文章を書くことと読むことと

 最近何かと忙しく、新しい記事を書けておりません。

 かなり前のことになりますが、4月12日の自己啓発の記事に対して、大島さんからいただいたメッセージを紹介し、それに対する感想を書きました。

 それ以後のメッセージのやりとりで、とてもいいお話ができたので、皆さんにも、ご紹介しておきます。

大島さんのメッセージ1
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Nekoさんのお考え、しっかり拝読させて頂きました。あのような文章を読ませてしまっておいて、僭越ながら、言ってよかったと思っております。
読まれた方々が考える切欠になれていたら幸いです。

三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、私の意見とNekoさんの意見を合わせれば、大抵の場合、救われる事があるのではないかと思います。一人で両方を言おうと思ったら、矛盾だらけになると、私は思います。あともう一つは、私や、Nekoさんや、読んで下さった皆様が各々発見してくださるといいですね。「もう一つ」と言っておきながら、100人いれば100通りあるかもしれませんけれど。

人生は色々とあるもので、一つの考えが全ての事象に当てはまる、といったことは、少ないと思います。私は恥ずかしながら、物書きを目指しておりますから、色んな人の様々な「正解」を知らねばならないと考えております。今回Nekoさんにもそれを知らしめようとしたのは私のエゴです。反省しております。

あれだけ言っておいて、恥ずかしながら私には、私にとっての完全な論がありません。(だから物書きへの夢を未だ目指しきれていないのです…。)色んな正解を、見るだけではなく、自分の持つ正解の一つにしてしまうと、万事に対応できるかと思いきや、返って生きるのが大変になります。全て正しいのに、誰を責める事ができるでしょうか。そうしていつの間にか、本来自分がどういう考えの人間であったか忘れてしまうのです。自分にとっての完全な論がないというのは、そういう事です。身動きが取れません。私にしてみれば、聖人君子と犯罪者は等しく正解です。
そういう人間はこういうとき、何も言ってはいけないと、分かっていたのについ言ってしまいました…私が未熟者故にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。

ただ、こういった格言めいたものは数学の公式のようなもので、なぜ「1+1」の公式で「2」になるのか理解しなければならないと思うのです。まして、人の生き方は様々ですから、「こういうことが言いたいのです」と、きちんと説明しようと思ったら論文のようになって然りだと思うのです。
文章を恥じ入る私に、Nekoさんから訂正をご提案頂いたときに私もそう言いましたし、私(や他の皆様)に誤解なく伝えるために、Nekoさんはこうして、論文のようなものを書いて下さいました。
今後、短い言葉でまとめたものをご説明なさる際に、お心に留めて頂けると幸いです。

私が言える絶対の真理は「正解は一つじゃなくて良い」です。これだけは絶対に間違いないと信じております。この言葉自体、では数学は?とか、反論ができるのですが、そもそもそれが「一つじゃなくて良い」ということです。私はこういう心構えで拝読致しました。また、Nekoさんが半ば反論のようになりながら私を否定しなかったのも、同じお考えでのことだと思っております。
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Nekoのメッセージ1
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 メッセージをありがとうございました。
 お答えになるかどうか分かりませんが、少しだけ書いてみます。

 大島さんに限らず、反対のコメントがつくと、正直、右往左往します。「どうしようか」と思います。生き方の問題ならまだしも、自己啓発の問題を書く前に話題にしていて、今据え置き中の文章についての意見など、割合白黒がはっきりしますので、全く否定的なコメントが寄せられると、本当に精神衛生上よくないです。
 でも、「このようにまで、極端に受け取るのか」というような反論を見せていただいて、「いや、そんなことは、思っていない」というような反論を書くおかげで、思いもしなかった受け取り方を想定しながら、自分の考えをもう一度、説明し直せるので、自分の考えを、分かってもらえる前提で話をしているときよりも、深みが増してくるように思います。
 そういう意味で、反対の意見を寄せていただいたおかげで、今回の話題についても、自分が一人で考えて書いていたときよりも、より内容のある話が書けたのではないかと思います。

 私が大島さんの意見を全否定しなかったのは、きれいごとを言えば、「『生きる』ということへの大島さんの姿勢がまじめで、好感を持ったから」、もっと裏の部分を露骨に言えば、全否定しても、このような思いやりのあるメッセージをいただけるように納得していただけることはないだろうと思ったからです。

 もう一つ、今度は、立場が変わって、私の方がもっとシビアな考え方をしているかも知れないという話です。

 「正解は一つじゃなくて良い」というのは、その通りなのですが、それでは、「誰が何を考えても正解か」と言ったら、私はそのように考えたくはありません。
 「誰が何を考えても正解だ」というような相対主義に陥ってしまうと、よりよいものを求める議論など、始めるだけで即却下されてしまいますので。

