「文体は思考の厳密さに正しく影響を与える」にいただいたコメント
https://www.sakubun.info/?p=173
に答えていく形で、補足していこうと思います。
今日はその第2回目です。
内容のあることを書かせる・考えさせる
りえたん@檄!鬱中さんからいただいたコメント
そうかもしれません。
しかし、作者が『それ』を意図して、
巧妙に文体を使い分ける場合も無きにしも非ず、だと思いますし、
また、それはかなりの『高等技術』とも言えるかと思います。
そうした『技術論』を論ずる前に、先ず私達は
『正しい思考の導き方』の練習をしなければならないのではないか、
と思います。
思考の導き方、と云うと大層かもしれませんが、
原因・理由→経過→結果・結論というプロセスを
おろそかにしている面があると思います。
それを踏まえず、『国語』という教科の中でだけ、
『論文の書き方』『小作文の書き方』として
起承転結や書き方の法則を教えられたりしても、
生徒としては消化&昇華できないと思うのです。
物事を順序だてて考える事の大切さについて、
学校教育はもっと時間を割いてもよいのでは・・・と思う次第です。
趣旨から逸れていたら申し訳ありませんm(__)m
小説や詞(虚構)はそこそこ書けるのに
作文や論文(事実)を書くことが苦手な人間からでしたm(__)m
>物事を順序だてて考える事の大切さについて、
>学校教育はもっと時間を割いてもよいのでは・・・と思う次第です。
というのは、お説の通りです。
それを一部達成するために、「読み・書き・話す」能力を育成するという目的で設置されたのが、「国語表現」という科目なのでしょう。
でも、文部科学省のお役人のすることというのは、全てきれいごとで役には立ちません。
「国語表現」という教科が学習指導要領の中に設定されて、それが実施に移された年には、教科書すら1つもできてはいませんでした。
「『読み・書き・話す』能力を育成しなければならないから、『国語表現』という科目を設置する」のはよいとして、それなら、「何をどのように使って」その能力を育成するか」ということをきちんと示さなければ、本当に責任を持って考えたことになるはずがありません。
それを示さずにおいて、「『読み・書き・話す』能力を育成せよ」「総合的な思考能力を育成せよ」といって枠組みだけは作る。で、指導内容は、「各校の実情に合わせて、現場で工夫しなさい」なのです。
ですが、「読み・書き・話す」能力・総合的な思考能力というのは、現場の教員達がちょっと考えて思いつくような、そんな簡単なものではありません。文部科学省の役人も含めて多くの人たちは、これらを、「よみ・書き・話す」内容・考える内容と切り離して、技術だけが存在するように錯覚しているのです。ですから、難しいことを書いたり、考えさせたりするのは難しいので、中身のない内容で、書く技術や、考える技術を付けさせようとして、書かせたつもり、考えさせたつもり、書かせたふり、考えさせたふりをしているだけなのですね。
このようなことをやっているだけだから、いくら時間数を増やしても、成果があがらないのは当然なんです。今回の総合学習の見直しについても、難しいことを、わかりやすく考えさせる努力をしないで、全く内容がないことを、考えさせたふりをしていただけなのですから、始まった当初から、成果があがるはずはなかったんです。
生活科なんて教科の取り組みもこれと似たようなものです。
そんな、分かり切ったことを、今更ながら騒いでいる。
当たり前のことながら、何かを本当に考えさせる能力を身につけさせたいのだったら、「本当に考える価値がある内容について、自分で考えさせる訓練」が必要です。書く能力を身につけさせたいんだったら、本当に読むに価する内容を、きちんと書かせる訓練ですね。
そのような、「難しいことを、なるべく易しいように分解・整理して、できるだけ困難を軽減して、生徒自身に達成させるためにはどうするか」ということは、現場の一教員だろううと、大学の偉い先生だろうと、ちょっと考えたり、工夫したりして、すぐに思いつくようなものでは絶対にありません。本当に能力のある人が、死にものぐるいでやって、かなり時間をかけてやっと達成できるような、そんなとっても困難な事業ですね。
