前回の記事(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1009206422&owner_id=14874745)で、「書きたいことと、書きたいことに向かって文の要素がきちんと機能していること」についてその大切さを説明しました。
しかし、このように例を挙げずに抽象的な説明をするだけでは、私の言っていることがおそらく理解されないでしょうから、新聞のコラムを例として考えてみましょう。
以下にに4編のコラムを載せてみました。あなたなら、これらのコラムに対して、どのような評価を与えるでしょうか。
これを例題としますので、それぞれの文章の点数と、その点数を付けた理由をコメントでいただければと思います。
評価の基準は、前稿の通り(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1009206422&owner_id=14874745)で、一番のポイントは、言いたいこと(主張)があり、文章を構成する要素がすべて、主張を述べるために、有効に働いていることです。
もちろん、書いている内容の好き嫌いは、問題にはなりません。入試や就職試験の作文・小論文では、反社会的な内容はやはり評価がマイナスになるでしょうが、書く主張の右寄りか左寄りかや好悪によって、評価が左右されるようなことはあってはいけません。
コメントにあなたの評価を書いていただければ、今後この稿を進めていくのにとても助かります。ふるってご参加いただければ幸いです。
なお、説明の都合上、元の文章の段落区切りに使われている◆を、段落番号に改めました。
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讀賣新聞コラム「編集手帳」より
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源義経の家臣に常陸坊海尊(かいそん)という謎の僧がいる。「義経記」や「源平盛衰記」にその名が見える。義経が討ち死にした衣川の合戦では他出していて生き延び、のちに長寿伝説を残した戦国時代の末期まで生存していたという語り伝えもあり、それだと400歳ほどになる。ある時は人々に源平合戦の様子を談じ、ある時は人々の義経談義に割り込み、「史実は違うぞ」と訂正を申し入れたと伝えられる伝説ならば何百歳が何千歳でも驚きはしないが、こちらは長寿の実話である。英国のバンゴー大学が、大西洋アイスランド沖の海底から飛び切り長生きの二枚貝を見つけたと発表した木の年輪のように1年ごとに増えていく貝殻の層の数から推定して405〜410歳、これまで知られている動物の中では最長寿とみられる。「貝尊」とでも尊称を送りたいところである。貝が生まれたころ、日本では豊臣秀吉が62年の波乱の生涯を閉じている。「露とをち露と消へにし我が身かな…」と辞世の一首にあるが、400余歳の話のあとはひとしお、露のはかなさが心にしみるようである貝は年齢を調べるために肉をはがされ、長い一生を終えたという。「社会保険庁の仕事っぷりだけではないのだよ、老後の災難は…」と嘆いていたかどうかは、「貝尊」さまに聞いてみないとわからない。
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小説のなかでFBIの元捜査官が言う。解くのがむずかしい迷路も、つくるのはやさしい。まず正解の道を描いたら、あとは線を書き足して見せかけのルートをこしらえる。「答え(容疑者)がわかればパズルは簡単なものだ」と米国の作家ジェフリー・ディーバー「悪魔の涙」(文春文庫)の一節だが、答えが見え始めてから謎がいっそう深まる"簡単でない迷路"も現実にはある。男が正解ルートとして語る〈線〉の異様さはどうだろう元厚生次官宅の連続殺傷事件で無職の男(46)が出頭し、逮捕された。「昔、保健所にペットを処分されて腹が立った」と警察で供述しているなぜ、遠い過去の恨みを無関係の元次官や夫人に向け、証拠品の凶器に運動靴まで携えて出頭し、少しも悪びれた様子がないのか。幾つもの「なぜ」を残し、軽すぎる動機と重すぎる犯行を結ぶ〈線〉はぼやけている常識と分別を知る殺人者など世の中にいるはずもないが、これほど愚かしい動機で縁もゆかりもない者の標的にされ、たった一つしかない命を奪われたとすれば、たまらない。言葉もなく、迷路の前に立ちつくす。
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ヒノキ科の常緑樹、アスナロは漢字で「翌檜」と書く。あこがれのヒノキに明日はなろう、という意味の命名とも伝えられる。その人には、大関貴ノ花(故・二子山親方)が仰ぎ見るヒノキであったらしい幕内で最軽量の小兵ながら真っ向から相手に挑むところ、勝っても土俵の上で表情の緩まないところ、稽古(けいこ)の虫であるところ、なるほど貴ノ花に似ているモンゴル出身の関脇、安馬(24)改め日馬富士(はるまふじ)が大関に昇進した。まだ十両のころ、軽量の貴ノ花が強靱な足腰を頼りに大柄な北の湖や輪島と渡り合う姿をビデオで見て、「いつの日か、こういう力士に…」と志を立てたと聞く貴ノ花が引退した日、相撲中継で解説の玉の海梅吉さんが語っている。「精一杯重い荷物を背負って、下りのエスカレーターの階段を一段一段のぼるような、そんな努力をした男です」杉山邦博氏の著書「土俵の真実」(文芸春秋)の一節だが、体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた翌檜にも、同じ階段が待っていよう。外国人力士であることをふと忘れ、古風な日本人に懐かしくも出会ったような…不思議な人である。
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日本の絵画を集めた展覧会がオーストラリアで催されたとき、ひとりの男性が一枚の絵の前にじっと立ちつくし、しきりに感心していた。扇の形をした紙「扇面(せんめん)」に描かれた風景画であったという男性が語ることには、自分はトラックの運転手だが、「雨の日にフロントガラスのワイパーの跡から見える風景だね」と。画家の安野光雅さんが演出家の故・吉田直哉さんから聞いた話として、ある対談で語っている札幌市で除雪の路面電車「ササラ電車」が早くも走りはじめるなど、北国から雪の便りが届く季節になった。扇面の白い絵を前にしてハンドルを握っている方もおられよう路面が凍結し、タイヤが滑りやすくなる。扇の外側には神経も届きにくい。どうか気をつけて…と、季節感を愉(たの)しむ前に用心の言葉が浮かんでくるのは、痛ましい輪禍の記憶が幾つも残るなかで迎えた冬のせいだろう〈白魔(はくま)はなおも跳(おど)りつづけていた〉とは武田麟太郎が戦前に書いた「雪の話」の一節だが、激しい降雪はいまも新聞の見出しなどで、ときに「白魔」と呼ばれる。美しい扇形をした雪景色にも魔は潜んでいる。
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コメント
言いたいことはあるけど、
具体例が、根拠というより、関連することを書いてるだけだから、65点以下になるのかなぁ〜
でも、この文章って、「論文」という類のものなんですか?