 どういうことかというと、書かれているものを読む場合がありますよね。「どういう読み方をしても、受け取り方は各人それぞれだから、正解はない」というように考える方がいらっしゃいます。
 しかし、元になる筆者が書いた文章がある以上、なるべく私感を交えずに筆者の文章を理解してあげるという立場から考えたら、やはり読み方の善し悪しというのは、あると思います。
 確かに、「正解は一つではないかも知れないけれども、正解だと思われる解答に届かないところでの、読みの善し悪しは、歴然とある」「一つではないかも知れない、並立を許される正解というのは、かなり高度なレベルまで、突き詰めて読んでいるものだけのものである」と、私はこのように考えています。
 書かれていることを上っ面にしか理解していない読解と、よくよく理解して、行間に込められていることまで読み取っている読解とが、同じレベルで評価されるべきではないというのが、私の意見です。
 もちろん、自分が読んだ読み方を、自分のものとして、生き方に生かしていくということだけを考えれば、どんな読み方であれ、本人がそれでよければ、他人がとやかくお節介をやく筋合いはありませんけどね。

 同じように考えれば、どのような生き方をしようと、本人がそれでよければ、それでよいわけですが、やはり、崇高な生き方と、卑しい生き方とはあるだろうということです。但し、生き方の問題などについては、読解などの問題についてよりも、善し悪しを判断する基準というのは、考え方によって、かなり幅はあるでしょうが。
 他人の生き方はともかく、少なくとも、自分の生き方を考える上では、こういう考え方をしないと、自分の人生をよりよく生きることなど出来ないような気がします。

 小説ですが、、芥川龍之介の『藪の中』ではないですが、全く正反対の生き方をする、人たちが、それぞれお互いを否定しながら生きているのに、「どちらの生き方もなるほど正解だ」と読者に感じさせることができる小説を書けたら、面白いでしょうねえ。
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大島さんのメッセージ2
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>  「誰が何を考えても正解だ」というような相対主義に陥ってしまうと、よりよいものを求める議論など、始めるだけで即却下されてしまいますので。

まったくその通りです。でも、誰が何を考えても正解ではいけない、と思うから、戦争は起こるのでしょう(他の理由も多々ありますが、一因ではありますよね)。
とはいえ、やはり許容範囲もありますけれどね。犯罪者すら正解である私でも、人が人を殺すというのは社会に於いて間違いでなければならない、と考えています。

私が正解としているのは、それが人間として人間らしい感情の経緯ならば、自然な働きであるということで「正解」としています。それを否定することは人間を否定する事だと思うのです。ですから私は、矛盾だらけの人間に矛盾を感じません。人間とは矛盾を抱えるものだと思うからです。それは人間として正しい、と私は判断致します。また、その矛盾をなくそうと努めることも、人間として正しいと思います。矛盾に負けて自己嫌悪に陥るのも、人間として正しいと思います。
Nekoさんの方がシビアというより、立ち位置の違いかもしれません。私は文章の中に生きているので、もしも可能ならば全ての人間からの視点で世界を見たいくらいなのですが、社会に生きるうえで正しいのはNekoさんだと思います。社会と私では、(私にとっては)残念ながら、人間として正しいかどうか、という言葉の意味が異なります。社会に於いてこの言葉では、「人間として」を「共存するためのルールに於いて」に置き換えることが出来ますが、私の方はできません。

横文字が苦手なので、今goo辞書で調べてみましたら、シビアとは「要求・条件が過酷であるさま。また、批評・言動などが容赦なく、手厳しいさま。」だそうです。私の立ち位置で生きることが、全く過酷ではなく、易しいものだと思われたとして、果たして他の立ち位置の方に正しく理解できるのか、疑問ではあります。しかし、単純に社会本位の視点で生きることを「シビア」という言葉で表現なさったのなら(この語には、そういう用法が目立ちますので)、そうだと思います。

社会を生きるうえでお前は間違っている、と私が言われたとして、私は「そうですね」としか言えません。その視点からの論点で責められても、私はその視点に生きていないので、こちらの視点を視野に入れて頂けない事を残念に思うだけです。でも、それを責めたりはしませんし、そういうつもりでもありません。社会で生きることは人間としてとても正しいことだと思うからです。間違っているのは私です。私はそれを、正すつもりがないのです。本当なら社会に存在したくないくらいです。社会での私はただ、人に優しくしたり、理解を示したり、同情したり、親切にしたりできるように努めているだけの、浮浪者です。
ですから、私とNekoさんでこの事について一つの答えだけを正しいとすることはできません。Nekoさんはそれを理解し合えないと思うでしょうか。ですが例え理解して頂けなくても、認め合えないかと思ったので、申し上げてみました。
「正解は一つじゃなくて良い」という言葉がこれに当てはまらないとして、Nekoさんが正しいとき、もちろん私は間違っているので、認めないどころか、いっそ全否定して下さっても構いません。私はNekoさんの仰っていることを理解しているつもりです。そして私が一般的に理解されにくい生き方を、理解されにくい場所でしていることも、理解しています。

