「改行のタイミングについて」に寄せられたコメント

 「改行のタイミングについて」を書いたところ、たくさんのコメントをいただきました。かなり長く返事を書かずに放っておいてしまいました。今から考えれば、後回しにせずとも、「その時すぐにコメントを返した方がよかったのかも」「改めて書くといったって、別記事にするほどの内容は書けなかったな」という気もしますが、ここで改めて、応えてみようと思います。
 コメントをくださった皆様方、返事もせずに長くほったらかしにしておいて、申し訳ないです。

すべては「自分の文章に対するこだわり」

BLADEさん

読み手を増やす努力を、読み手の視点から考えていらっしゃいますね。自分はそこまで考えて書いていません。それほどの語彙力、考えの深さをまだ持っていませんので、考えてもしょうがないと思っているからですそれと自分の場合は日々の記録の意味合いが強いこともあり。

「きっこのブログ」というブログがあります。毎日ものすごいアクセスがあるそうですが、文章は非常に読みにくいです。何を求めて人が集まってくるかは簡単にはわからないでしょうね。
mixi内でもたくさんコメントがつく日記とそうでない日記があります。自分が書いた日記にたくさんコメントがつくとうれしいですが、Nekoさんが以前書いたように「釣り」の文章にはならないように、自分はしようと思っています。

みぽりんさん

すごく、読み応えのある文章です・・・。

私はごく普通に日常の出来事を書いているくらいで、nekoさんのように

読み手の人の気持ちまで考えたこと無かったです。

なるほど、携帯でnekoさんの文章を全部見ようと思ったら結構時間かか

るかもしれないですね。

nekoさんの文章を読んでたら、国語の勉強になりそうな気がします。

ひまわりなつこさん

 う〜ん。おくが深いですネエ。
 私が今度誘った仲間も、携帯で参加したいと言っていて。
 わたしは、かなり長文を書くので…

 そういう問題がありましたか。
 読み手が誰かを意識しましょうなんて、添削をしておきながら、携帯とかもろもろのことをすっかり忘れていました。
 さりとて工夫する、技術がないのも確かですが。

 みなさん、
>読み手を増やす努力を、読み手の視点から考えていらっしゃいますね。
というようなとらえ方をしてくださっているようです。
 私がこだわっていることを、こだわっている部分だけを捉えていうと、確かにそのようなことになるのかもしれません。
 でも、私は、
>読み手を増やす努力を、読み手の視点から考えている
わけではありません。ただ単に、「自分の文章」にこだわっているだけです。自分の文章で、伝えたいことをきちんと読者に伝えたい、どうせ読んでいただくなら、読む人により読みやすいように読んでいただきたい、とそう考えて、思いつく限りのことを色々考えているだけです。
 それは今回のような改行の話になるかも知れないし、文体の話になるかも知れないし、ホームページの作り方の話になるかも知れない。でも、共通していえるのは、「自分の文章を、できるだけみんなによりよく読んでもらいたい。そのために自分ができることは全部やろう」という、ただそれだけなんです。
 自分が他の方のホームページを読んで、どうも読みにくい、レイアウトに好感が持てない。それで、自分のホームページは、そのような自分がよくないと思う要素をなくして、自分の納得がいく形で読んでいただきたい。ただそれだけ。

 この間からの、この改行についての考察で、どうもそれまで書いてきた日記の書き方が、よろしくないことが分かってきました。それで、そういうときに、あなたならどうしますか。
 まだ、なかなかする気になれなくて、行動に取りかかれず、そのまま放ってはありますが、私は、そこまでの日記を、少なくとも、改行についてだけはきちんと全部、訂正しておきたい人間なんです。
 いっぺん書いて、それでみなさんに読んでいただいたら、もうみなさん来てもくれないだろうし、読んでもくれないだろうから、そのまま放っておくのではなくて、書いたものを、大切にして、今後何かそれに関することを考えた場合に、もう一度その文章を他の方にも読んでもらい、自分自身も参考にできる、そういう文章を書きたいんです。
 ですから、一度書いた文章でも、気に入らないところが出てくれば、気に入るように書き直して、いつでも現在形で使える自分のストックとして持っておこうとしているのです。

