特殊を象徴として使う

話の流れ

 ここまで、数回前の記事、「母ちゃんを悩ませるなー」を参考例として使いながら、「文章というのは、『自分の伝えたい何か一つのことを、読者に伝えるために書くものだ』」ということについて考えてきました。
 今回は、「母ちゃんを悩ませるなー」を書いた本来の目的とは違いますが、いただいたコメントからヒントを得て、「特殊を象徴として使う」ことについて考えて、この文章からの考察のしめにしたいと思います。

「特殊を象徴として使う」とは

 修辞学の世界では、今回話題にしようとしていることについて、いい名前があるのかも知れません。わたしは、それを知らないので、とりあえず今のところは、「特殊を象徴として使う」というような表現の仕方をしておきます。

 私の、「母ちゃんを悩ませるなー」を読んで、コメントの無理強いをしたため、つきあいで書いてくださった面もあるのでしょうが、以下のようなコメントを書いていただきました。

>赤点赤点に追いまくられながら

なんか自分の高校時代おもいだしました。

先生の日記を読んで、私の恩師との関係がたくさん思い出されて、
「時の流れ」というタイトルの日記を思いついたことを、取りあえずコメントしておきます。

 私と、私の一生徒とのきわめて個人的な関わりを描くことで、書かれている人たちとは全く関係のない、自分の個人的な体験・思いを、読者に切実に思い起こさせるようなやり方を、「特殊を象徴として使う」と呼んでみました。

「特殊を象徴として使う」典型的な例

 「特殊を象徴として使う」典型的な例としては、卒業式の「答辞」を思い浮かべていただければいいでしょう。
 「答辞」は、自分たちが、学校という学舎(まなびや)の中で、友達や下級生、先生と、試行錯誤しながら、友情を深め、懸命に自分を高めてきた思いを述べる場です。
 様々な生徒がいる学校で、このような思いを、卒業生代表という立場で、代表して一人の生徒が述べなければなりません。このとき、「色々な生徒がいて、その人たちを代表するのだから」ということで、「学校祭の時にみんなでがんばった」とか、「部活動で先輩・後輩たちとがんばった」とか、そういう誰にでも当てはまる、当たり障りのない一般的なことばかりを書いても、思いはさっぱり伝わりません。そこで使うのが、今回話題にしている、「特殊を象徴として使う」というやり方です。
 たとえば、みんなが共通の観念として持っている、「部活動で先輩・後輩たちとがんばった」ということを、聞いている人たちに、自分の実感として、感じてもらわなければいけません。このときに、そのがんばったことを切実に感じさせる、私個人のきわめて個人的な体験を印象的に一つだけ描き出すのです。「ある一つの事柄で、つまずいて、どうにもならなくなっていたときに、友達のこういう一言で、元気づけられて、こういう風に困難を克服できた」と。
 今私は、「ある一つの事柄」とか、「こういう一言」とか、ひとまとめにするような書き方をしていますが、それを、実際の場面に即して、代表生徒一個人の体験として、具体的に描写していきます。
 こうすると、そこで述べられている事というのは、確かに、代表生徒一個人の、きわめて個人的な体験に過ぎないのですが、その代表一人ががんばったことを、くだくだ述べずに一つだけ簡潔に述べながら印象づけることができれば、聞いている人たちは、「困難に立ち向かって、がんばった」という部分だけを受け取って、自分の似たような体験を、その話に重ね合わせて、自分の体験したこととして聞いてくれます。それで、身につまされるのですね。

 このように、答辞などでは、一個人の象徴的な個人的体験を語ることで、具体的なイメージを持たせ、それを一般論につなげていくというようなやり方で、話を展開します。
 「特殊を象徴として使う」とは、読者に、自分の体験を喚起してもらうために、筆者の個人的な出来事を象徴的に語るこのようなやり方のことです。(https://www.syouron.com/nyuumon/?page_id=36

最適化が必要

 ここで、このようなことを言ったからといって、私の「母ちゃんを悩ませるなー」が、先生と生徒との間柄を思い出させる象徴的な書き方ができているということではありません。
 もしそのような意図であの文章を書くなら、その目的のために、材料とその並べ方をもっと工夫する必要があります。
 私と私の生徒のように、ざっくばらんなつきあいというのは、それほど共感を呼ぶあり方ではないでしょうし、生徒のああいう人物像にも、感情移入できにくいはずですから。

