Takami-neko さんから、3回前の記事に対して、追加のコメントをいただきました。
本来、記事の下の方が、引用記事などもよく分かっていいのでしょうが、書き直しの都合上、こちらに追加を書きます。
そして、論理的文章を書けるようになるためには、「論理的思考ができるようにせよ」と要求するだけでは、その要求の内容が抽象的過ぎるだけでなく、手順としても全く不十分で、「論理的文章にふさわしい文体を身につけよ」という要求が伴って初めて十分なものになる。これが、このテーマの技術論的側面に関する結論なのでしょう。
さて、今回のNeko Fumioさんの補足説明を読んで、前回よりは言わんとするところが多少は理解できるようになったつもりです。例えば、一つ新しい記事でお書きになっているように、「だ・である体」を用いること自体への抵抗感を持つ人が少なからずいるのであれば、「文体→思考」という流れの重要性を力説されることに意義があると認めるのにやぶさかではありません。
ただ、そうではなくて「文体→思考」があくまでメインだという考えでしたら、ぜひ上述の「相互作用説」についても検討してみてください。
思っていることを正確に理解してもらうのは、本当に難しい
「文体は思考の厳密さに正しく影響を与える」ということを一生懸命説明して、だから、文体の思考への影響を過小評価してはいけない。文章をきちんと書けるようになるためには、「だ・である」の文体で、「てれくささ」を感じずに書けるようになることが絶対に必要である、ということを言ってきました。
上に本当にうまくまとめてくださっている
ということですね。
しかし、それを、逆にして、「文体」がすべて思考を決めてしまうという主張をしているかのように受け取られる可能性があったとは、思いも寄りませんでした。
文章を書いて、思っていることを正確に理解してもらうのは、本当に難しいことを改めて感じます。
たかが文体を選んだだけで、思考が全て決まるわけがない
Takami-neko さんのおっしゃることは、すべておっしゃる通りです。もし文体が思考をすべて規定してしまうんだったら、「だ・である」体を使えば、それだけで思考のきちんと整理された文章ができてしまうじゃあないですか。そんな馬鹿なことがあるわけがありません。
ずっと以前からの宿題で、大学の先生が生徒に売りつける「教科書」について、いつか機会があったら、書きますと予告して、まだその約束を果たしていないので、このことについて、せっかくですから、ここで触れておきましょう。
大学の先生が、自分の生徒向けに書いた教科書ですね。あれ、ものによってはかなりわかりにくいものが多いんですね。で、このわかりにくさですが、扱う内容が難しいから、いくら平易に説明しようとしても、発想自体になじみがないために難しい場合と、書いている本人が生わかりで書いているために、内容の難しさにかかわらず、よく分からない場合と2通りがあります。
ここで問題にしたいのは、後の方です。一般向けに広く売り出されている本に較べて、自分の生徒向けにしか売れないような本の場合、この、書いている本人が生わかりで書いているために、本当はそれほど難しくするほどの内容でもないのに、よく分からないケースがかなり増えてくるというのが、残念ながら、私の大学生時代の率直な感想でした。
おそらく、出版社の方が、先生が生徒に売ってくれるので、出版しても、採算がとれると思うから、一般向けに本を作るときほど、出版するための内容吟味をしっかりしないため、内容による出版のハードルが、とっても低くなっているからではないでしょうか。
大学の先生は、抽象的な専門用語をたくさん知っています。だから、それを振り回していれば、本当は分かっていないことでも、分かったつもりになって、知ったかぶりのことを書けてしまうんですね。そういう文章を書かれると、読む人間はよく分からない。それで学生は、「難しい」と本気で悩んで、分からない自分を責めて、しゃかりきになって、理解しようとするわけです。でも本当は、書いた当の本人が分かっていないのだから、そんなの分かるわけがないんです。学生の責任ではない。
高校の教科書の話をしましょうか。何人もの賢い先生方が、本気になって「生徒のためになる文章を」というつもりで選んだ文章が載っているのが、高校の教科書です。ですから、ここにはよいお手本になるべき文章が引用されていると考えるのが当然です。でも、そのような教科書の文章にも、内容はともかくとして、「思考整理」という観点だけから見た場合、やっぱり、筆者が分かったつもりになって、自分の思考を整理しきれずに書いたものが、結構あります。
選んだ先生方が、その整理し切れていない部分に気づいて、なおかつその文章を採用したと考えるのには無理がありますから、編集の偉い先生方ですら、そんなことに気づかないで、選んでいるわけですね。
このように、そのようにして厳選して選ぼうとした教科書にすら、「分かったつもり」で整理し切れていない文章が結構あるわけですから、まして、我々一般の人間が、思考を整理して文章を書くということは、ちょっと頭で考え、誰でもが、「もっと整理して文章を書けよ」というほど、それほど簡単なことではありません。
下手をしたら、そう教える先生の文章が、もっと整理しなければならないものである可能性は、十分にありえます。
