こんなコメントが来ました

 前回の自己啓発の日記に対して、「コメント文字数オーバーしてしまったので…」
というタイトルで、大島さんから以下のようなメールをいただきました。
 みなさんにご紹介しようと思って、ここで取り上げてみました。みなさんどのようにお考えでしょうか。
 どうも最近、本業の方が忙しくて、本文をじっくり考えて書く暇がないということもありますが、みなさんの意見をお聞きしてみたいので、ここに載せてみました。

 私はこのようなことを書かれたからといって、批判されたとは思っていません。むしろ、こういう風に、まじめに考えておられる方は、嫌いじゃあありません。

 それではみなさん、どうでしょうか。

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初めまして。足跡からお邪魔致しました、大島と申します。恐らくは「文章のプロ」の方からいらして頂けたのだと思います。
2〜3、記事を拝読致しましたが、こちらのコミュからは批判的な意見が多いそうですね。
私の経験上、文章を創作するというと確固たる信念を持っている方が多いように思いますので、自分の立ち位置を譲れない方が同意をしてくれる事は少ないかもしれませんね。私を含め、作家を志しているような人は大概変人と呼ばれる部類に当たると思います。私の偏見かもしれませんが。

かくいう私も批判的な意見になるかもしれないのですが、決して批判ではありません。NekoさんにはNekoさんの御意見があって当然だと思いますし、Nekoさんのご意見に救われる人も多々いらっしゃるでしょうし、事実そのようなコメントがついていますね(ですから少し肩身が狭いです)。
ただ、もしNekoさんの視野を広める事ができたなら、と思い、コメントさせて頂きます。

私は人間を愛しています。人間の、人間らしさを愛しています。自分、他人に関わらず、人間くささを愛しています。
ですから、こういった自己啓発関係のものは苦手です。極論だと思います。そこまで極端にやる人はいないだろうというのが一般認識なのかもしれませんが、たとえば「自分の幸・不幸を他人に依存させない」など、これでは誕生日にプレゼントを贈って喜んでもらいたいと思うことすらおこがましい、と言っていることになってしまいます。
人のために何かをできることは、人間の物凄く素晴らしいところです。「ありがとう」の一言で幸せになれるなんて、本当に素晴らしいと思います。それが迷惑になってしまって、後悔したら、それは一つ「社会」を学んだということです。それって成長ではないでしょうか。

「後悔しないように」というのは私が子供の頃からよく使われている言葉で、私も幾度か言われましたが、私は本当に勿体無いと思います。後悔すればいいじゃないですか。悔やまないと分からない事があるはずです。なぜ後悔する機会を得ようとしないのでしょう。
とりあえずやってみるのには大賛成です。そして後悔すればいい。成功したら喜べばいい。悲しくなったら泣けばいい。ありのままで、人間はとても素敵なのだと思います。自分を嫌いだという人に、私は「そんなアナタも私は好きだ」と言います。嫌うなって言ったって、嫌いだと思ってしまう人はいるはずです。なんて人間味に溢れた人なのだろうと、私は愛しく思います。人間は愚かで格好悪いから、素敵な顔で笑えるのではないのでしょうか。
「最大限やっておく」というのも、最大限やって後悔したことがあって、また、最大限やって後悔しなかったこともあって、初めて言える言葉ではないかと思います。最大限やったって後悔することはあります。やりすぎて後悔することも多々あります(分かりやすいのはスポーツ選手の練習のし過ぎなど)。それは全て人間らしい生き方だと思います。私はそれを認めたいです。

それに、適度な自己嫌悪は良い事ではないのでしょうか?私が今まで出会った人の中で、最もイヤなタイプは自分の悪いところに気付かない人、反省しない人、他人を巻き込んで迷惑をかけても「別に頼んでないし」などと平気で言える人です。つまり、「他人と共存している」ことがどういう事なのか分かっていない人です。
もし自分を嫌いになりすぎてしまっているな、と感じたら、「私は好きだよ」と言ってあげられたらいいな、と私は私の周りの人に対して思っています。私は私が嫌いです。だけどこんなにイヤな人間である私を好きだと思ってくれる人がいて、どうして好きだと思ってくれるのか全く理解できないからこそ、感謝の念が絶えず、この人たちになるべく幸せをあげたい、と思えます。これが他人と共存するということだと、私は思っています。