立ち位置の違いは、次についても言えます。

>  どういうことかというと、書かれているものを読む場合がありますよね。「どういう読み方をしても、受け取り方は各人それぞれだから、正解はない」というように考える方がいらっしゃいます。
>  しかし、元になる筆者が書いた文章がある以上、なるべく私感を交えずに筆者の文章を理解してあげるという立場から考えたら、やはり読み方の善し悪しというのは、あると思います。

Nekoさんは、本当に本がお好きなのですね。この部分で、とてもよく分かりました。同じ本好きとして、なんだか嬉しかったです。
ですが、書き手としての私は(書き手全てが私と同じとは思いませんが)、「筆者の文章を理解してあげる」などという優しさは要らないのです。読みたいように読めばいいと思って書いています。私にとって、基本的に「書き手」は学生ではなく、プロです。全く意図せぬ読み方をされて、読解力のないヤツめ、と腹を立てる前に、表現力が足らなかったと反省すべきなのです。お金を頂いているのですから。
「小説は読み手の頭の中で完成する」という言葉をご存知でしょうか。これについての意見は(特に書き手からの意見は)様々だと思いますが、私はこれを真実だと思っています。何を正しいと思うかは読み手の自由です。それを意のままに操れるよう、書き手は常に努力しているのです。

私は小説書きですから、小説に於いた話をします。

本というのは、生きるうえで全く「必要」ではありません。人間は本がなくても生きていけます。そのようなものにお金を払うに値するかどうかを判断するのは読み手なのです。全く意図したことと違ったものを受け取られても、それで読み手が満足すれば、それが全てです。
ですが、こちらとしては、意図した通りに受け取ってもらったほうが、満足してもらえる可能性が高いと考えます。だったら、意図した通りに読んで欲しいと努力するのは書き手の力量であり、本当を言えば、「筆者の文章を理解してあげる」だなんて、私だったら屈辱にすら思います。こちらはプライドをもって文章と接しているので、読者は何も考えずにのめりこめ、否、のめりこませてやる。そう思っています。何も考えずに読ませる文章は、なかなか書けないものなんですよ。
ですから、文法の問題ならまだしも、内容についての正解なんて、なくていいと私は思います。私の意図した「正解」が、読んだ人の内、なるべく多くの人にとっての「正解」になるよう努力しますが、違ったからって読み手のせいにはしたくありません。
また、読み手としても、個人的に、書き手の正解のみを訴えてくる本は好きではありません。読み手が色々考えられる懐の広さがあった方が楽しめます。読みながら、また、読み終わった後、色々と思考が巡らされたことはありませんか。生きるってなんだろう、優しさってなんだろう、人間ってなんだろう、世の中ってなんだろう。そう考えるときに、この本の作者はこう言いたかったんだろう、ということは、私の記憶にある体験では、あまり問題ではありません。一般的には、自分で色々考えて、答えを見つけるのではないでしょうか。その、自力で辿りつく「正解」が作者の意図した「正解」と同じである、という読者が大多数を占める作品が、「名作」なのだと、私は考えます。

文章表現を生業としようとする人と、国語を教えようとする人では、文章に対する立ち位置が違うように思います。というより、同じく文章を心から愛している者同士でも、姿勢が全く違うのだな、とNekoさんの記事を拝読していて思いました。

>  書かれていることを上っ面にしか理解していない読解と、よくよく理解して、行間に込められていることまで読み取っている読解とが、同じレベルで評価されるべきではないというのが、私の意見です。

国語を教える立場からしてみれば、これは非常に正しい御意見だと思います。Nekoさんのような先生に教われば、生徒の読解力はとても高くなるのではないかと思います。
私の立場からしてみれば、別にどう読んでくれても構いません。上っ面にしか理解してもらえなかったのは、引き込めなかった己の力量が足りなかっただけであり、読み手の評価は、物凄く読み込んだ人の評価と全く同等に貴重です。(参考になりますから)

>  他人の生き方はともかく、少なくとも、自分の生き方を考える上では、こういう考え方をしないと、自分の人生をよりよく生きることなど出来ないような気がします。

まったく、仰るとおりです。それで私は「返って生きるのが大変になります」と申し上げました。よりよく生きられないからです。

>  小説ですが、、芥川龍之介の『藪の中』ではないですが、全く正反対の生き方をする、人たちが、それぞれお互いを否定しながら生きているのに、「どちらの生き方もなるほど正解だ」と読者に感じさせることができる小説を書けたら、面白いでしょうねえ。

