文章の構成2

 前々回の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1009206422&owner_id=14874745)で説明した、「書きたいことと、書きたいことに向かって文の要素がきちんと機能していること」の大切さを理解していただくために、前回の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1011245098&owner_id=14874745)で讀賣新聞のコラムを題材として、例題を用意しました。今回から数回にわたって、これらのコラムについて、文章の組み立てという観点から、見ていくことにしましょう。

コラムをちょっと探せば、悪文の見本はすぐに見つかる
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 私が大切にする、「文の要素がその文章で言いたいことを伝えるためにきちんと機能している文章」ではないものを新聞のコラムから探すのは、とても簡単です。図書館にでも行って、数社のコラムを数日分見れば、おそらくかなりよい?例文を見つけることができるはずです。
 もちろんこの「よい」というのは、「悪い文章を説明する見本とするのにちょうどよい」という意味ですから、それほど高確率で悪文であるものを、「文章を書くためのお手本とせよ」とアドバイスするなどということは、狂気の沙汰としか私には思えません。
 内容を説明せずにこんなことを言っても、おそらく国語の先生でも納得していただけない方が多いと思いますから、私の以下の説明を読んだ後に、もう一度ここのところを振り返って納得していただければと思います。

家で悪文の典型を見つけるのが今回は簡単ではなかった
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 それで偶々(たまたま)うちは讀賣新聞を購読しているので、「何日分か見ていれば、説明するのに都合がよい例文が見つかるだろう」というような気持ちで、一週間分のコラムを見てみました。
 ところが、これがなんとか形をなしていて、「典型」として説明するのには、ちょっとわかりにくいものたちでした。
 さらに数日さかのぼるか、図書館に行って他社のコラムを何日分か探してみてもよかったのですが、それも面倒くさいので、今回は、以前作文の書き方について発表した時に見つけたコラムを例題として付け加えました。
 しかしこれも「昨年11月の例文だから、一生懸命探して、このコラムを唯一見つけたのだろう」などとは思わないでくださいね。
 昨年発表するときも、今回と同じような探し方をして、最初に読んだコラムがこれだったので、すぐにこれを説明の例文として採用しただけです。

一週間分+1の中から4つ選んだ
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 こうやって持ってきた一つと、さかのぼって1週間分読んだ7つのコラムの中から、3つを選んでみたのが、前回出題した4つのコラムです。
 このように、選びに選んだ悪文ではなく、適当にすぐ目の前にある文章を選んで、その特質を見ていけば、コラムの文章の特質が浮かび上がってくるはずです。

 これからこれら讀賣新聞のコラムについて順次見ていきますが、言うまでもなく、讀賣新聞が特別ひどいわけではありません。私はむしろ、「読売はましなほうかな」とも思っています。先に挙げた例文の中にも、一つはすばらしいものがあったのですから。
 コラムの中でよい文章を見つけるのは、それぐらい難しいのです。

 私の解説を読んだら、ご自身が購読なさっている新聞のコラムを何日分か検討してごらんになることをお勧めします。
 きっと面白いことが見えてくるでしょう。

�Tの例文だけ考察
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 全部いっぺんに説明すると長くなりますから、今回は参考にすべきでない文章の典型として持ってきた昨年のコラム�Tの例だけを見ておきましょう。

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讀賣新聞コラム「編集手帳」より
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�T 2007.11.2
源義経の家臣に常陸坊海尊(かいそん)という謎の僧がいる。「義経記」や「源平盛衰記」にその名が見える。義経が討ち死にした衣川の合戦では他出していて生き延び、のちに長寿伝説を残した戦国時代の末期まで生存していたという語り伝えもあり、それだと400歳ほどになる。ある時は人々に源平合戦の様子を談じ、ある時は人々の義経談義に割り込み、「史実は違うぞ」と訂正を申し入れたと伝えられる伝説ならば何百歳が何千歳でも驚きはしないが、こちらは長寿の実話である。英国のバンゴー大学が、大西洋アイスランド沖の海底から飛び切り長生きの二枚貝を見つけたと発表した木の年輪のように1年ごとに増えていく貝殻の層の数から推定して405〜410歳、これまで知られている動物の中では最長寿とみられる。「貝尊」とでも尊称を送りたいところである。貝が生まれたころ、日本では豊臣秀吉が62年の波乱の生涯を閉じている。「露とをち露と消へにし我が身かな…」と辞世の一首にあるが、400余歳の話のあとはひとしお、露のはかなさが心にしみるようである貝は年齢を調べるために肉をはがされ、長い一生を終えたという。「社会保険庁の仕事っぷりだけではないのだよ、老後の災難は…」と嘆いていたかどうかは、「貝尊」さまに聞いてみないとわからない。=========================================================
※説明の都合上、元の文章の段落区切りに使われている◆を、段落番号に改めました。