自立、って、一人で生きていく事でしょうか。だとしたら私は、自立なんて一生したくありません。常に誰かに助けてもらったり助けてあげたりして生きていきたい。完璧な人間とは仲良くなれません、だって助けてあげられないから。助けてあげられたり、助けてもらったりしたとき、仲良くなれた気がするのは、私だけではないと思います。
Nekoさんの御意見は、なんだかとても「都会の大人」の御意見に思えます。小泉前首相の「自己責任」発言のような印象です。人間は社会生活を営む生物なのだと私は思っているのですが、全ての人間が完全な自立を果たしたとき、社会は何のために存在しているのでしょう。助け合えないなら社会なんて必要ではないと思います。
「相手の反応の原因がすべて自分にある」という考え方は、とても優しい人の考え方だと、私は思います。それに不満を抱くような人は、上からものを見ているだけです。身の程を知らないからです。自分が他人に救われている事を知って、目線が下がれば、思い通りの反応がもらえなかったときに自分が原因だと思っても、悲しくなるだけです。するときっと申し訳ないと思って、「ごめんね」と言う機会もあるでしょう。そうなったら、相手も「大丈夫だよ、実はこういうわけでね」と言ってあげられるゆとりが持てると思います。そしたら仲良くなれますよね。それを、「あーなんか事情があるんだろうな、別に私悪い事してないし、まあやりたいようにやっただけだしね」と思ってしまったら、それ以上の発展はないように思います。その人が楽なだけです。

私はもしかすると、Nekoさんと正反対の考えかもしれませんね。そもそも自己啓発というのは「上手に、気分的に楽に生きていく」ためのものだと勝手に思っているのですが、私は上手に楽に生きていこうと思っていません。悩んで泣いて嘆いて苦しんで、幸せの大事さが分かるように生きていきたいと思っているので、反対になるのは当然なのかもしれません。だけどそうしないと、大切なことが分かりにくいと思うんです。

人は自分の事を思っているほどよく知らないと思っていますし、知ろうと努力している人なんて稀有だと思っています。自分の行動の結果に対して「どうしてこうなっちゃったんだろう」と思うことはあっても、自分がそういう行動をとった事に対して「なぜ私はそうしたんだろう?」「なぜ私はそうしたいと思ったんだろう?」「そう思ったということは私はどういう人間なんだろう?」とは、あまり考えないのではないでしょうか。
自分をよく知ってみると、どれだけ他人に救われているかに気付けるし、自分がどれだけ愚かなのか反省できるし、身の丈が知れると思います。自分が「どのように愚かなのか」知らない人が、自分探索を放棄したまま自分を好きだと言っていても、人は認めてくれないと思います。Nekoさんのようにある程度経験を積んでいれば良い結果になるかもしれませんが、若いうちからそうして生きてしまったとき、うまくいくとは思えません。
ただ、どうしても主観的になってしまうので、そこでもやっぱり他人が必要なんですよね。他人と生きる自分になるためには、どうしても客観的な意見が必要です。自分を知ることすら一人では上手にできない、そんな人間が、私は好きです。

長々と自己主張ばかり、すみませんでした。少し恥ずかしいです…。ご参考になれば幸いです。
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コメント

  1. SXE10 より:

    「ありがとう」って言葉にはすごい力があると思います
    私は、ドジでマヌケでいつも人に迷惑をかけてダメダメな人間です
    でもっ人に助けてもらうのは、決して恥ずかしいこととは思いません人間、生きてく上では他人に頼らないことはないと思いますし、人の温かさを実感することができますよね

  2. ひまわりなつこ より:

    同じ文章を読んでも、感じることが違う。
    人間っておもしろいです。だから私は人間が好きです。
    「自分の幸・不幸を他人に依存させない」など、これでは誕生日に
    プレゼントを贈って喜んでもらいたいと思うことすらおこがましい、
    と言っていることになってしまいます。 人のために何かをできることは、
    人間の物凄く素晴らしいところです。
    「ありがとう」の一言で幸せになれるなんて、本当に素晴らしいと思います。
     
      「ありがとう」っていいですね。私も幸せになれます。
       私が幸せな気分になれるのは
       自分の気遣いが、無駄ではなかったと思えるからです。
       人のために何かができるのもすばらしい。でも、
       人に親切ができる自分こそが価値があるとこだわりすぎると、
       役にたたない自分はだめな人間。つまりは価値のない人間。
       つまりは不幸せな気分になる可能性もあるわけで、
       そういう意味では、NEKO先生のいわれるように、
     他人に依存しないで幸せになる(自分の価値を認める)ことが
     できるといいですね。
       
    後悔すればいいじゃないですか。
    悔やまないと分からない事があるはずです。
     賛成です。
     「こんなはずじゃなかった」というコミュをたちあげるほど、
      わたしの人生は後悔だらけです。
      とりあえずやってみるという感覚もないまま走り出して、
      走りながら走っている理由を考えるような人間でしたから。
      でも、後悔にもいろいろあって、とくに母親業をしていると、
      絶対にやってはいけない行動もあります。
      自分だけでなく相手の心を傷つけるからです。
      そういう意味では、たとえ結果がどうなるにしても、
      あの時はこんな風に考えて行動したんだよねと、
      せめて自分に言い訳出来るていどには、
      良く考えて行動をする人になりたいなと思うようになりました。
      後悔をおそれて臆病になることはないけれど、
      でも、最近は他人とかかわるときは、
      できるだけ後悔をしないですむ行動をしたいなと思っています。
     
    ありのままで、人間はとても素敵なのだと思います。
    自分を嫌いだという人に、私は「そんなアナタも私は好きだ」と言います。
      そういってもらえて気持ちが明るくなる人もいますね。
      でも、だいたいは腹をたてるかもしれません。
      「お世辞をいわなくてもいいです」とか「同情は結構です」とか
      「あなたに何がわかるのよ」「馬鹿にしないで」とか…
      自分を嫌っている人って、ひねくれていますから。
      人がほめるとすねます。不幸なのが幸せなんて時期もありますし。

  3. ひまわりなつこ より:

    上から続き
    それに、適度な自己嫌悪は良い事ではないのでしょうか?
      私個人としては、過度な自己嫌悪には落ち込みたくないです。
      だって、それじゃあ気分が暗そう。幸せじゃないです。
      たいしたことができなくても、
      一生懸命幸せになろうとしている自分を好きでいてあげたいです。
      悲しいときこそ、失敗したときこそ、自己嫌悪に陥るのではなく
      「お前、かわいいなあ」って、まずは自分に声をかけてあげたいです。
      あっ、反省しないというわけではないですよ。
    他人を巻き込んで迷惑をかけても「別に頼んでないし」などと平気で言える人です。
    つまり、「他人と共存している」ことがどういう事なのか分かっていない人です。
      私もこういう人は苦手です。本人が望もうが望まなかろうが、
      他人はそれなりに自分に気を使っていることをわかってほしいです。
      でも、確かに頼んでいないのだとしたら、やっぱりほっとくべきこともありますね。
      見てられなくて手助けしたら、当の本人は永久に成長しませんから。
      この辺の兼ね合いが難しい。
       
    自立、って、一人で生きていく事でしょうか。だとしたら私は、自立なんて一生したくありません。
      NEKO先生が言われている自立は、
      自分の行動の結果を自分で背負うことのできる人間ということだと思います。
      一人で生きていくことだとおっしゃてはいないと思います。
      悪い結果が出たとき、
     「私のせいではない。私はやらされただけだ」というより、
     「自分で決めたことだ。結果も甘んじてうけとめよう」という姿勢で
      いたいということではないでしょうか。

  4. ひまわりなつこ より:

    上から続き
    全ての人間が完全な自立を果たしたとき、社会は何のために存在しているのでしょう。
    助け合えないなら社会なんて必要ではないと思います。
      人の世話をして感謝されないと生きがいを感じない人にはきつい世界ですね。
      でも、全てが自立したということは、人の世話をしないと生きがいを感じない人もいませんね。
      たまたま困った人がいて、本人が助けを求めたら助けるだろうけれど、
      助けてあげなくてはいけない人がいないということは、
      皆が穏やかに生活しているということで、
      それってとても幸せなことだと思います。
      それに、完全自立しても、助け合いはあります。
      だって、私は誰かが作ってくれた服を期待し、
      魚を漁師さんにとってきてほしいし、青信号でつっこんできてほしくないし、
      子供を育てたいし、歩けない病人もいるでしょうし。
      
    「相手の反応の原因がすべて自分にある」という考え方は、
    とても優しい人の考え方だと、私は思います。
    それに不満を抱くような人は、上からものを見ているだけです。
    身の程を知らないからです。
      難しいテーマですね。私の経験をお話します。
      私には結婚以来、夫が帰ってくる前に部屋を片付けて待ちたいという希望がありました。
      だから、夫から帰るコールがあると、
     「お父さんが○時に帰ってくるからそれまでにおもちゃをかたづけよう」と、
      子供達に言ってました。
      間に合わせようと叱りながら片付けている最中に夫が帰ってくると、
     「ほらあ、さっさとしないから、まにあわなかったじゃない」とか
     「ほらあ、お父さん帰ってきちゃったよう」とか
     「あら、予定より早くない」なんて思わず言ってたことがあったのです。
      で、十年くらいたったある日、
     「ほらあ帰ってきちゃったでしょう」と、言ったら、
    「そんなに俺が帰ってくるのがいやなのか」と怒って夫が飛び出ていったことがありました。
     この状態を解説するなら、
     「夫を気持ちよく迎えたい」という思いで私は掃除をしていて、
     夫が帰ってきたことを嫌がっているのではなく、
     間に合うようにおもちゃを片付けなかった子供に腹を立てているわけです。
     ところが夫は、予定より早く自分がかえることを
     妻は攻めていると思い込んでいました。どうして帰る時間まで
     妻に制約されなければいけないんだという具合にひねくれていました。
     夫の行動が私の腹を立てさせていたのではなく、子供が腹を立てさせていたのに、
     夫は自分が妻を怒らせていると思い込んで、でも、それ以上機嫌を損ねたくないから我慢していたのですね。
     私は、夫のために、「お父さんを迎えるための掃除」指導をしていたつもりなので、
     まさか、夫が私に感謝こそしても、怒っているとは思っていませんでした。
     私の怒りは、夫に関係のない私のこだわりのなかで勝手におきていたわけですが、
     夫は自分のせいだと思っていたのです。
     
     すみません。もっといい例があるのですが、説明が大変なので、
     このあたりの例にさせていただきます。
     そのように考えると、NEKO先生は下記のようには考えておられないと思います。
     
        「あーなんか事情があるんだろうな、別に私悪い事してないし、
        まあやりたいようにやっただけだしね」と思ってしまったらそれ以上の発展はないように思います。
        その人が楽なだけです。
    他にもいろいろ考えることがありましたが、人間考察的なことは、
    一言で語り合うのは難しいですし、
    NEKO先生の日記本来の目的とも少し違うと思いますので、
    この辺で。

  5. ひまわりなつこ より:

    NEKO先生、ながながと失礼しました。
    私なりに読解して代弁をするつもりが、途中から随分自分の考えが入っていますね。
    ここらは私のこだわるところでして、予想以上に熱が入りました。
    みんないろいろな考え方があるなと、改めておもいました。
    大島さん。
    考えるチャンスをくださってありがとうございました。
    若いころの夫のとのかかわりを懐かしく思い出しました。

  6. Neko Fumio より:

     コメントありがとうございます。参考にさせていただいて、次の日記を書きました。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=780456120&owner_id=14874745&org_id=781192284