ですから、たかが文体を選んだ、まねたぐらいで、そこに盛られる思考が決まってしまうなんてことは、あるわけがありません。「だ・である」体を使って、死にものぐるいできちんと書こうとしても、なおかつ論理を整理しきれない文章から脱しきれない可能性もあるんです。
でも、逆に、どんな文体を選んでも、文体に影響されないで、自分の既に持っている思想を、きちんと表現できるというように考えているとすれば、それも大きな間違いです。
多くの人は、この文体の影響を全くないと考えるか、あってもそれほどたいしたことがないと、過小評価しすぎています。
第一、「です・ます」でしか書かない、本当は書けないことが、自分の文章能力を高める上で、大変な支障を生じていることに気づいてさえいない。
「そのことに早く気づいて、まず基本の文体である、『だ・である』に違和感を感じないで書ける練習を積みましょう。それが、文章を書けるようになる一番の近道ですよ」というのが、これを書こうとしたときの、私の一番の目的でした。
文体と思考とは不可分の関係
村上龍の詩人のイシハラの例や、大江健三郎の例など、「文体と思考とが不可分の関係」にある例であって、文体が思考に一方的に影響を与える例としては、余りふさわしくないというのも、おっしゃるとおりです。
これを考えるには、最初にそういう文体を作っていく人と、できあがった文体を真似て使っていく人とで、見方を変える必要があるかも知れません。
たとえば俵万智の短歌の例でも、おそらく彼女は、文体から影響を受けて内容を考えたのではない。表現したい内容があって、それを表現しようとして、内容と不可分の関係で表現が出てきたはずです。
このような場合には、表現か内容かどちらが先かというのはおそらくよく分からない。
ところが、俵万智の短歌を読んで、「こんな表現でも許されるんだ」「こんな内容でもいいんだ」と目を開かれて、彼女の短歌の文体を真似て、歌を詠み始めた人は、歌う内容について、表現から影響を受ける部分が必ず出てくる。
そういう表現をとることによって新たな世界が見えてくると同時に、そのような表現で歌えなくなったような世界も、おそらくは絶対にあるはずなんです。
和漢混淆文や、言文一致などでもおそらく同じようなことが言えるのではないでしょうか。最初に始めた人は、思考と不可分の関係で、表現を選んだのかも知れない。けれども、それを後から追従して使う人は、それを使うことによって、見えるようになった部分と、見えなくなってしまった部分と、おそらくその両方があったはずです。
私が、文体を説明しだしたときの本来の目的ではありませんが、このような文体の影響についても、頭に入れておいてもいいかもしれません。
話はかわって、確言はできませんが、「文体」とまで言わない、たかが「表記」でも、もしかしたら、このようなことが起こるのかも知れません。
現在多くの人は、現代仮名遣いを使いますが、現代仮名遣いが主流になった今でも、歴史的仮名遣いにこだわっている方がいます。もう亡くなってしまいましたが、小林秀雄や、福田 恆存(ふくだ つねあり)などは有名ですね。
もしかしたら、このような表記の問題でも、ただ単に、歴史的背景をふまえた、思想上の問題だけではなくて、上の文体についてと同じようなことが起こっている可能性があります。
これについては、私自身が歴史的仮名遣いを書くことができる人ではないので、実感としてはよく分かりませんが。
コメント
勇気のでる解説をありがとうございました。
高校時代、読解力にはそれなりの自信があった私ですが、大学に入って論文を読むにあたり、
自分の力のなさにショックを受けたことがあります。解読が難しい論文に出会ったからです。
論理の筋道があっちへいったりこっちへいったりしていました。
ただ読むだけではわからない。方程式を解くようにメモ書きをとり、線でつないで、
(ああ、こっちからこっちへ話が展開したのか…)などと頭を使ってやっと
筆者の言いたいことが理解できる(できた気になる)経験を何回かしました。
それをまとめてリポート提出をすると良い成績だったので、筆者の意図を
読み取れていたとは思いますが。私は大学に入って論文読解が嫌いになりました。
論文というものは、難しい言葉でわざとわかりにくく書き、それを読み取れた人にのみ
考えを伝授してあげる、そういう代物だと本気で思うようになりましたから。
しかし、10年前に知り合ったある先生に、「専門用語さえ知っていれば、
文章の流れとしては小学生でも読めるものを書くように。そのためには、
しっかりと自分の考えをまとめることが大事だ。わかりにくい文章を書く人は、
人に伝える段階にまで、まだ自分の考えが整理されていないのだよ。」
と、いうようなことを教えられました。そのとき、私が指導を受けていた文章は
自己形成史でしたから、「内容の濃い論文=難しく書かれた文章」という
思い込みを消すことはなかったのですが。
今日、先生の解説を読み、「論文=読みにくく書いた文章」というイメージを
捨てることにしました。そう思うと、調べたいことがあっても論文を敬遠してしまいますので。
敬体で書くときと常体で書くときの微妙な感覚の違いを、実験により実感しました。
常体で書いている途中、「〜だ」と言いきるだけの責任がお前はもてるのか?
