表現の奥に動いている心理

  「?!(笑)」についての議論の続きで、サンタ まりぁさんから、下のようなコメントを、頂いていました。これに返事をしようとして、コメント欄の2,000字の字数制限を超えてしまいましたので、こちらに載せておきます。

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釈迦に説法みたいな話になるので詳細は割愛しますが、先生のお話は「ねさよ言葉廃止運動」みたいに感じてしまうのです。

釈迦にネ、説法みたいなサ…といった話方に無批判であれ、とは思いませんが、戦後の国語教育の失敗例を繰り返しているかのように私は感じました。

添削については、テーマの立て方がおかしいと思います。
意図はわからなくもないのですが、「ちょ〜うまい」を「少しうまい」に変えるのは乱暴すぎるし、「一個人の主観よりも文章全体のバランスを重視して技巧的に飾れ」といったニュアンスが感じ取れます。
客観的に受け入れられる味でなくても、或いは作者自身もそれを承知で、「ちょ〜うまい」と感じているのだから、表現方法はともかく、お袋のカレーは100点満点としておかないと、技巧に走り、本来伝えたかった事は伝わらないが綺麗な文章になったといったことになりはしないでしょうか?

ねさよ言葉、?!(笑)をやめさせる事に躍起になりすぎて、やめた向こう側が見えない。ねさよは無くなって「釈迦にぃ、説法ぉ、みたいなぁ…」に変わって大喜び出来るわけではないでしょう。

学術論文の書き方と、日記の書き方違いを明確に線引きし、整理したうえで話を進めていただければ混乱も少なかったと思いますが…
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サンタ まりぁさん

 初めて本音を教えていただいてありがとうございます。うれしかったです。

 私は、文章について、何も他人の文章を読んで勉強したわけではないので、「ねさよ言葉廃止運動」というのは知りません。
 それほど、「お釈迦様」みたいなことはないです。私の文章に、他の方の引用が出てこないのは、他の方の言っていることを知らないから、書くことがないというだけの話です。

「表現の奥に動いている心理」を問題にしたい
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 以前にも書きましたが、うちの小学2年生のぼうずが、作文と言えば「〜よ」を使いたがるのには、私もそういう指導に閉口してはいます。はっきり言って嫌いですね。
 でも、私が問題にしているのは、そういう、「文章の表面に現れる形」のことではありません。そういう形を取ろうとするときに、働くのではないかと思われる筆者の心理、そこを問題にしたいのです。
 「表現するときの筆者の心理の奥」に、「『自分の考えをきちんと表現しなくっても分かってもらえる』というようなある種の甘え」があるのであれば、必要な場面では、そういう甘えを自覚して、甘えない文章を書いてみることも大切なのではないですか、ということです。
 ですから、「とにかく、やめてしまえ」という議論をしているわけではありません。「やめた向こう側」で、自分の表現に対して、その表現をしようとするときの、自分の心理をもっと深く見つめてみると、今まで当たり前だと思っていたことが、それほど当たり前ではないということに気づきますよということです。それに気づけば、場に応じた、適切な表現を考えていけばよいのではないでしょうか。
 ただ、理屈をうんぬんするよりも、形を飲み込んで、実際それもやってみて、初めて言われていることが分かるということがあるので、理屈を理解していなくても、まず、?!(笑)をやめてみることも、大切だとは思います。

 「釈迦にぃ、説法ぉ、みたいなぁ…」みたいな表現については、直接書いたことはありませんが、「です・ます」について書いて、それこそ、かなり反論をいただきました。(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=698550014&owner_id=14874745)「『釈迦にぃ、説法ぉ、みたいなぁ…』みたいな表現を嫌う人が多いから、やめなさい」というのではなくて、確かにそういう観点も必要でしょうが、それだけではなくて、「です・ます」と「だ・である」を書くときとで、書く人の意識の持ち方が変わってくるらしい、だから、「です・ます」だけではなくて、「だ・である」の文章も書いてみようと提案しました。
 何が何でも、形が嫌いだから、やめなさい、と言おうとしているわけではありません。