「そういう事業に取り組んで、ぜひとも成し遂げるんだ」という覚悟なしに、「頭の賢い人」、つまりはこれは、本当に嫌みな言い方だから、それを翻訳すると、「自分は賢いつもりでいる大馬鹿」ということですね、それが、いい気になって、国家の教育を自分が取り仕切っているつもりになって、でたらめにいじるから、国語表現にしても、総合教育にしても、ろくでもないことになるのです。
「国語表現」に話を戻しましょう。
教科書はいまではもう、たくさんできましたが、未だに、そのような意識で編集された教科書は、一つもありません。作文を書かせるために、何ページかでもいいから、本当に使えるところがある教科書は、全くないんですね。
で、参考書ならあるかというと、やっぱりこれが全くない。
だからそれを、誰でもいいから、誰かが早急に作らなければいけません。
このような、「本質的な思考訓練の場」は、本当に今すぐにでも必要なんです。今の教育現場には、どこにもないけれども、これはみんなのどから手が出るほど望んでいる、なくてはならないものなんです。
で、それを誰がつくるか、ですね。私も「作らなければ」「作りたい」とは思いながら、結局だらだらと逃げていて、皆さんに「これだ」と誇れるほどの形にまでしていないので、偉そうなことは言えません。
しかし、少なくとも、私は、そういう「本質的な体験を生徒にさせるためには、どうするか」という観点で、生徒が実際に作文を書いたり、先生方が実際に生徒を指導したりするときの助けになるように、という目的で、『ねこの小論文・作文講義』を書いたり、ホームページやこのmixiの日記を書いたりしてきました。
このmixiの日記については、内容をかなり掘り下げていっているので、生徒対象というよりも、「文章を書く」ということについて、もっと掘り下げて考えてみたい、かなり意識の高い大人の方だけが、実際には読んでくださるようになってしまいましたが。
作文指導が字句の修正だけで終わるわけがないでしょう
今の学校教育の現場で、「物事を順序だてて考える」ことを提供できる場は、いったいどこにあるのか、ということです。数学も、論理的思考という面では、寄与するところもありますが、「言葉を使って、内容を表現する」ということ全般に関わっていく場を提供できるとしたら、新たな科目を設定しない限り、「国語」か、「社会」しかありません。まあ、場合によっては、理科が関係してくる場合もありますが。
ところが、「社会」「理科」の先生というのは、考えた内容だけを、既製品のような形で、思考形成作業と切り離して考える傾向があるので、一般的に言えば、「何もないところから、思考をどうやって形成させるのか」という立場から、生徒を指導する方は、おそらくほとんどいないはずです。
「あなたの内容には、こういう社会的な視点が欠けているから、こういう観点を付け加えなさい」というような、その文章にないものを、答えとして与えるというようなやり方になりがちなんですね。
そうなってくると、実際に、生徒に作文を書かせて考えさせる場を提供できるところは、「国語」しかないんです。それなら、本当は一人で40人の文章を見るなどということはできるはずはないんだけれども、どんなにかしてでも、「国語」が、その社会的な要請に応えていくしかないでしょう。
ところが、国語の先生は、How to本しか読まない、私などと違って、文学好きが多いから、「国語関係の文章は見ることができても、経済の話なんか専門外でとてもとても」なんてことを言う。「字句の修正だけなら」なんて平気で言って、その通りのことをしてしまう。
でも、本当にそれでいいんでしょうかね。前回の日記に書いた「思考が文章そのものだ」ということを裏返して言えば、「内容と関係のないところで、論じることのできる文章法などどこにもない、ということなんです。表現に出てくる問題というのは、本当は、表現をあれにするかこれにするかというような、単純な字句の問題なのではなくて、考え方そのものに問題があるということなのです。
当の国語の教員がそんな体(てい)たらくだから、
『論文の書き方』『小作文の書き方』として
起承転結や書き方の法則を教えられたりしても、・・・・
なんて、言われても仕方がないのかも知れない。要するに、国語の教員がすることは、内容を作ることも教えずに、字句の修正や、内容形成には影響しない形式的な技巧、内容を飾る技術だけを教えているにすぎないということですね。