 このようなことを考える人間にとって、このmixiのシステムはとても使いにくい所もあるのですね。
 で、何が一番いけないかといったら、コメントの書き直しがきかないこと。本文なら、「編集する」という所があって、やろうと思えば編集し直せるのだけれども、コメントはそれができません。
 それで私などは、一度投稿して、「誤字がある」といっては投稿し直し、「表現をもうちょっと変えたい」といっては投稿しなおし、またもうちょっとと、投稿し直しを何度もやります。再投稿して、以前の文章の削除の繰り返しですね。
 これは自分の日記ならともかく、他人のでそれをやると、あまりにうざったいだろうから、ちょっと他人の日記にコメントをするときには、気を遣います。それでも、やっぱり、三遍くらいはやり直してしまいます。
 しかしそれも、他の方が投稿なさるまでしかできません。他の方が投稿してしまうと、それをやると、コメントの順番が狂ってくるので、無理なんですね。
 だから、私の以前の文章については、日記部分はまだ、直そうと思えば直すことができるけれど、コメント部分は不本意ながら、もう二度と直すことができないのです。
 この部分だけは、何とかしてもらいたいですね。このシステムにも、確かに、後からついたコメントの内容を受けて、前の記事を書き換えられなくてすむ、というメリットはあるのかも知れませんが。

技術も内容もはじめからあるわけではない

 みなさん、「自分の書く内容がそれほどの工夫に値するものではない」とか、「技術・語彙がない」とかおっしゃるわけです。

>それほどの語彙力、考えの深さをまだ持っていませんので、考えてもしょうがないと思っているからですそれと自分の場合は日々の記録の意味合いが強いこともあり。

>私はごく普通に日常の出来事を書いているくらいで、nekoさんのように
読み手の人の気持ちまで考えたこと無かったです

> さりとて工夫する、技術がないのも確かですが。

 しかし、誰だって、そんなものでしょう。私の書いた、「母ちゃんを悩ませるなー」がそれほど、「すばらしかった」なんて、誰も思わないでしょう。これらのコメントを書き付けてくださった方々の日記の方が、よっぽどすばらしいことを色々書いていらっしゃる。

 私がこのmixiで書いている文章は、まだまだ書き流したところがあって、自分自身では、納得がいっていないところもあるのですが、もし仮に、仮にですよ、私のこの文章がすばらしいとして、私がはじめから、このような文章を書けていたかというと、もちろんそんなはずはありません。
 それなら、誰かから文章を見てもらった、添削してもらったかというと、それも全くありません。
 変な自慢ですが、私は学生時代、賞状という賞状を、一枚ももらったことがない人間なんです。小学校時代なら、クラスの半分ほどももらう地区の、絵とか、習字とか、作文とかの賞状も含めて。
 高校時代の自分の作文なんて、ほんとひどいものでした。今の私が受け持っている高校生たちの方が十倍はましですね。あれこれその子たちに今のNekoが文句を言いますが、自分の高校生時代の作文に較べたらはるかにまし。
 そんな人間が、今このような文章を書いていて、人の文章を、「ああしろ」「こうしろ」「考えが足りない」と言っているわけですから、「さぞかしいい先生に教えてもらったんだろう」「しっかり作文の勉強をしたんだろう」と思われるかも知れません。
 しかしそうでもないんです。教えてもらったというのかいわないのか、今ここで取り上げるとすれば二つだけですね。
 一つは、高校生の時、新聞部のコラムを書いていて、何度も書き直しさせられて、最後に先生がしびれを切らして、「後はこちらで直しとくわ」と言われて、できあがった新聞を見てみると、全くの別物、「こんなん、自分の文章じゃあない」とめちゃくちゃ頭に来ました。
 しかし、頭に来ると同時に、雷が落ちたごとくに、今までの自分の文章ではなぜだめで、同じ事をいうためには、どのような書き方を大人の文章でしなければならないのかを悟りました。
 もちろんそれから私が書く文章は、全く別物になりました。
 もう一つは、就職して最初の学校で、同僚のベテラン教員が、生徒に読書感想文の指導をしているのを、横からじかに見させていただいたことです。
 「ここはこうして」と、生徒の文章に、添削をなさっていました。