というような疑問がわきました。そういうつきつめた感覚に目をつむって書いたとき、
気恥ずかしさやえらそうにみえないかなという不安を、私は感じるのだと思いました。
文を書くっておもしろいなあと思った、とても楽しい体験でした。
お久しぶりです
私は「だ・である調」で文章を書きます(でも、日記は文体を
変えていますけどね)。今までの人生の中で「確信」していることを
表現する際に「だ・である調」を使用しているかもしれません・・・。
文章全体を理解してもらうのは難しいけれども、ポイントは必ず
書くようにしています(多分ね)10年ほど前に、某新聞記者が
主宰する文章塾に通っていた際、文章の書き方を教え込まれ、「自分
が相手の心に届けたい文章」を書けるようになりました・・・今は
ちょっと路線がずれているかもしれません。
以前、「だ・である調」の文章を書くと、堅苦しくて読みにくいと
指摘を受けたこともありましたが、私の場合は「その日自分が思った
ことや感じたことを率直に書き込み、それに対して共感してくれる人
がいたら嬉しいな」と思いながら書き込んでいるので、万人受けしな
くてもいいって思っています。
ブログでは砕けた文章、レポートや学術論文を書く際はびしっと
決める!!私の中で区分しているからいいかな・・・と割り切って
います。文章は書き始めるまでに心の準備や勇気が要りますが、はま
ると楽しいですよね楽しい気持ちで書き続けたいと思います。
>でも、そのような教科書の文章にも、内容はともかくとして、「思考整理」という観点だけから見た場合、やっぱり、筆者が分かったつもりになって、自分の思考を整理しきれずに書いたものが、結構あります。
この部分は最近になって同じように思うようになりました。いわゆる世間では素晴らしいと言われている方々の本を読んで、分からない、理解できない場合、自分の力が足りないのだと思っていました。しかし、難しい内容でも分かりやすい本があったり、たいしたことはないのに、文章の意味がよく分からない本があったりと、さまざな場合がある。
本が限りなく完全に近くまとまったものと、考えてきた自分の前提が間違っていたことに気づきました。
同じ作者でも明確な意図を持って、練り上げたものと、実験的な作品とではまったく意味合いが異なります。
当然と言えば、当然の意見です。Nekoさんの日記を読んでそんなことを考えました。
コメントを大々的に取り上げていただいて、汗顔の至りです。
胸を借りるつもりで全力でぶつかってみて、学ぶところが大であったとともに、好奇心へのよい刺激になりました。理解できた爽快感とでもいいますか。『仮名遣いと思考』という新しい興味深いテーマも得ることができました。考えがまとまる自信はありませんが、思考するだけでも楽しいことです。
さて、大学の先生が書いた論文や専門書の言い回しが難解であることが多いのは、そのほうが「箔が付く」からかと思っていました。しかし、書いた人自身がよく理解していないことを隠すという「悪知恵」でもあるのですね。そうなると罪の重い話です!
初めてコメント致します。
大変勉強になりました。コメントするのが恥ずかしいぐらいです。
頻繁にお邪魔して噛み砕いて他の日記も拝見致します。
Neko先生こんにちは。
最後のほうが少し、難しかったです。不可分は辞書で引いたので、その部分だけ、意味が通じました。