本当は、みんな一生懸命、「内容を形成させるにはどうするか」と取り組んでいるのに、当の本人達が、自分たちのやっていることを、低く見積もってこんな発言をしてしまうのだから、世間の人にそのように軽んじられても、それはそれで、仕方のないことなのかも知れません。
だけれども、せめて国語の教員だけでも、「そんな、内容形成に関係のない、ただ単なる字句の修正だけなんかで終わるわけがないでしょう」と、そういうような自負は、絶対に持っていていただきたい。
そして実際に、その言葉を行動で裏付けてほしいものですね。
「専門外」だなんて、たかが高校生が書く内容なんだから、それよりちょっと多めに本気で勉強すれば、教員にはそれまでの他の蓄積があるだけ、指導ができないなんてことはないはずです。いや、できなければならない。
自分でそうやって一生懸命指導した後で、社会や理科の、「専門家」のアドバイスを受けさせればいい。それだけです。
ただし、これは、「一生懸命指導した後で」ですよ。途中じゃあ絶対にいけません。
私だったら、たとえ理科や社会の専門分野でも、なまじっかな理科や社会の教員などより、本質的な思考訓練をさせているという自負はあります。世の中の人は教科書を作っている人を含めて、国語表現という教科の重要性をそこまで認識してはいないことがほとんどだけれども、どの様な教科、課題を考えるにしろ、そのベースとなる「本質的な思考訓練」こそが、国語表現の肝であるということを、重々認識しておくべきだと私は思います。
国語という教科の存在意義
国語の先生は、ほんと、文学好きが多いですよね。だから、「国語」の授業で文学を教えたがる。確かに文学にもよいところはたくさんあります。でも、それに大きく偏ってしまうのはいかがなものでしょうか。
「国語」という教科は、日本語を使ってこれから、いろいろなことを考えたり、伝えたり、記録したりしなけらばならない全ての人にとって役に立つ内容でなければならないんです。そのためには、文学的な思考法だけではなく、理科系の人にとっても役に立つ、日本語を使って読む技術・考える技術・書く術を教えることを、主要な使命として持っていなければならないのではないでしょうか。
文学は、人の考え方や感情を豊かにしてくれるすばらしいものです。でも、極論をすれば、それらを全く知らないでも生きていけるし、それを知っていることが上等な人だとは、必ずしも言えない面があるのです。
おそらくこういうことを言うと、多くの方から猛反発をくらうでしょうね。国語の先生方だけではなく、今これを読んでくださっている多くの文学好きの皆さんから。
でもね、文学というのは、基本的にマイナス思考なんです。人間のあっけらかんとはしていない、どろどろした部分、人に言いたくない部分、道徳などのきれいごとではすますことのできない部分、こういうものを、「こんな世界があるんです。あなたにもこういう部分はあるでしょう」とやるわけです。
確かに、それらについて知ることは魅力的だし、ものを考えていくと、どうしてもそういうところに行き着いていく部分というのはあります。でも、それを知っているからといって、果たして本当に幸せだと言えるかどうか。私などは、自分の触れている世界を少しでも知っていたい人間だから、当然そのような世界に心引かれるわけだけれども、そのような世界を知らずに、たとえば水戸黄門の世界のように、本当におおらかで善意に満ちている世界だけを信じていけるんだったら、その方が、人間のどろどろした部分を知ってしまうよりも、よっぽど幸せかも知れない。文学好きが「底が浅い」と軽蔑している人間の方が、そんな人間の低級な心理に毒されていないだけ、本当はよっぽど高級なのかも知れないわけですね。
人間が文章で表現する内容の内、文学なんてのは、確かに重要な一分野だけれども、しかし、それは、多くの分野の内の一つにしか過ぎない。こういう視点がいるのではないでしょうか。
たとえば国語が扱うと思われている分野の中でも、プラス思考を扱う文章などというのは、教科書などでも見向きもされない。でも本当は、これは全ての人にとって必修科目と位置づけていいほどのとても大切な内容であると私は思います。
多くの人が、自分というものの可能性に、自分で枠組みを設けて、自分で勝手に小さくなっている。そういう現実が確かにあるんです。その枠を少しでも取っ払ってしまうことができたなら、今の日本は、大きく変わりますよ。小学校から英語をとか、「世界史必修」なんて訳が分からないことを言っているよりもよっぽどいい。