 普通他の方に文章を見せても、当たり障りのないことしか言ってくれないので、自分の先生でもない限り、本当のことを言ってはくれません。で、私が直接、人から習ったのは、本当にこれだけです。
 もし私の文章が少しは人よりましな文章になっているとしたら、それは「自分で、文章にこだわった結果」なのです。
 ろくでもない文章しか書けない私に取り柄があったとしたら、それは、「文章を書くのが嫌いではなかった」ということと、「異様なほど、自分の文章を大切にした」というそのことしかありません。
 他の人だったら、ほどほどに書けたらそれでよしとするところを、自分自身納得がいくまでとことん書き直す。一度書いたものを、いつまでもいつまでも大切にして、時々取り出してみる。ときにはまた書き直す。こういうことです。

 はじめから、書く内容・技術を持っている人などいるわけはないのですから、自分の文章に対するこういう「こだわり」は、他の方にも大切にしていただきたいな、と思います。

文章をとことん突き詰めて読む訓練

 私の文章に対する見方を育ててくれたものとしてもう一つあげられるのは、他人の文章を、「なぜ」「どうして」とつきつめて、筆者の論理展開に従いながら、とことん追求していく訓練を、自分でしたということがあげられます。要するにこれは、現代文の授業でやる、現代文読解の正攻法です。自分の私見を交えず、書かれた言葉を元にしながら、筆者の思考をなるべく正確に理解していこうというやり方です。
 このようなことをやってきたおかげで、「意あって言葉足らずな部分」「筆者自身の思考をまとめきっていない部分」「うまく説明できている部分」などが、見えてくるようになったということがあります。

書いているその時の自分の評価が一番厳しい 1

 私が上で説明したように、自分自身の文章をよりよいものにしようと、こだわって、こだわって、推敲を重ねながら文章を書こうとしている場合、一般的には、自分の言い足りていない部分にもっとも気がつくのは、筆者本人です。
 自分が書きたいものは、自分だけのものであって、他の誰でもがいうような画一的なものではありませんから、自分の思いを正確に伝えようとした場合、当然そうなるはずなのです。
 確かに、自分が何を言いたかったのか、まとめきれずに書いていて、優れた指導者から、そこの部分を指摘されることはあります。その場合は、他人の方がよく気がついた、というよりも、本人のこだわり不足、または、言い切れていない自分にすら気づいていない、意識不足ということです。
 このようなこともありますから、何が何でも、「自分が一番よく分かる」とうぬぼれてしまうのもいけません。
 ですが、自分の心を一番見つめているのは、書いているその時の自分なのですから、「推敲不足を感じる自分の違和感」を大切にして、それを感じなくなるところまで、とことん推敲していくことが大切です。

書いているその時の自分の評価が一番厳しい 2

 「自分の心を一番見つめているのは、書いているその時の自分だ」というのには、異論があるかも知れません。勢いに乗って書いているときには、「自分が書いていること」を客観的に見ることのできる余裕が無くなっていることがあるので。
 夜中に、私的な思いをつづったものを、夜が明けてから見てみると、「あまりに感情に走りすぎていた」ということはありませんか。
 ですから、文章を書くには、その時一気に書いてしまって終わりにするのではなくて、自分の文章を、ある程度客観的に見ることができる、時間的な余裕というものも必要です。
 ただし、あまりに時間をおいてしまうと、「書こうとしていたときの自分」を忘れてしまいますから、自分ではあっても、他人の文章に接するような読者としての読み方しかできなくなってしまいます。つまり、「自分という他人」ですね。
 ここで私が書いた、「書いているその時の自分の評価が一番厳しい」というのは、一気に書きなぐっている自分という意味ではなくて、書こうとしていることを、胸に持ちながら、どう書くべきか、一気に書きなぐったものでも、本当に自分の気持ちが尽くせていたかをもう一度振り返っている、今現在進行形で悩んでいる自分ということです。

 このようなときには、たとえ、「ここがまずい」という風に、きちんと説明はできなくても、何か違和感のような形で、表現できていない部分に自身気づいていることが多いです。自分の文章を向上させようと思えば、その言葉にならない違和感を大切にして、それが消えるまで、推敲に推敲を重ねればよいのです。
 

句読点の多用は有効だ

まる♀さん

 携帯でメールをやり取りする時に、私は相手の読み易さを考慮し句点を多用しています。
調度、新聞の原稿を書く感覚ですね。
一行に必ず一個、句読点♪
ねこ先生も相手が携帯の時に試してみてくださいね〜