「随筆」とか「エッセイ」とか「ひとりごと」とか、そういう文章だと思うんですけど
たぶん、書いてる人も、読者を説得させようと思ってないんじゃないかと思います。
大変タイムリーでよい質問です。かもめさんありがとうございます。
おっしゃるように上のコラムは、「『随筆』とか『エッセイ』とか」そういう種類の文章です。就職・進学のテストで言えば、小論文というより作文ですよね。
しかしこのような文章でも、「独り言」のように自分だけに言うようなものでない限り、読者に向かって訴えかけていくようなものには、「言いたいこと(主張)」がないといけません。
伝えたいことも無いのに、なぜそのような文章を他人に向かって見せなければならないのでしょうか。
ただし、小論文のように、何か論理を展開して主張を述べるような文章と違って、作文では、この「言いたいこと(主張)」は、必ずしも理屈である必要はありません。
たとえば、「自分が物知りであること」を読者に伝えたいというような「言いたいこと(主張)」であってもいいわけですね。
進学・就職の作文の場合、最終的に目指さなければならないのは、「懸命に目標に向かってがんばる自分」、もしくは「感受性豊かな自分」を伝えることです。つまり、これが、「言いたいこと(主張)」になるのです。
では、上のコラムの場合、「自分が物知りであること」を読者に伝えたいとして、それが成功しているでしょうか。
ある意味成功していますね。みんな筆者の関連することを知識の引き出しから引っ張り出してくるその力量には感心します。
ですが、それと同時に、これらの多くのものでは、筆者がただ単にこじつけでしか物事を関連して述べることができないことをさらけ出しています。
「自分が物知りであること」を読者に伝えるにしても、どういうことを語って、それを伝えるのかは重要です。物知りクイズで優勝するような、ただ単に知っているだけの知識を感心してもらうのか、それとも、あることについて、広い知識を背景として、物事を深くとらえていけるような知識を感心してもらいたいのか。
話をする以上、何かについて語ります。そのときに何をどのように語ることによって、「物知り」をアピールしていくのかを考えなければなりません。関連項目を意味もなく連ねてアピールしていくとしたら、それは、クイズ的な物知りをアピールしているだけです。でももし、語る内容について、幅広い知識を背景としてその真相を豊かに話ていけたら、誰でもその人に感心するでしょう。
作文で「自分の豊かさをアピールする」というのは、このような書き方でやるのです。「自分のがんばりを伝えたい」からといって、「準優勝。悔しかったからがんばって何々大会に優勝。また、〜で優勝」と関連事項を連ねていっても、うまくがんばりを伝えることはできません。
「準優勝だったときに悔しかったから、『何をどのように』考えて、『何をどのように』がんばったから、最終的に優勝できた」ということを伝えていくことで、最終主張である、「自分ががんばることができる人間だ」ということをきちんと読者に訴えかけることができるのです。
文章によっては、一見バラバラに見えることを述べていくことによって、「言いたいこと(主張)」を読者にうまく伝えるようなものも当然あります。そのような場合、「バラバラに見える」から、「文章が、バラバラ」なのではなくて、そのバラバラに見える素材の裏で、それらをきっちりと受け止めて働かせる、「言いたいこと(主張)」があるのです。
わたしがいつも言う、「すべての文章には、言いたいこと(主張が)必要である」というのは、このような意味ですから、論文に求められるような、理屈の主張のことだけを言っているというように表面的な理解はしないでくださいね。
「自分を伝える」という意味での主張については、以前このmixiでも取り上げました(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=744960944&owner_id=14874745&org_id=738819046)。そちらも参考にしてくださいね。
文章について、自分の評価をコメントに書くというのは、この場合自分の読解力を試されることになるので、なかなか書き込みにくいですよね。
コメントにまで書き込む必要はありませんが、明日から私の考えを順次書いていこうと思っているので、自分の考えだけはまとめておいてくださいね。