この件では、以前「浅見帆帆子」の『あなたは絶対!運がいい』という本を、学年全員に、夏休みの課題図書として読ませようとしたことがあります。「国語でなんで、国語に関係がない、そんな本を大金を払わせて全員に読ませなければならないのか。人にはいろいろな考え方があるでしょう」と反対されて、結局その学年に読ませることはできなかったわけですが、「本当は、こういうところをこそ大切にしなければならないのに」というのが、私の正直な気持ちです。
自分の可能性を自ら閉ざしてしまっている多くの生徒を、その束縛から解き放って、少しでも自由にしてやれる可能性があるものが、すぐ手に届くところにあるのに、それをしてやれないのはとてももどかしい。
この自己啓発は一例ですが、その他、経済の文章でも、科学の文章でも、文章を使って考えるときに、本当に生徒にとって生きる力が身につく文章を、「国語」などというつまらぬ既成の概念にとらわれないで、どんどん取り入れていかなければいけません。
「国語という教科の存在意義」というようなタイトルを掲げながら、側面からの話になってしまいました。
国語が、文学や古典などの分野に偏っている限り、「そんなの一部の国語好きに任せておけばいい。自分には関係ない」と思う人間が出てくるのは当たり前です。国語が、文学好きだけではなくて、全ての日本人に、学ばせる意味のある内容を提供できなければ、それが必修科目になっている意味はありません。
その内容を決めていくときに、従来の文学や古典も当然主要な柱の一つにはなっていきますが、それだけではいけません。「国語を、全ての日本人に、学ばせる意味」を、国語を教える人は常に考えておくべきです。
創作的な文章を書かせる前にやるべきことはたくさんある
小説や詩(詞)は、荒唐無稽(こうとうむけい)、すなわちでたらめな筋でも何でも、好き勝手に書いて、一人で悦(えつ)に入(い)っていることもできるものですから、小説家を目指そうとしない限り、そのレベルでこれを書くのに、絶対に必要となる訓練のようなものはありません。
私が言う、「自分が感じている、考えていることを、整理した上できちんと伝えることができる」文章というのは、何も理屈っぽい文章だけのことを考えているわけではありません。
たとえば、家族のさりげない会話を通して、そのほのぼのとした交流を描きたいのであれば、理屈っぽさを押さえて、「ほのぼの」を実感させるような描写をしなければなりません。
それがどれだけ、的確にできているのか、これが、私の言う、「自分が感じている、考えていることを、整理した上できちんと伝えることができる」文章です。
こういうような主題であれば、世間で言うところの「創作」といえるかもしれません。その創作を、この言いたいことを伝えるというレベルで見たときに、果たして本当に、「得意だ」といえるほどの、客観的に見てすばらしいものが書けるんでしょうか。
そういう観点で、上の
>小説や詞(虚構)はそこそこ書ける
というコメントを見返してみると、そのレベルで、「そこそこ書ける」とほめあげ、「そこそこ書ける」と思い込んでいること自体が、問題の根の深さを暗示しているように、私などは感じてしまいます。
コメントのように、
>原因・理由→経過→結果・結論というプロセス
が、本当に「思考の導き方」を考える上で一番大切なことなのかどうなのか、わたしには分かりませんが、少なくとも、「自分が感じている、考えていることを、整理した上できちんと伝えることができるための訓練」というのは、そういう創作も含めて、全ての文章に共通する基礎になっていく、そういうものなのです。
なぜ文体の話などするのか
>文体が文の質の違いを生む・・・確かに、
>そうかもしれません。
>しかし、作者が『それ』を意図して、
>巧妙に文体を使い分ける場合も無きにしも非ず、だと思いますし、
>また、それはかなりの『高等技術』とも言えるかと思います。
まあ、高等技術を使いこなせる人は使えばよいわけですが、私は何も難しい話をしようとしているわけではありません。
「『だ・である』を、『面映ゆさ』を感じることなく、普通に使いこなせることが、文章を書けるようになる最短の近道である。だから、この訓練をみなさんやってみましょうね」という、ただそれだけです。
ただこれだけなんですが、そう言っただけでは、誰も「そうだ」と納得してはくれない。納得したつもりであっても、これをもうちょっと詳しく説明したぐらいでは、いただくコメントから察するに、どうも心底からは分かってくださってはいないようなのです。