 「学術論文」だから、「日記」だから、と分けて考えるのは、それこそ形で分けているわけで、わたしは、それら形を問題にして議論をしたいわけではありません。私は、そういう書き方の文章には、こういう特徴が出るから、学術論文などでは、しない方がいい。こういうところは、どちらも共通で、知っていた方がいい。心理の背景を知っていて、同じ「日記」を書く場合でも、文体を変えましょう、とこういうようなことを考えています。

自分の感じていることを伝えるために、何を書くか
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 確かに、「『ちょ〜うまい』を『少しうまい』に変えるのは乱暴すぎる」と思います。文章を全部変えてしまっては、表現の違いというのはなかなか伝わらないので、最小限の変更で、違うところを見せようとして、その方が少しはましかな、と思ってそうしたまでのことです。
 おっしゃるとおり、乱暴すぎるますし、それほど、よい表現だとは私も思いません。
 ですから、本当は、「『お袋のカレーは100点満点』ということを伝えるために、材料としてどのようなものを用意して、それをどのような順番で並べていくのか」ということを、考えていくべきだと思います。
 ただ単に、「お袋のカレーは100点満点」と書いても、読者はそれを自分の実感として捉えてくれるわけではないので、その筆者の思いを、読者が共有してくれる文章を書くためにはどのような文章を書けばよいのかということですね。(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=744960944&owner_id=14874745
 そのために、本当に?!が必要なら、それでよいし、ない方がいいなら、やっぱり使うべきではない。これは、書く文章が対象とする相手にもよります。
 友達や、同年代にその思いを飲み込ませるのではなくて、より多くの人に共感してもらうためには、私はこの場合、やはり、?!などを使わずに、その思いを共感させる事実を淡々と書いていった方が伝わると思っています。

 文章にしろ、写真にしろ、無限に散らばっている現実の断片の中から、自分の感じたものを感じさせるように、うまく切り取ってみせるということですから、そのうまい切り取り方を、考えてみたいのです。
 サンタ まりぁさんはおそらく文章にかなりこだわっていらっしゃって、多分私などより筆力もおありになると思うので、そういう意味で、この場合に一番ふさわしい表現を考えてみていただけませんか、とお願いしました。
 そうしていただければ、多分私自身にも勉強になると思います。

 それで、まだ、感じ方の違いがあれば、お互いの違いをまたこういった形で、確認していけばよいのではないでしょうか。
 少なくとも、お互いの論点の違いはもっともっと浮き彫りになってくると思います。

技巧なんてくそ食らえ!
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 >「一個人の主観よりも文章全体のバランスを重視して技巧的に飾れ」といったニュアンスが感じ取れます。
 もう分かっていただけているように、「個人の主観」を最大限伝えるためには、どうするのか、というのが私が一番重視するポイントです。ですから、それを伝えることが出来なければ、文章を書く意味がない。
 技巧というのは、おっしゃるとおり、「飾り」にすぎません。あってもいいけれど、所詮それは本質ではない。
 しかし、筆者が得々として使っている表現技法などというのは、使わない方がいい場合も、結構多いですね。
 まして、技巧が、主張したい主観をねじ曲げるようなものだったら、何のための技巧でしょうか。
 私はね、「言いたいことを主張するために、すべての要素が役割を担っている文章を書きましょう」、という考えだから、大体において、技巧なんてのは、慎重に使おう、という立場なのです。効果的なら使えばいいけれども、多分皆さん、「効果的だ!」と考えて、使い過ぎです。
 次に、また、「体言止め」だ、「倒置」だ、といった、国語の先生の教えるのが好きそうなことについて、書いてみたいと思っています。
 もちろん、「積極的に使いましょう」なんて、ばかなことはいいませんよ。