主題に向かう文章
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 すべての文章は、前々稿の通り(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1009206422&owner_id=14874745)で、言いたいこと(主張)があり、文章を構成する要素がすべて、主張を述べるために、有効に働いていなければなりません。
 この観点から、例文�Tを見てみましょう。

この文章で言いたいことは?
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 この文章で言いたいことは何でしょうか。よくわかりませんね。
 わかりませんが、「社会保険庁のずさんな対応」でしょうか。「老後の災難」なのでしょうか。まあ、この辺しかないでしょう。
 しかし、もしそれらを本当に感じてもらうためにこの文章を書いたとしたら、このような構成になっていたでしょうか。
 いずれを主張したかったにしろ、本当にこれらを主張したかったのなら、こんな構成になるはずはありませんね。

 「海尊」の話を述べた段落はこれらの主張とどんな関係があるでしょうか。ただ「長寿」という共通点があるだけで、「老後の嘆き」があったというような話につながっていく話ではなさそうですね。
 「史実は違うぞ」などと主張するような生き方からは、むしろ、そんな寂しさとは無縁の、一人元気な老人の姿を想像してしまいます。

 貝尊の話はどうでしょうか。長寿故(ゆえ)の「老後の災難」はあるでしょう。だから、これを現代人の老後の嘆きと結びつけて使うのなら、、このような終わり方で、「長く生きていると、思わぬ悪いことに遭遇するものだ」という嘆きを描き出すこともできるかもしれません。
 しかし、の社会保険庁の話は、本当に長寿故(ゆえ)の「老後の災難」なのでしょうか。多くの人は、「社会保険庁の仕事っぷり」という言葉を、そのようなレベルでとらえてはいないはずです。つまり、「『長寿』を大切にしない」仕事っぷりに腹を立てているのです。「社会保険庁の仕事っぷり」というとき、筆者自身も当然そのようなことを匂(にお)わせようとしています。
 このように、筆者は、貝尊の話を、「老後の災難」でまとめ、社会保険庁の話につないでいっているにもかかわらず、社会保険庁の例で本当に言いたかったことは、「『長寿』を大切にしない」あり方になっているのです。
 しかし、そのことを分かった上で、もう一度貝尊の話を無理矢理にでも「『長寿』を大切にしない」にこじつけて理解してやろうと努力しても、今の書き方のままでは、その解釈にはかなり無理があります。

 またさらに、の「貝尊のはかなさ」にしても、「貝尊が生まれた時代の秀吉が言った」という関連から、話がなされているだけです。これをよく考えてみると、「秀吉が言った」ことが、「貝尊のはかなさを説明する上で、どれだけ役に立っているでしょうか。
 「よく知っているぞ」と、筆者の知識をひけらかす用途と、それらしい雰囲気をねつ造する以外、内容である「はかなさ」をイメージさせるためには、この秀吉の記述も、全く役には立っていません。

 以上の分析から分かるように、話が重なるようでありながら、微妙にずれてずれて、結論とおぼしき最後の文章に向かって続いているのがこの文章の構造なのです。

それらしい話を続けて、最後に決めぜりふ
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 なぜこのような話ができあがるのでしょうか。それには、筆者の文章観が影響しています。
 すなわち、筆者は、「それらしい話を続け続けて、最後に決めぜりふ」で締めるのが、いい文章、いいコラムだと思っているのです。
 ですから、「長寿」をキーワードとして、「海尊」の話で書き出して、「海」と「貝」の語呂合わせと、長寿の連想で「貝尊」の話をし、途中で、貝尊の生まれた時代の連想から、秀吉の言葉を持ち出して「はかなさ」を付け加え、「はかなさ」+「長寿」から「社会保険庁」につなげていきます。
 そして、一応決めぜりふになりそうな、気の利いたと思わせる「社会保険庁の仕事っぷりだけではないのだよ、……」で始まる最後の文章で締めくくったつもりになっているのです。

 このような考え方をする筆者の文章には、その文章で主張したい結論などは必要ありません。気の利いた、知ったかぶりの思わせぶりな事柄をどんどん書き連ねていって、最後に締めになりそうな言葉を付け加えるだけだからです。
 これはつまり、何かを伝えたくて文章を書いているのではなくて、それらしい文章を書くことができる自分を見せるために、文章を書いているだけだということもできます。

 この例文�Tの場合は、まだ「長寿」というテーマで、最初から最後まで統一されているので、まだ救われている面があります。このような考え方をした作者によるコラムの場合、「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、関連する発想で文章がどんどんとあさっての方向にねじれていって、気がついてみれば、思わぬところに結論が向かっていたというようなことは実際よくあることです。

 このような文章こそが、「文芸的な文章だ!」と思っていらっしゃる方は、おそらくかなり多いのではないでしょうか。表現の豊かさとは、奇をてらった表現をすることだと勘違いしているのです。
 しかし、このような、何を言いたいわけでもない、自分の知識・文章力?をひけらかす文章を、書いて、読んで、いったい何になるでしょうか。「内容を伝えない表現の豊かさ」などというものが、はたして本当に豊かだといえるのでしょうか。
 百歩譲って、もしこのようなものがよい文章だと認めるとしても、そんな内容がないものがよい文章なら、それを、広くみんなに学ばせる意味は全くないでしょう。
 小説家気取りをしたい人だけで十分です。もっと間口を広くするにしても、まあ、文学部文学科の学生まででしょうか。でも、本当はそれでも害がありすぎますけれど。