だから、なぜ、「だ・である」を練習しなければいけないのかを本当に納得してもらうために、本気で書いていたら、ああいうマニアックとも受け取れるような記事になったという、そういうことです。
たいそう長い記事になっていて、かなり理屈っぽいかもしれません。でも、本気で自分の文章に向き合ったことがある方なら、たぶん実体験として納得していただける内容ではないでしょうか。
『だ・である』を、『面映ゆさ』を感じることなく、普通に使いこなせることは、文章を書けるようになるための、どうしても避けては通れない絶対条件です。これは、全ての応用的な文章を書くための基本になります。美術で言えば、デッサンに当たるようなものといえるでしょうか。
ですから、ここでの体験は、「です・ます」で書くような応用の文章でも、必ずや生きてきます。
まだやってみたことがない方は、訓練の意味で是非書いて練習をしてみてください。
mixiというのは、基本的にかなり読み手を意識させる場なので、ここでそういう文章の実験をするのはむずかしいかもしれません。どこかで、そういう訓練の場をとりましょう。
「だ・である」で書く時の「てれ」を克服しよう
先ほどから一部引用させてもらっているペスさんのコメントです。
今回は文体ということで…
私の日記は基本的にです・ます調です。頭に描く話相手がいるからだとは思いますが、である調で書くと面映ゆいので。
時にはただの喋り言葉に徹したりもします。
それで思考の甘さが浮き彫りになる。
それもいいではないか!
というのが私の考えなので。
だって日記ですから。
でも、難しい事も深く考える、考えてゆける文章を書ける技術を持つのは、とってもいいことだなって思いました。
基本的に、日記であろうと文章であろうと、自分の文章にどこで満足するのかということと、受け取る読者のことを考えない限り、好き勝手を書けばいいんです。ですから、私がとやかく言う筋合いはありません。
ただ、おっしゃるような、「面映ゆさ」というのは、抽象的思考を日本語を通して読者に伝えようとするときに、どうしても超えておかなければならない一種の壁のようなものなんです。私のこれまで説明してきた言葉で言えば、「てれくささ」ですね。これを超えられないが故に、いつまでたっても、きちんとした文章が書けない方というのは、予想以上にめちゃめちゃ多い。
第一それが、乗り越えなければならない、文章が書けない原因となる大きな壁だ、と正しく認識していらっしゃる方はおそらく非常に少ない。
だからこそ、文章の基本をきちんと身につけた人を一人でも多く育てたい私としては、その「面映ゆさ」を捨てなければならないと、声高に叫ぶことになるのです。
コメント
楽しそうなので実験してみました。
私の作文力で、私にとって違和感のない作文、
つまり、話の流れにさほどの飛びを感じない文章を考えながら書き上げたら、
このような違いが出ました。読み手を意識して常体で言い切るにはそれなりの覚悟がいって、
その分心をみつめる結果になりました。
はなし言葉でいつものように日記を書く
今日の報告!
珍しく親父が早く帰ってくる。帰ってきたってかまわないが、ご飯の時間が
早くなるのが断然困る。いつもより早い時間に晩御飯を飯べたくないんだよね。
親父は腹が減ってるかもしれないけど、俺はまだ減ってないんだよ。
それなのに
「ご飯よう」なんておふくろに呼ばれると、気が重くなる。で、
「はーい」と、返事をするものの、食べたくないんだよね。
逆らってるつもりはないけど、ちょっと行くのが遅れると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、親父は言う…
いや、「待ってるのはあなただけでしょう」といいたいよ。
よく学校の先生が、「子供と一緒にご飯を食べると円満家族」とか
保護者にいうけど、何もご飯中しか親子の会話ができないわけでなし。
親父の説教をききながら食べても、おいしくもなんともない。
第一、保護者にそういってる先生が
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」なんて、教室でぼやいている。
知るか!そんなぼやきは、一人でしてろ!ってな感じ。
世の中の親父ってそんなに子供とご飯たべたいわけ?