「さよね」を嫌いな理由
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 余談ですが、私がなぜ、「さよね」を嫌いなのかを付け加えておきます。
 それは、そのような書き方を指導することで、「話言葉と書き言葉とは違うのだ」という意識を持たせることが出来なくなってしまうからです。
 「話言葉と書き言葉とは違う」という認識がないから、みんな「です・ます」の文章ばっかり書きたがって、「だ・である」の文章を書くことに照れくささを感じてしまいます。そして、教科書のような文体の文章が書けない。
 教科書のような文体の文章は、そういう文章が必要だから、公式の場ではそういう書き方をするわけです。それが、「話言葉と書き言葉とは違う」という認識を育てておかないと、その必要性に気づかせることができない。
 子どもに何も大人のような文章を書かせる必要はないけれども、子どもは子どもなりに、「話言葉と書き言葉とが必ずしも同じではない。話言葉をそのまま文章にしても、よい文章が書けるわけではない」ということを早い段階できちんと知らせてやることは、とっても重要なことだと私は考えます。
 話言葉の延長のような書き方で、ちょっと詳しく書くことが出来れば、「うまい、うまい」とほめあげて、高校生になった途端に、「もっと、論理的な文章を書け」「文章を整理して」と突き放される。途端に、文章を評価する目が厳しくなるわけです。
 そういう訳が分からないうちに落ちこぼれてしまう現象を食い止めるためには、小学校の早い段階から、「話言葉と書き言葉とは違う」という認識を育てておくことがきわめて大切だと私は思います。
 だから当然、「〜なんだよね」というような文章を国語の教科書などに載せるというのも、私は反対です。

コメント

  1. ひまわりなつこ より:

    お久しぶりです。26日以降の日記、一気に拝読させていただきました。
    人それぞれに、「書くということへの個々のこだわり」があることを
    改めて感じました。
    「本当にわかってもらいたい自分の思いがあるときこそ、、
    その思いに相手が耳を傾けたくなるような、
    そんな話し方(伝え方)をしよう」と心がけてはいますが、
    今日も、家族間でのコミュニケーションを失敗してしまいました。
    息子と話しているうちに、話しだす前には無かった新たな感情が芽生え、
    その感情にのまれ、本当に伝えたかった欲求を忘れてしまいました。
    ミクシーや、メールや、文通のような、文章によるやりとりなら、
    語気や相手の表情にまどわされることがないので
    冷静に、自分の気持ちをみつめつつ意見交換ができるのですが、
    直接会話となると、相手(息子)が腕を組んだかとうかでも
    微妙に私の感情に影響をあたえますから、なかなか大変です。
    しかし、直接対話だと、逆に、相手が何を考えているかわかりやすいということもあります。
    「ちょっと子供に言い過ぎたな」と思えば、「ごめん、いいすぎた」と
    心から反省の気持ちを伝えることもできます。
    ところが、これが文章だと、相手の反応がわかりにくい。
    また、こちらの思いが正確に相手に伝わったかもわかりにくい。
    反発心をもった方が文章を読むと、
    反発心のわく部分の文章にばかり目がいくというリスクもある。
    耳で聞くだけでなく、目でも読むわけだから、
    そしてその部分を何度も読むことができるわけで、
    そのことが正しい理解を生む場合もありますが、
    より強い思い込み(反発的理解)を生むこともあるわけです。
    また、本当は「アホ!」とか思っていても、
    「すばらしい!」と、おだてることもできるわけで、
    (なんのためにそんなことをするのかは理解する気もないが)
    文章によるやりとりというのは危険な世界ではあります。

  2. ひまわりなつこ より:

    前に介護で悩みを書いていたマイミクさんがいました。
    「身体障害者になった身内が退院することになったけれど、
    受け入れてくれる施設がない」という悩みの日記。
    しばらくして、「やっと施設がみつかった」という日記。
    私はかつて、祖母の受け入れ先を探して苦労した経験がありました。
    でも、あきらめず何度も役所にお願いした結果、
    祖母を受け入れてくれる施設がみつかったという経験があったので、
    始めの日記を読んだとき、
    「あきらめずに頑張って施設を探して」という言葉をかけようと思いました。
    しかし最近は事情も違うだろうし、へたに励ましてもうまくいくとは限らないと思い
    あえてコメントをするのをやめました。
    心配しつつ見守っていたら「施設がみつかった」という報告。
    よかったねえと心から安心しました。だから、
    「あきらめずにがんばってと途中で声をかけようと思っていました。
    でも、施設が見つかったのですね。
    これからもいろいろあると思いますが、
    お互いがんばっていきましょう」と書きました。
    即日マイミクを断られました。理由は「とても傷ついたから」
    現在夫の実家では身体障害になった父を自宅介護していて、
    時々私が手伝っていることをしっている彼女は、
    「あきらめずにがんばって」というところを、
    「施設なんかに入れないでがんばって」と受け取っていました。
    コメント削除連絡のメッセージからその誤解に気づき、
    すぐに返信をしようと思いましたが、
    メッセージ拒否になってしまっていて、それきりになりました。
    始めに丁寧にコメントを書けばよかったのですが、
    「施設を探していた頃の自分の気持ちや、
    施設がみつかればいいのにと願っていた自分の気持ちに浸りきっていたので、
    相手の方が私を 自宅介護で頑張っているさくらさん と 
    とらえていることにまったく気づいていませんでした。
    自分からみた自分だけではなく、人から見た自分も意識しないと
    かなしい交流になってしまうなと思いました。
    リアルな友達なら、誤解をとくチャンスもありますが、
    ネット上の友達だと、関係拒否をされたら誤解をとくすべもないわけで、
    相手を傷つけたまま縁が切れたというのは悲しい話です。
    私は、文章にしろ会話にしろ、かかわりあうということは
    お互いにより理解しあいたいからだと思っているので、
    理解しあいたいという気持ちが一方的にふさがれるのは悲しいし、
    はじめから理解しあう気持ちがない、裏サイト的交流というのは
    本当に悲しいことだと思います。
    長くなりましたが、結論です。対話にしろメール交換にしろ、
    表現するということは骨の折れる(工夫の要る)作業だと思います。
    誰かにわかってもらいたい思いこそが、交流の目的だと私は思いますが、
    わかってもらいたい自分の思いがつよすぎると、客観性を失い、
    相手の気持ちが見えなくなったり、
    自分の意見が相手にどう伝わるか見えなくなることもあります。

  3. 匿名 より:

    初めまして。
    いつも更新楽しみにしています。
    Neko先生の「さよね言葉を嫌いな理由」の最後の方に書かれていた
    話し言葉と書き言葉は違うという認識を育てておくことは大切
    というお話がすばらしいと思いました。
    学校での学習というものは、
    学習することを通して
    他人に自分という存在を認めてもらうという面がある一方で
    自分を表現する為の手段を学ぶ為の場所でもあるように思いますので、
    個性の尊重が大切な一方で
    例えば文章で言えば
    違う世代の人たちにも思いを伝えることができる様式美といいましょうか、
    限定されたボキャブラリーを使うことによる世界の広がりを追求するのは、
    文章を書くスキルとしては非常に力強いものになると思います。
    わたしの個人的な志向では口語的文体も論文的文体も
    はたまた、小説的な文体もいろいろに使いこなせるようになると
    ステキだなと思います。

  4. たか〜ら より:

    足跡から来ました。
    日本語は本当に奥が深いですよね。
    「さよね」言葉は、確かに教科書には不適切(というか不自然)ですが、
    ブログや手紙・メールのやり取りの大半を支配している現状がありますね。
    さらに、小文字を散りばめる文体は親しみを表現する大事な手法です。
    「ありがとう。」←そっけない、本当にありがとうと思ってない。
    「ありがとぉ〜★」←甘えた笑顔が目に浮かぶ。
    「あざぁ〜っす★」←おどけたカンジの笑顔が目に浮かぶ。
    「あんがとぅッ★」←照れくさそうな笑顔が目に浮かぶ。
    高校生の弟が、父親からのEMAILに本気で腹を立てていました。
    「俺は父さんの会社の取引相手じゃない!
     堅苦しいメールばかり送りやがって・・・」
    彼は、父親がEMAILで使う「です・ます」調の丁寧な文体に、
    親近感を感じられず、疎外感を覚え、憤っているようです。
    もちろん、彼はきちんとした小論文を書ける能力を持っています。
    メールや手紙、ブログは限りなく話し言葉に近くなってきていますが、
    その背景には、文章で感情をいかに正確に誤解無く伝えるべきか、
    という弛まぬ努力が感じられるのではないでしょうか。

  5. スナフキン☆Me-We より:

    はじめまして。
    日記を拝見して、
    「守破離」と「TPO」という言葉が浮かびました。

  6. りゅうじろう より:

    今回ばかりは、大きな課題を頂きました。
    ありがとうございました。
    結構時間がかかりました。
    本来、私自身「さよね言葉」に対しては
    {たか〜ら サン}が仰るように
    文章に感情を入れる手段だと思っていました。
    なので、大きな嫌悪感を抱くどころか
    私自身も使ったりしています。
    ただ、それを使う時の感情に光を当てて考えてみました。
    そこで感じてきたのは、「自己完結出来ていない」という事です。
    「さ」を使うときは、少し違うのかもしれませんが
    照れを隠したり、逆に虚勢を表現したり
    と、自己の「勢い」を表現するときです。
    そかし、「よ」「ね」に関しては、
    必ず、相手に同意を求めています。
    自己の主張に対して、意見として完結していない為
    同意を求めてしまうのではないでしょうか。
    これが、言葉でのコミニケーションの場合
    反応までの時間が限られている事もあり
    同意を求める事は多いと思います。
    特に女性同士の場合は意見を求める
    会話より、会話をしている時間を楽しむ
    傾向があります。
    古くは、井戸端会議です。
    ここでは、「意見を求める」より
    「同意を求める」会話を主体に構成されます。
    これを、そのままの形で文章として表現すると
    「よ」「ね」が増えるのもうなずけます。
    紫式部などの手紙と、史実を合わせれば
    行間にどのような思いを込めたか見てきます。
    本当に伝えたいことを書かず
    それを伝える事の方がしっかり伝わる
    事を、意識していたのでしょう。
    先生が仰るように
    文章と会話は違うのです。
    PTOも存在します。
    ただ、自己完結できて、自分の意見を持つ事が
    「さよね言葉」を使う事と関係していると思います。
    相手の感情変化をくみ取りながら文章表現をしていく
    これが、文章表現の究極の美学でしょうか。

  7. サンタまりぁ(笑) より:

    はじめに断っておきますが、私は教育者どころか年相応の国語力もありません。よってNeko先生ほどの筆力、文章力は残念ながらありません。
    ただし、「俺は、国語の先生じゃないから間違ったって関係ねぇ」といった態度ではなく、自分の発言に責任を持つ覚悟はあります。
    【言葉について】
    「!?(笑)は、使わないようにしましょう。」
    これは、かつて「〜〜は、つかはないやうにしませう。」と表記されました(歴史的かな遣い)
    おそらく、その時代では表記通りの発音をしていたはずです。それがいつの間にか音便や訛りのようなが原因で文字と音が分裂しだして現代仮名遣いに変わっていったわけですね。
    その時代の正しい日本語を教えようとすれば「使わないやうにしませう」と書くのだから、文字に忠実な発音を指導していたはずです。
    私にはどちらの仮名遣いが国語的に正しいのか判断できませんが、歴史的仮名遣いが正しくとも、現代において伝わらないものに意味があるとは思いません。
    逆説的な話ですが、「明日も元気でがんばりませう」なんてコメントを見たりします(笑)
    ご子息の話ですが、小学校2年生が「ぼくはね、お父さんと・・・・」といった文章を書いても何の問題もないと思います。これが「私は、父と・・・・」とやったらそっちのほうが大問題でしょう。
    【ふさわしい場所 空気を読む】
    私は俗語卑語に寛容ですが、当然、ふさわしい場所限定です。服装にたとえてみると、正式な和装もあれば、海パンもあり、ジャージもあります。卒業式に海パンで出席したら、ふさわしくないといえますが、海水浴に和服で出かけるのも常識的でない。
    これをmixiになぞって考えれば、私の論旨は、ご理解いただけるのではないでしょうか?
    文字の制約がある。
    論文を書いたところで横書きでしか表記されない。
    「日記を書く」欄はあっても「論文を書く」欄はない。
    ほとんどの方が、ここで日常報告的な日記を開示性と匿名性をうまく利用し、喜びや悲しみ悩みなど表現することを楽しんでいるわけです。同情、共感、叱咤、アドバイスを得るためには、自分らしさが表現できないと意味がない。だから!?(笑)はある種の要約だったり、口語表現の活力的部分の代わりだったりするわけです。
    先生の足跡によって私はここにお邪魔しましたが、皆様のコメントを見ていると、皆さんが正装でいるところに私が海パン一丁で飛び込んだ感じなのかもしれません。(一応隠すところは隠れてます)
    しかし、ほとんどの人が普段着のはずですし・・・・少なくとも私のマイミク様は100%普段着です。