 私の文章は、見てのとおり、もともと句読点を多用しています。おそらく、みなさんが句読点を使っていらっしゃる以上に、句読点の数がだいぶ多いはずです。
 ですから、パソコンで見る文章になったからといって、変えたわけではありません。
 しかし、パソコンの文章では、文のまとまりがぱっと見ただけでは捉えにくいので、句読点を適切なところで多く使うのは、とても有効な手段であるとおもいます。

文章を内容を絡ませない形からだけ論じるのはどうも

Ianさん

体裁と一文あたりの詰め込み具合に言及すればよかったと思うので。

本記事は大層読みやすくて、好感をいだきました。

 おっしゃることがよくは分からないのですが、「一文あたりの詰め込み具合」というのは、字数のことでしょうか。
 一般的に、「一文の字数が長くなればなるほど、文章が読みにくくなる」という大原則があります。ですから、短くできるなら、あまり長くだらだら続けずに、短く切っていく努力は必要です。
 ただし、「一文は何字までにする」というような、アドバイスは、私は嫌いですね。そんなアドバイスは、イヌにでも食われてしまえばいい。
 それは、そういうアドバイスが、内容ではなく、形から規定していくからです。内容をわかりやすくするために、一文一文をなるべく長ったらしくならないように区切っていく意識を持てばよいことであって、内容によって、それが40字くらいのこともあるかも知れないし、60字くらいのことがあるかも知れない。それを、内容に関わりなく、表面的な形だけから善し悪しを議論するようなやり方が、私は嫌いなのです。

 同じような問題として、現代文の説明問題で、「何十字以内で書きなさい」というような時に、指定字数の少なくとも七割書いていない答案は、減点する、というような採点の仕方をする方がいます。このようなやり方も、私は、大嫌いです。
 答案の字数指定は、問題作成者が、求める答案を書こうとすれば、それぐらいの字数になるだろうと考えるから、その字数を指定しているのです。ですから、指定字数の七割も書いていない答案は、普通に考えれば、書くべき要素を満たしていないから、減点対象になるのです。
 ですから、やはり減点はされるのですが、それは指定字数を埋めていないからではありません。必要要素が足りないからです。そこの所を、字数が少ないという、表面上の理由だけで減点すると、つまらない字数稼ぎで内容のない答案が高得点になったり、字数は少ないけれど、必要要素を満たしている答案が、大幅減点されたりするという矛盾した現象が絶対に起きるはずです。
 もし字数が少ないということで減点したいのなら、短い答案では、必要要素を絶対に述べきれない問題を、何が何でも、意地で作ればよいのです。
 そこまでしてもいないのに、「字数が足りないから」と、分かったようなせりふは吐かないでもらいたい。

やっぱり文章は内容よ

BLADEさん指摘の 「きっこのブログ」ですが、

「きっこのブログ」というブログがあります。毎日ものすごいアクセスがあるそうですが、文章は非常に読みにくいです。何を求めて人が集まってくるかは簡単にはわからないでしょうね。
mixi内でもたくさんコメントがつく日記とそうでない日記があります。自分が書いた日記にたくさんコメントがつくとうれしいですが、Nekoさんが以前書いたように「釣り」の文章にはならないように、自分はしようと思っています。

「きっこのブログ」のアクセス数が多いというのを聞くと、読者が「内容を求めている」ということが、よく分かる気がします。
 確かに読みにくいですが、ある程度ポリシーを通して、世の中の様々なことに対して、あれだけ深く考えて毎日ブログを更新していくだけの、力量と努力は、並大抵のものではありません。
 下手なジャーナリズムの節操のない記事に較べたら、やっぱりこれは、かなり魅力があります。
 「軽佻浮薄」などといわれて、内容のないものばかりがもてはやされるように誤解されているかも知れません。しかし、やっぱり世の中の人は、内容がある、しっかりしたものを求めているのです。
 そういう意味で、世の中捨てたものではありません。

