押しているだけなのかもしれません。
 しかし、普段使わない人が使う場合には、りゅうじろうさんが分析なさっているような、「照れを隠したり、逆に虚勢を表現したり」するニュアンスが込められる場合が多いはずです。それを分かって適度に使う分には、問題はありません。適した表現を、適した場面で使うだけのことです。
 しかしこれも、文末に頻繁に出てくるようなら、上の文中の「さ・ね」と同様、問題があるでしょう。

「よ」
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 「よ」も、相手に対する語りかけ念を押す表現です。この表現の奇妙なところは、普通の会話ではそれほど使われる頻度は多くないはずなのに、作文になると、なぜかたくさん使われるということではないでしょうか。
 私が閉口したのは、息子が、すべての文末に、「〜よ。〜よ」とくっつけた文章を書くようになったことです。たぶん、「〜よ」と、「相手に語りかけるように作文を書け」と、先生が指導なさったのだと思います。
 普通文章を書くとき、「〜よ」と語りかけながら念を押さなければならない機会というのは、ほとんどありません。「〜した」と書けば、それで十分だからです。
 それなのに、必ずしも相手に語りかけ念を押す必要もないところで、やたらと「〜よ」と念を押して呼びかけさせるのは、そういう「念押しのどぎつさ」がなければ文章を書けないと錯覚させてしまう点で、問題があると思います。
 日常会話でさえそれほど使われることはない表現なのに、あえて必要のないこういった会話体の呼びかけを多用させることは、「話言葉と書き言葉とは違うのだ」という認識をきちんと持たせるためにも、大きなマイナスになるはずです。

次に続く
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 文章の途中で、10,000字制限に、またまたなってしまいました。次の日記に懲りもせずに記事を続けることにします。

コメント

  1. 匿名 より:

    お久しぶりです、いつも楽しみにしています。
    「文章の力で世界を広げる」、ということではなくて
    「親しみを表現する」ことが主題ならば、会話的表現にこだわるのもわかります。
    でも人が人に「親しみを表現する・伝える」ことが主な目的であるならば
    文章というツールを使うより直接顔を合わせることの方がわたしは大切な気がいたします。
    この頃の風潮として寂しく思うことは
    照れの為か忙しさの為か、親しみを伝えるとき携帯電話やメールにたより過ぎ
    実際に顔を合わせて向き合う機会が減ってしまっていることです。
    誰か自分を肯定してくれる存在を強く求めているとき
    メールで済ませ合うことが増えているように思います。
    文章にはいろいろな使い方があるので
    文章というなの芸術と親しい人間関係の確認がごちゃ混ぜになって何だかわからなくなってしまう人も出てくるだろうなと思います。
    個人的にはNeko先生の日記(文章)の主題にある
    「文章の力にフォーカスする」というのはとても興味深い内容です。
    私もほんの少しですが家庭教師等教育関連のアルバイトに携わっていたことがありまして、
    ●寂しい気持ちを多く抱えてる生徒さんには愛を
    ●向上心の行き場を見つけられずにすらすトレーションを起こしている生徒さんにはスキル習得のきっかけを
    与えてあげることが大切だなと感覚的に思っておりましたが
    本日の日記を読んで言葉で再確認することが出来ました。

  2. あんどぅ より:

    初めまして。
    私も日本語に関わる仕事をしてきたので、とても興味深く拝見させていただきました。
    確かに私自身、親しい友達にあてて打つメールは会話体で、
    ブログも「です・ます」体ですが、これも会話体です。
    ただ「さよね」については、どうでしょうか。
    「さ」はまず使わないし(神奈川県藤沢市出身だからでしょうか。「さ」を使った言葉はもの凄くすかした感じがして抵抗があります。同意を求める時には「じゃん」になります。もっと「すかして」ますか?)
    「よ」は普通に使いますが(自分の感情に対する同意を求めるニュアンスでしょうか)、
    「ね」は口頭で使うのであればいいのですが、字面にすると過剰に「女性的」になるような気がします。
    でも。どちらにしても、たとえば「★」などの記号を使うことは稀です。
    どなたか書評家か、作家か、記者か、とにかく文筆業の方のエッセイにあったのですが、メールを送るにしても「できるだけ記号に頼らない書き方をしたい」とありました。この意見には大いに頷きました。
    私も、文章を書くときは、そういう記号などに頼らないで「気分」を表現したいと思っているので、記号は使いません。
    もっとも、日本にいた時私が使っていたのがPHSで、ドコモのケータイのように記号を打つと文字化けするから、という理由もあるし、大体記号を打つのがめんどくさいから、というのもありましたが。
    私の友達は私の書く文体を知っているので大体わかってもらえますが、若い世代の人はどう思うのか知りたいところです。
    それでも「固っ苦しい」と思うものなんでしょうか?
    会話体でも「です・ます」を使う時でも、その他の言葉選びなどで、
    印象は十分変わると思いますが、どうでしょうか?
    親しみを伝えるのであれば、直接会うのも有効ですが、
    文章(手紙……今の世の中まずあり得ないでしょうが)や
    メールでも、時と場合、書き方によっては十分気持ちの伝わるツールだと私は考えてますが。

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