できるだけ、そのままの文章で敬体にかえる。
今日の報告をします!
珍しく父が早く帰ってきます。帰ってきたってかまわないのですが、
ご飯の時間が早くなるのが断然困ります。
いつもより早い時間に晩御飯を飯べたくありません。
父はお腹が空いているのかもしれませんが、僕ははまだすいていないのです。
それなのに「ご飯よう」などと、母に呼ばれると、気が重くなります。
しかし、「はーい」と、返事をします。けれども本当は食べたくないのです。
逆らっているつもりはないのですが、ちょっと行くのが遅れることがあります。すると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、父は不機嫌にいいます。
「いや、待っているのはあなただけでしょう」といいたくなります。
よく学校の先生が、「子供と一緒にご飯を食べると円満な家族」とか
保護者にいっていますが、ご飯中しか親子の会話ができないわけではありません。
父の説教をききながら食べても、おいしくもなんともないのです。
第一、保護者にそういっている先生が
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」などと、教室で嘆いています。
「知るか!そんなぼやきは、一人でしてろ!」と、僕は思います。。
世の中の父親というのはそんなに子供とご飯をたべたいのでしょうか?
読み手の理解度を考えながら敬体で日記を書く
今日は父が早く帰ってきます。父が早く帰ること自体に関心はないのですが、
晩御飯がいつもより早くなることは苦痛です。
いつもより早い時間ではまだお腹がすいていないために、おいしく晩御飯が飯べられません。
父の空腹は理解できるのですが、私の食欲はまだ目覚めていないのです。
しかしながら、母は、父のペースにあわせて動きますので、
「ご飯よう」などと、呼ばれることになります。正直、気が重いのですが、
「はーい」と、返事をします。返事をしないと繰り返し呼ばれるからです。
しかし、私は本当はまだ食べたくないのです。
それでも、家族で食べたいという親の気持ちは理解できますから、
一緒に食事をするつもりはあります。しかし、
ほんの少し、食堂に行くのが遅くなると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、父はあきらかに不機嫌な顔をします。
父はみんなが父にあわせていることに気づいていないのです。
「子供と一緒にご飯を食べると円満な家族になる」と、
学校が保護者に伝えている書類をよく見かけますが、
それは、食事の時間しか親子の会話をしない人たちの発想だと思います。
父は、私の顔をみればあれこれ注意をします。
食欲もないのに、注意をされながらの食事では、おいしくありませんし、
正直なところ、父への反発心ばかりが育っていきます。
そういえば先日、
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」などと、
先生が教室で嘆いておられました。
保護者に薦めたのに、自分は実行していない。
そういうことを生徒に伝えて何の価値があるのでしょうか。
さらに、私にはどうも理解できないのですが、
家族で食事をしたいと願っている父親は、多いのでしょうか?