あまり文章そのものを参考にされても困るけど

みぽりんさんの
>nekoさんの文章を読んでたら、国語の勉強になりそうな気がします。
 これ、私が問題にしている内容を色々と考えていただければ、うれしいです。
 私が書いている文章そのものは、ちょっとまだ論旨がきちんといえていなかったり、話言葉が混ざっていたり、「だ・である」と「です・ます」が混ざっていたりで、作文や小論文の宿題を書くときの文体としては、あまりまねをしない方がいいでしょうね。

 この表題の、「けど」も絶対にいけません。私自身も、本文の中だったら、まず使わない、嫌いな言葉の一つですが。

素直なよい子ちゃんばかりでは、面白くないではないですか

konomaさん

過日、初めてのメールで、大変失礼を申し上げました。
ただ、私が貴兄の生徒なら、毎日懲りもせずに議論を挑んでいるかもしれません。そこが、不思議、です。

未だ良くご存じない故に、時折、お邪魔させて頂くかも知れません。
どうか、その際は宜しくお願い致します。

 「納得がいかないことを、とことん追求しようとする」「安易に受け入れない」というのは、本当に大切な、人間の生き方です。
 そして、そういう風に、 「毎日懲りもせずに議論を挑」もうと思う相手がいる、そして、それを取り合ってくれる相手がいるのも、幸せなことです。

 わたしとしても、自分の向上につながりますから、前向きな意見なら歓迎します。
 ただし、私もこう見えて気が弱いところがあるので、私のことを知っている人間からは、「どこがぁ!」という声が聞こえてきそうですが、お手柔らかにお願いします。

コメント

  1. 夢遊 より:

    neko先生
    私も一旦書いたものを消して書き直したりします。
    そればかりか、つまらないこと書いていて、コメントもなかったらこっそり消してしまいます。
    ためらいもあったんですが、今日の日記を読んで安心しました。
    ありがとうございます。

  2. Neko Fumio より:

     私は、そういう「自分の文章を大切にする」人は、好きですよ。
     コメントというのは、自分の日記にですか。それとも、他の方へのコメントの返しですか。
     自分のだったら、普段コメントがつくのに、それだけつかなかったら、やっぱり、どうしてかな、と考えますよね。「ちょっと、反感を買ったかな」とか。

    よっぽどのことがないと、人はコメントなどしない

     でも、「つまらない」と判断するのは他人ですから、「自分が書きたい」「書く価値がある」と思って書いた文章なら、どこかで受け入れてもらって、でも返事をしない人というのもいるかも知れないので、自分で「つまらないことだった」と判断する必要はないと思います。
     このmixiだからこそ、結構コメントなどの反応が返ってきて、それが当然だと思ってしまいますが、ホームページや、ブログなんかだと、コメントといったら、迷惑書き込みばかりで、まともなものなど1件もありません。
     私の小論文のホームページなどでも、何年もやっているのに、まともなものは、数件、それも知り合いが何人か混じるというような具合です。でも、それでは、本気で読んでくれる人が全く居ないのかといったら、もちろんそんなことはありません。
     他の方の日記への書き込みをこちらからするなどの、「愛想(あいそう)」、つまり、「自分のページに来てもらうための営業活動」をせずに、自分のページに来てもらい、なおかつ、書き込みまでしてもらうというのは、とても「すごいこと」なのです。
     自分のことを振り返ってみても、マイミクでもない人の日記にコメントをしてみようとは、よっぽどのことがないと思わないでしょう。まして、「マイミク申込み」となるとなおさらです。
     mixiでもそうなのだから、他のブログなんかだと、なおさらです。
     他人の日記なら、私のように、返事を書くのが遅い人もいるので、それもあまり、気にしても仕方がありません。
     手紙などと同じで、「後で、きちんと返事をしよう」と、書きたいことがあるほど、後回しにしてしまいますしね。それでそのうち、「しよう、しよう」と思いながら、忘れてしまうのですね。
     これがいちばんいけません。
     今回の日記も、その時こんな事を思いながら、他のことがどんどん続いて、書いているうちにコメントを寄せてくださっていた方の関心が、もう無くなっていたということでしょうか。
     そういうこともありますから、それもあまり気にせず、最初自分が、「書こう」と思った気持ちを、大切にすればよいのではないでしょうか。
     私の場合は、コメントを後回しにするほど、何かそれについて、書きたいことがあるから、そうしているのだ、と善意に解釈してくださいね。

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