他の若者に「しっかり生きろ」とメッセージを送る

 遊夢さんがおっしゃっていた、「他の若者に「しっかり生きろ」とメッセージを送る」ために、私と生徒との個人的な関わりを書く、というようなやり方も、上の、「特殊を象徴として使う」変形例の一つとして理解すれば、わかりやすいのではないでしょうか。

コメント

  1. ひまわりなつこ より:

    就職用の自己アピールでは、一体験をかくことで、
    自分が成長する人間であること、自分が前向きな人間であること、
    自分が○○な人間であることを読み手に感じさせます。
    責任感があるといわれても、読み手の採用担当者によっては感じ方が違うでしょうから、
    だから、こういう責任感なら売りになるぞというものを感じさせる、そんな体験で、自分らしさを象徴的にあらわします。

  2. Neko Fumio より:

     名付けるというのは難しいですね。「象徴」といえば、確かにそのようなのも「象徴」といえるかもしれません。
     でも、そちらは、「部分を全体の象徴として使う」くらいのタイトルで、私がいっているものとは、分けて説明したいところです。
     さて、このひまわりなつこさんが説明してくださったような書き方は、作文の基本中の基本です。
     「自分が○○な人間である」ことを読み手に感じてもらうために、それを一番感じてもらえそうな場面を選んできて、具体的にしっかり描写します。そのことで、「自分は○○だ」と、自分からいうのではなくて、「ああ、○○なんだな」と読者に感じてもらうのです。
     就職や進学の作文では、伝えなければならないことは、「自分が成長する人間であること」、「自分が前向きな人間であること」、「自分が豊かな人間であること」ですから、作文を書くためには、そのようなことを感じさせる具体的な例を、何が何でも自分の中から見つけ出してこなければなりません。

  3. ひまわりなつこ より:

    そうなんです。「何が何でも見つけ出せ」と指摘したら、
    「母のお膳立てを手伝う気遣いのできる人です。
    この気遣いを仕事にいかし…」と、書く子が、それなりの数でいました。
    いやあ、これは、大学生としては、当然の行為のような…
    気遣いレベルじゃない…と、いうこともあります。
    目的を考えて題材をえらばないと、返って墓穴を掘ることになります。
    自分の良さをアピールするのに困る子もいるようですね。
    見つけにくい時は、誰かに、何かほめてもらえばいいです。
    どういうときそう思った?とか、具体的根拠もそえて。

  4. Neko Fumio より:

     うちの小学1年生のぼうずの宿題が、「お手伝いを考えよう」というやつなんですね。それぐらいのことしか考えつかないとすれば、小学生並みの発想しかできないということでしょう。
     同じ書くなら、「クラスでみんなで何かやったとき」、とか、似たようなレベルでも、なんとかひねり出せるでしょうに。
     それもあまり、面白くはならないでしょうけれど。
     「他人に褒めてもらう」というのは、いいかもしれませんね。「具体的根拠もそえて」というほど親切だと、結局、他人に全部手取り足取りで考えてもらうということでになってしまうんでしょうが。

  5. おっさっち より:

    「特殊を象徴として使う」ということの例として、「具体的で固有な体験をベースに語る」ということにもなるのでしょうか。
    私には、この”固有な体験”というのが案外難しいという感じがしていました。なぜならば、そもそも書き手がどれだけ”固有な体験”を”自覚”できるのか、ということにかかっているからです。
    このため、私個人は、日々の体験を”私固有の体験”として高めていくための努力として、せめて日記なりで文章の形で残していくことを心がけています。あと、奥さんも日記を別に書いていて交換して読んだりしてます。
    そういうやり取りの中で「だれさんとこういう話をした結果どうなったのか」とか質問をしたりするので、次に日記を書くときに読まれることを意識するようになりました。
    文章を書くときの基本は、書くべきポイントにどれだけ自分が意識的であるか、他人の視点はどうなのかの往復作業が必要なのかもしれませんね。

  6. Neko Fumio より:

    おっさっちさん
     おっしゃるとおりです。
     「特殊を象徴として使う」ということは、「具体的で固有な体験をベースに語る」ということですが、そこで語られることは、その人の頑張りを象徴的に表すようなものでなければならないので、部分をその人自身の全体の象徴としても使える例でなければならないず、これは結構難しいです。
     そしてこれもおっしゃるとおり、作文を書く上では、書くべきポイントにどれだけ自分が意識的であるか、そしてそれを他人にどう伝えていきたいかと考えることはとても大切です。