読み手の理解度を考えながら常体で日記を書く
今日は父が早く帰ってくる。父が早く帰ること自体に関心はない。
関心がないというと語弊があるので弁解しておくが、つまり、
父の帰宅時間は父の都合で決まるべきと私は思っている。しかし、
その父の行動により、晩御飯の時間が一定しないのが困るのだ。
特に帰りがいつもより早くなることは苦痛だ。
いつもより早い時間ではまだお腹がすいていないために、おいしく晩御飯が飯べられない。
それに、食事はお腹が空いてからとるほうが、僕的には身体に合っている。
父の空腹は理解できる。しかし、繰り返し言うが、僕の食欲はまだ目覚めていない。
だから、食事時間が一定しないことに若干の抵抗感はある。
しかし、母は、父のペースにあわせて動くし、
一日家族のために働いてきた父に合わせるくらいのモラルは僕も持ち合わせている。
「ご飯よう」と、よばれると、気が重くなることもあるが、
「はーい」と、僕は返事をする。返事をしないと繰り返し呼ばれ、
そのことがまた、僕の反発心をあおるからだ。その反発心は、まだ食べたくないのに
両親のために合わせようとしている、その僕の思いやりを理解されていないと感じることから
生まれてくるのだと思う。それなのに、ほんの少し、僕が食堂に行くのが遅くなると、
「遅い、みんな待っているんだぞ」と、父はあきらかに不機嫌な顔をする。
みんなが父にあわせていることに、まったく気づいていないからこそ
生まれる父の不機嫌さだと思う。もちろん、空腹ゆえの苛立ちもあるだろうが。
ところで、「子供と一緒にご飯を食べると円満な家族になる」と、
保護者説明会で母が聞いてきた。たしかに、幼児が一人寂しく食べる姿は僕も望まない。
しかし、中学高校となれば話は違う。個々に生活ペースが生まれ、
皆で食べることに固執しすぎると、返って不利益がでることもあるだろう。
こういうことを、中学の保護者会に伝えたがる人たちというのは、
食事の時間しか親子の会話をしてこなかった人たちの発想だと思う。
僕の父は、食事中にあれこれ僕に注意をする。なかばそれが習慣になっている。
たまにしか顔を見ないからというが、食欲もないのに、注意をされながらの食事では、
おいしくない。食事時間を合わせてあげているという思いもあるせいか、
いつもよりさらに父への反発心が募る。
食事は食事、注意は注意、親子の情をはぐくむのは別の機会と、
分けたほうがいいような気がする。少なくとも、僕と父の間では。
そういえば先日、
「最近、娘が一緒にご飯食べてくれないんだよう」などと、先生が教室で嘆いていた。
保護者に「子供とご飯を食べよう」と指導したのに、自分は実行していない。
そういうことを生徒に伝えて何の価値があるのだろう。自分ができないことを人にいう
節度のない先生と自らを認めたことになるだけである。しかし、
娘とご飯が食べられないことがそれだけ寂しいということなのだろうが。
先生のように、家族で食事をしたいと心から願っている父親は、多いのだろうか?
それとも、一緒に食べるべきだと思っているから寂しく感じるのだろうか?
どの日記が好きか?どれが自己探求になるか?というような質問に対して
Mさんから
私は…一番です
書き手の背景、気持ちが頭に浮かび、想像力が膨らむので…
でも…読み手側も人それぞれかも知れません
Eさんから
私は三番か四番ですね。読み手としては敬体より、常体のほうが
自分の気持ちを正直に表現しているように感じます。
Tさんから
3か4ですね。4タイプが、ここまで違うとは思いませんでした。
面白いな〜でも僕は器用に使い分けは出来ませんが
Mさんから
私は3かな。読んでてしっくりかんじるから。 感心して読みました。
ひまわりなつこ から
ご協力ありがとうございました。
自分で考える力をつけるために国語教育ですべきことはないか?
「〜である、〜だ」という書き方をさせると効果があると思う。
と、いう説が、本当かどうか実験してみました。
教科書では、はじめは、「〜です、〜ます」という表現を使って作文指導をします。
しかし、それだと、第3者に対する配慮
(失礼がないように書くとかそういう意味だと思います)という側面が出てきて、
自分の心に問いかけることが省略される
(意図的ではないにしろ気持ちが分散される。ということかな?)