  8. トトコ より:

    Neko先生こんばんは。
    文章に、いろいろな意見が混じってる感じが他とは違い、反論の嵐のときとは違う、何かをさがしにきました。
    今日は、事実を淡々と書くと伝わるというところが、日記を休み休みの私に印象的で、なるほどと思いました。

  9. Neko Fumio より:

    たか〜らさん、りゅうじろうさん
     http://mixi.jp/view_diary.pl?id=802039428&owner_id=14874745
    サンタ まりぁさん、
     http://mixi.jp/view_diary.pl?id=802600423&owner_id=14874745&org_id=802039428
     コメントを次の話題として使わせていただきました。

  10. Neko Fumio より:

    ひまわりなつこさん
     おっしゃるとおり、文章を書いて、相手に自分の気持ちを分かっていただくというのは難しいです。
     こちらが善意で言っているのに、アクセス拒否になって、関係回復を図るすべもないというのは、本当に悲しいですね。

  11. Neko Fumio より:

    さとこさん
     期待していただいてありがとうございます。
    >わたしの個人的な志向では口語的文体も論文的文体も
    >はたまた、小説的な文体もいろいろに使いこなせるようになると
    >ステキだなと思います。
    私もそう思います。
     学校という場では、人数が多すぎてなかなかおっしゃるようなところまで出来ていないのが現状ですが、出来るだけ、「私は文章が苦手なので〜」と、必要なところでも尻込みするようなことがないようにだけはしてやりたいものだと常々考えています。

  12. Neko Fumio より:

    スナフキン☆ さん
     はじめまして。
     「守破離」の内、私が問題にしているのは基本的な「守」の部分でしょう。
     「TPO」をきちんと使い分けるためには、そのための基礎がかなりしっかりしていないと無理なのだというのが、私の感想です。

  13. Neko Fumio より:

    トトコさん
     「反論の嵐」の時は、正直言ってかなりつらいです。しかし、いろいろ反論をいただくことで、私の思いもしなかった視点をいただけるので、一人では書くことが出来なかったことを、共同作業のような形で書くことが出来て、少しは文章に深まりが出ているのではないかと、ありがたく思っています。

  14. ひまわりなつこ より:

    NEKO先生へ
    ご丁寧なお返事ありがとうございます。
    先生、忙しいときもあるでしょう。
    もし私の意見が、何かの参考になったときは、
    いつの日かとりあげて、膨らませてくださることを知っていますし、
    たとえとりあげられなくても、
    コメントをいれるということで、自分の理解が深まったということもあります。
    つまりそのことで、十分にこのブログにアクセスした価値をかんじていますから、
    ですから、先生の中でひらめきが生まれるその日まで、
    私へのコメントはうっちゃってくださっていいですよ。
    そのほうが、逆に、自由な発想で好きなことを書けるというメリットもあります。
    わたしって、時に、「日記の主旨から連想ゲーム」をはじめ、
    若干ずれたことを書くことありますし…
    そういうときは、
    申し訳ないなあと思いつつ、書き込んでいるときもあります。
    「あまり丁寧に返事をいただくと、軽い気持ちでコメントが書けなくなるなあ」と感じたので、
    私のことは適当にあしらっておいてください。
    と、好き勝手に希望をのべました。
    これこそ、大きな迷惑ですね。

  15. Neko Fumio より:

    タンポポ さくらさん
     そのように暖かい言葉をかけていただいて、とても嬉しかったです。
     恥ずかしながら、読んでいなかった「『坂口安吾』を読んで」などと考えていると、どんどんこのmixiの日記から遠ざかって、書けなくなっていました。
     まあ、他に五月には教育実習も始まって、忙しかったこともあるにはあるのですが。
     でも、他の方もおっしゃるように、書き込んでくださったコメントに対する返事を書けないのもマナー違反だということは分かるので、書きたいとは思うのですが、問題が重たくなるほど、そんなに簡単に、「とりあえず」書きたくはないという気持ちが先に立って、結局不義理になっちゃうことが多いです。
     最近更新も滞っていますが、よろしければおつきあい、今後ともよろしくお願いします。

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