 情緒なら情緒を、思考なら思考をきちんと伝える表現だからこそ、すべての人にとって、それを学ぶことが意味があるのです。伝えたいことをきちんとうまく伝えることができるから、「文芸的」といわれる奇抜な表現であれ、さりげない日常よく使うような表現であれ、豊かな表現なのです。
 このことは、いくら強調してもしすぎるということはありません。

 新聞のコラムによく見られるような、誤った文章観には毒されないで、本当に豊かな表現を目指すように心がけましょう。

この文章の点数は?
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 文の構造のことを言うのに夢中で、この文章の点数を言うのを忘れていました。この文章に、生徒が書くのと同じレベルで、60点をつけるとしたら、ちょっと気が引けるところです。
 さすがに、新聞社の選(え)りすぐりの方が書いただけあって、文章をうまく流していく力や、知識には舌を巻きます。
 しかし、以上見てきたように、文章に対する基本的なところでの考え方がこれではどうしようもありません。
 同じ考え方で、知識のない生徒が文章を書いた場合、誰でも思いつくような深まりのない内容が思いつきでずらずらと続いて、最後に結論らしき内容の締めくくりがついたどうしようもない文章になってしまいます。
 そういう意味で、いくらきらきらした目を引く文章になっているとはいえ、文章の構成という本質的なところを見た場合、この文章には、どうしても60点以上付けることはできません。

コメント

  1. かもめ より:

    「随筆」とか「作文」の採点って難しいですね。
    先生の採点を読んでも、僕はまだ、「随筆」っていうのは採点するものなのかどうなのか疑問です。
    「随筆」って、作者が何か出来事に出会って、それで作者が感じたことを書いて、後は読者が、面白いとか、面白くないとか、感じればいいように思います。
    例えば
    「春は曙が好きで、夏は夜がいいよね」
    「暇なときに、徒然なるままに、落書きしてれば、暇つぶしになるよ」
    「高名の木登りが言うには、木から降りるとき、地面から高いときよりも、地面から近くなったときこそ気をつけたほうがいいんだってさ」
    というような文章を読んで
    後は読者が、「あ〜、そうなんだ、で、それがどうかしたの?」とか
    「それは面白い考え方だね、教訓になるよ」とか、感じればいいわけで
    「論文」だったら、論理的でなければいけないわけですから、採点できますけど、「随筆」のように論理的出ない文章を、論理的に採点するのに違和感を感じますし、
    後は読む人の好みの問題だと思うんですよ。
    以前、先生が、「mixiの日記は採点ができない」と言ってたのと、似たような理由です。

  2. Neko Fumio より:

    >「随筆」って、作者が何か出来事に出会って、それで作者が感じたことを書いて、後は読者が、面白いとか、面白くないとか、感じればいいように思います。
     それは、おっしゃるとおりでしょう。
     その、「作者が感じたこと」「言いたいこと」を、きちんと伝えない文章は、だめだと言っているだけです。何を感じたのか、作者が分かっていないまま、整理もせずにだらだら書いた、mixiに多くあるような文章(日記)は、人に読んでもらうための文章としては価値がない。
     別に「論理的に書け」なんて言ってないのは、以前書いた通り(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=735281590&owner_id=14874745)です。
     「伝えたいこと」は、理屈である必要はないし、支離滅裂に書いた方が、却って伝えたいことを伝える場合だってあります。「何を伝えたいか」をきちんと把握して、それを伝えることができている文章であれば、点数を付けるかどうかはともかくとして、いい文章なのではないでしょうか。
     小林秀雄が、「何を書こうか決めないままに書いているのである」とかなんとか、どこかで書いていたはずですが、それもこう書きながら、実は計算し尽くして書いているのです。
     徒然草の、「退屈さに任せてとりとめもなく書いた」ですが、前後の段同士のつながりはあまり無くても、一つの段の中では、何を伝えたいのか、その主題ははっきりしています。
     もし、上の文章のように、書きたいこともないくせに、思わせぶりな技巧だけで書いていたとしたら、誰も本気で取り合ったりはしませんよ。
     多くの人が共感するような「言いたいこと」がきちんと含まれていないような文章が、古典になるなどということはあり得ません。
     「mixiの日記は採点ができない」というようなことを、書いた覚えはありません。「mixiの日記は、自分の感じたこと、考えたことを対象化していないものが多いから、そういう日記を書くことは危(あや)ういことであるし、公表する値打ちもあまりないから、気をつけた方がいいですよ」というようなこと(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=692210947&owner_id=14874745)を、言ったはずです。

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