可能性があるというようなことを、日記上で、先生方が話されておりました。
セルフ・カウンセリングでは、探求して気づきが生まれると、
それを外に向かって伝える(発表する)段階があります。
その時、リポートは(〜です、〜ます)調で書きます。
先生の説明によると、他者を意識しつつ書くことで、自分に対し客観的になれること。
自分の心をやさしく受けとめてやれること〜〜など
(不出来な生徒なのでノートをとらず、よく覚えていないのです。反省)
文体にも意味があるというようなことをおっしゃってました。
で、まあ、実験の結果ですが。
私には日記を書く目的があります。その目的を意識して書いてきたわけではありませんが、
家族の話はほとんどで、一番で書いてきました。その理由を、
めぐたんさんの感想が教えてくれました。想像力が膨らむ。そうなんですね。
事実の流れをなんとなくあいまいな感想のまま書いているので、
読み手の想像が豊かになる。だから、私と夫の関係を、楽しそうと感じたり、
それって奥さんかわいそうと感じたり、奥さん冷たいよと感じたり、
読み手の性格で感じ方が違ってくる。なにか、感じてくれたらいいなあ。と、
相手にゆだねた気持ちで書いているから、この文体を選んでいたのだと思いました。
■そういう気持ちで書いた文章を、
ただ形式的に敬体(〜です〜ます)に変えたのが二番です。
この形で書くと、はなし言葉調だけで書くのに無理がでます。
読み手への意識が自然に沸いてきて、会話部分ならいいけれど、説明部分に
「減っている」と、いうような雑語を使うことに抵抗が生まれる。だから、自然に、
「空いている」というような変更を加えたくなる。
このように、読み手に失礼がない様にとかいう配慮
(こちらの今の思い、執筆中の思い)が入ってきてしまうために、
リアル感や文章のおもしろさやテンポが、マイナスの方向に働いてしまったのだと思います。
■中途半端なまま、敬体で書くのではなく、きちんと読み手を意識して
「〜です〜ます」調で書いたのが、三番の文章です。
普段使う言葉をできるだけ文章用語に変えていくようになります。
また、読み手を意識すると、「気が重いのです」「しかしはーいと返事をする」
こういう流れが気になります。気が重いのになぜ「はーい」なのか?
説明をいれたくなります。読み手に自分を正しく伝えたいと思うからです。
「いや、待っているのはあなただけでしょう」と、いう表現では感覚的すぎるかな?
少し表現をわかりやすくしよう。という具合に言葉が変化していきます。
■読み手を意識した分、三番ではかなり自分の思いが表現できたと思ったのですが、
それをさらに常体に変えて、Tさんの感想と同じように、書いている私も驚きました。
〜である。〜だ。と、言い切ると、なんていうか
「私こんなにえらそうでいいの?そこまでの自信はないな…なんか恥ずかしい」と、
いう思いがわいてくるのですね。一行目でいきなりそういう俺の気分を味わいました。
けれど、これは実験ですから俺になりきり続けました。
「父が早く帰ること自体に関心はない」これって、なんか、誤解を呼ぶよね。
俺がまったく、親父に関心ないみたいじゃない。親子関係殺伐って感じ。
ここは言葉をたしておこう。うーん。「お父さんの好きにすればいいってことだよね」
でも、好きにすればいいっていいのもなにか薄情だな…。そうすると…
「父の帰宅時間は父の都合で決まるべきと私は思っている。」このほうが、
自分の気持ちをうまく伝えているかな?
という具合に、自分の心に問いかけるようになります。
そんなわけで、あそこまでの長文になったわけですが。
しかし、そうすると、今度は「俺(私)」の部分が強く出てしまい、
この日記を読みながら感じる読み手自身の感覚(リアル感)を損なってしまう。
だって、早く帰ってくる父親にたいする思いはいろいろありますから。
書き手への抵抗感も生まれるかもしれない。
M(後者)さんのしっくりという感想は、
この辺から生まれたのかなと思いました。私の推測ですが。
結論ですが、子供の考える力をつけるという意味では、どうやら、
敬体より常体のほうがいいようですね。
Eさんが指摘してくださっています。
常体で自分の思いを書くのだけれど、
「これでいいの?これであなたの気持ちは表現できた?これで分かってもらえそう?」と、
確認をとりながら、文章をよみなおすと、言葉を選んで表現する力、
つまり国語力、表現力、対話力がつくと思いました。
私の実験によればということですが。
ひまわりなつこさん
面白い実験なので今更ながらですが、新しい記事を書いてみました。
https://www.sakubun.info/?p=448