ご助言ありがとうございます。書きたくなったら、そういうテーマのものを書くかもしれませんね。さて、藪の中で芥川龍之介が言いたかったことはなんでしょうね。私もそれと同じ事を言いたいと思ったときに、同じような話(正反対の人たちで構成されている話)で伝えたいと思うでしょうか。
私はそういうところで生きています。お気持ちはありがたく頂戴致しますが、意図した二番煎じは、しないつもりです。相手が芥川龍之介では、分が悪いですしね(笑)
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Nekoのメッセージ2
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メッセージをありがとうございました。

 人間らしいという点では、世の中から糾弾されるようなことをしている多くの人は、きわめて人間らしいと思いますよ。立派なだけが人間ではないですから。
 人間考察だけなら、それでいいと思いますが、私の考えをお認めになっているように、私は自分の生き方をどうするかという立場から、物事を考えているので、「人間とはなんぞや」というような本質論にはあまり興味がありません。
 というより、その本質論を、「それでは自分たちはどうするのか」という視点で考えたいと思っています。

 小説の読み方については、小説家としてそのように考えたいというお気持ちは分かるような気がします。
 しかし私は、読者の立場として、文章、特に小説というのは、筆者の意図通りではないその他の部分が少なからずあると思っています。ですから、私は、「何を筆者が言いたかったのか」というような問はしません。ここに書いてあることを、よりよく、より豊かに読むためにはどう読むのかという立場です。
 「小説は読み手の頭の中で完成する」という言葉を、私はそのように受け取っています。筆者の意図通りには、100%なっているわけではなくて、筆者の意図を裏切った要素も含むものとして、小説が存在している。それを、よりよく読むか、より悪く読むかは、読者にゆだねられている。そして、より多くの人が納得するような、よりよい読み方をしていきたいと、そういう考えです。
 私が「よりよく理解してあげる」と言ったのは、そういう意味です。

 こんな考え方は、プライドを持って書いていらっしゃる作家の方には、認めてはいただけないでしょうね。

 『藪の中』は、何を言いたいのか、私も分かりません。ただ、相対的で分からないのは、各個人の事件に対する見方でしかないということは言えると思います。
 ただ視点が相対的だというようなことで終わるのなら、二番煎じになるだけでしょう。事件の見方が違うというような、そういう分かり切ったことではなくて、私が言いたかったのは、生き方の問題です。全く正反対の考えで、正反対の生き方なのに、どちらもそうだよなあ、そんな生き方をしてみたいよなあ、というような小説のことです。
 そんな小説が書けたら多分すばらしいでしょうけれど、とっても難しいでしょう。
 少なくとも私はそういう小説には、お目にかかったことはありませんし、聞いたこともありません。
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大島さんのメッセージ3
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お返事ありがとうございました。
一箇所だけお返事をしたく、夜分に失礼致します。
>
>  こんな考え方は、プライドを持って書いていらっしゃる作家の方には、認めてはいただけないでしょうね。

認めないなんてことはありませんよ。誤解をさせてしまったようで、失礼致しました。
Nekoさんの立場や考え方を否定するつもりは、実は始めから私にはないのです。
始めはもっと視野を広げて欲しかっただけで、それはエゴだったので謝罪しました次第です。
そもそも、既に申し上げましたように、私は自分と異なる存在をそのまま飲み込んでしまう人間なのです。
Nekoさんと私は異なる。それが、私には何の問題にもなりませんし、取り立てて騒ぐ事でもありません。
私はNekoさんのご意見に、いつでも同意ができますし、いつでも批評ができます。
でも、決して否定はしません。Nekoさんほど(恐らく)苦労して考え抜いて、だからこそ「正解」を述べられる方であれば、尚更です。

Nekoさんの考え方は、Nekoさんのプライドだろうと思います。
私は、目指す場所が己の身には高すぎて、より多くの自意識を持つよう心がけています。読者のせいにしたくないというのも、その自意識の一つです。
また、これは大学で私と同じような人たちの中で学んでいるときに、身を以って学んだことでもありますので、作家を志すような人間は、大概がこういう自意識を持っているのではないかな、と予想します。
ですが、本当は、お互いの協力によって生まれるものなのだろうと、Nekoさんのご意見を伺っていて思いました。
よりよく書こうとする筆者、よりよく読もうとする読者によって、作品はどんどん、よりよくなっていく。そんな気が致します。

けれど、私の立場からは読者のせいにはしないような、よりよい文章を描こうと努める姿勢が欠かせませんし、よりよく読める人を増やそうというNekoさんの姿勢も欠かせませんよね。
仲良く手を繋ぐというよりは、互いに互いを高めあう、切磋琢磨の間柄と言った方が、しっくりきます。
私のような自意識を持つ作家と、Nekoさんのような自意識を持つ読者の間には、きっと素晴らしい作品が生まれることだろうと思います。
なんだか、素敵ですね。
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