「文章の構成1」で取り上げた四つのコラムについて、三回にわたってその特徴を詳細に眺めてきました。
文章の構成2
文章の構成3
文章の構成4
さらに、これらの記事に対して、かもめさんが寄せてくださった話題をネタにして、前回の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1019673509&owner_id=14874745)で、これらのコラムの文章の特徴がなぜ起こってくるのかについて考えました。
今回はその補足として、「コラムの文章の長さ」について考えておきましょう。
かもめ 2008年12月06日 16:27
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もしかしたら、根拠のない想像ですけど、このコラムは、最初はちゃんとした文章だったのかもしれません
だけど、新聞だと、コラムを載せるスペースが決まっちゃってるから
あらかじめ作った文章を、できるだけ文章の流れを壊さないように短くしたんだと思います。
だから、接続詞が一個もないし、筆者の経験とか知識と、筆者の主張の間が飛んじゃって、読者が読んだときに筆者の「経験」「知識」「主張」の相関が薄いように感じ、読んでて読みにくい文章になってるんだと思います。
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何か一つの点で共通項がある話は、問題点(欠陥)が分かりにくくなる
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「文章の構成1」で取り上げたコラムをどうやって選んだのかについては、「文章の構成2」で説明したとおりです。
つまり、それを探し始めた日から一週間分さかのぼってコラムを探し、その中で、コラムの駄目な特徴が顕著に表れているものを選び出そうとしたのでした。
ところが、それなりに問題があるコラムはあっても、コラム�Tほどわかりやすい例がなかったので、以前使ったことのある�Tを付け加えたのでした。
最近のコラムを一週間分見て、細かく見れば、「文章の構成3」のように問題点を指摘することはできても、その問題点がそれほど分かりやすくはない最大の原因は、これらのコラムが、何か一つの話題を取り扱っているという点で一応の統一感を出しているからです。そのため、何か違和感は感じさせても、どこがおかしいのかを理解しようとすれば、詳しくその原因を分析していかなければよく分からないのです。
たとえば、�Tの例では、「長寿」の話が、いつの間にか「老後の不安」の話になっていました。ところが、�Wの例では、「車の窓から見る人生模様の美しさ」で始まり、「雪の危険さ」で締めくくるというように、言いたいことがすり替えられてはいるけれども、「車の窓から見る扇型の風景」という点で、文章の最初から最後まで、一応一貫しているので、話がきちんと首尾一貫しているような気にさせられてしまうのです。
�Uにしても、内実は話がすり替わっているのに、「迷路と、答えの分かりにくさ、わかりやすさ」という一貫した話題で話が作られているために、読者がごまかされてしまうのです。
字数が少なくなって救われているのかもしれない
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最初、これら1週間分のコラムを読んだとき、これらはいずれもまさに「何か一つの共通項がある」という点で、以前�Tのコラムを読んだときよりは、遙(はる)かにましであるという印象を受けました。
�Tのような文章を書いていた筆者が、一週間分も探して、�Tと同程度の、「内容に一貫性のない文章」を書かないはずがない。だとすれば、これは昨年と、今とではコラムを書く人が変わったに違いない。そのように私は思ったのでした。
しかし、もしかしたらそうではなかったかもしれないのです。
というのは、読売新聞のコラムは、紙面の文字(フォント)の大きさを大きくした関係で、文字数が少なくなっていたのです。迂闊(うかつ)にも、そのことに、新聞好きの妻の「字数が減ったから……」という言葉で、気づかされたのでした。
だから、�Tのコラムだけ、文字数が多くて、ちょっと違う感じを受けるのですね。具体的な数字をいうと、原稿用紙の縦二十字のマスで計算して、�Tは約580字、その他は、480字ほどになります。
普通の原稿用紙に書くような改行の仕方で書くと、�Tが600字、その他が520字です。
この字数の減少が具体的に影響として出てくるのは、�Tだけ1段落多いということです。この筆者の場合、だいたい100字ほどで一段落を書いているので、600字なら六段落だけれど、500字なら五段落だというわけです。
これまでの分析のように、「文章に対する姿勢・考え方」の点では、�Tもそれ以外のコラムもそれほど変わっているようには思えません。にもかかわらず、最近の文章が、「何か一つのことについて統一感を形成している」ことが多いとすれば、もしかしたら、この一段落の多さ、少なさは案外多大な影響を与えているのかもしれません。
一段落減っているから、思わせぶりな段落をその分書かなくてもよいため、話があさっての方に行くことを防いでいるというわけですね。
本当のところは、筆者が変わったのか、文章の文字数が変わったからなのか、内情を知らないので、私にはよく分かりません。
しかし、高校生や中学生が、コラムを書く筆者と同じような文章観を持って、800字というさらに長い字数の作文を書いたとしたら、出来上がった文章は、まず間違いなく、コラム以上にはっきりと破綻するでしょう。
主張ではないところでしか一貫した話題のない文章は、違和感があるのが当然
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文章の構成3で、おっさっちさんが、以下のようなコメントをくださいました。
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コラム�Uに対するNeko Fumioさんのご指摘に私も同感です。単に紙面を埋めるために無駄な文章をくっつけただけだと思います。
ちなみにコラム�Wの文章は、正直私には何が言いたいのか分かりませんでした。私には「扇の外側には神経も届きにくい。」という箇所が前半の文章に対して飛躍しているように思います。ある意味知識自慢のようにとれます。
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�Wについては、前回の私の説明では、残念ながら納得なさってはいないようですが、やはり、�Wには、文章の一貫性という点で違和感を感じていらっしゃるのです。
これまで話題にしてきたような、「言いたいこと(主張)に向かって、文章を構成する気がない文章」では、主題と関係がない部分で、いくら話題が統一されていても、読んだ方には、「きちんと話題は統一されているようなんだけれども、何かよく分からないなあ」「しっくりこないなあ」というような違和感が残るのです。
このように、「何となくの違和感」「受け入れがたい感覚」を持つということは、文章を「あるべくして正しく読んでいらっしゃる」ことの証(あかし)だろうと私は思います。
私にしても、これらのコラムを読んですぐに、「文章の構成2〜4」に書いたような読みをしたわけではありません。
「何か良さそうな気もするけれど、でも何かおかしいなあ」「理屈からすると、内容は統一されているし、いい文書のはずなんだろうけれども、どうしてしっくりこないのだろう。こちらの読解力がないからなのかしら」といろいろ考えて、何度も読み直して、自分の違和感の出てくるところを突き止めた結果を、先の文章のような形で、お知らせしたのです。
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私には「扇の外側には神経も届きにくい。」という箇所が前半の文章に対して飛躍しているように思います。ある意味知識自慢のようにとれます。
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その通りだと思いますよ。
雪道を車で走ったことのある方なら、雪が扇型に残って、その部分から前を見て走ったことがあるでしょう。当然、前が見にくいですよね。ただそれだけのことです。
つまり、前半部分では、「扇型の窓越しに見る風景の美しさ」を言っているのに、後半は、「視界を遮る扇型の雪のじゃまさ」を話題にしているとでも言えば分かりやすいでしょうか。
「車の窓から見る扇形」の意味が、すり替わっているのですから、「文章の飛躍」を感じない方がおかしいのです。
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