「文体は思考の厳密さに正しく影響を与える」にいただいたコメントに答えていく形で、補足していこうと思います。
今日はその第1回目です。
書く前からはっきりとした形のある思考などない
BLADEさんからいただいたコメント
面白い表現ですね。表現者が伝えたいことをその人がこれまで出会ってきた言葉の中から、表現者がある文体を選択するのではないかと思っていたので、その逆がありうるということですね。面白い。
村上龍の書いた「半島を出よ」の中に詩人のイシハラが登場します。支離滅裂の言葉を使いながら、物事の本質を表現する人です。架空の人物ではありますが、村上氏の頭の中では存在していたわけです。イシハラはどんな思考形態をとっていたのだろう、と今回の日記から考えました。
「表現者がある文体を選択」した時点で、思考がその表現の影響を受けるということは、それほど奇抜なアイデアではないと私は思っています。
皆さん、表現される前に、「表現されるべき内容が既にそこに存在している」と考える方がほとんどだと思います。
たとえば、「書きたいことがあるんだけれど、文章が下手で文章にならない」とか、「ちょっと国語の先生に、表現を見てもらえ」とか、そういうことを言う方というのは、おそらく、表現されるべき内容と、表現とは別々と考えていらっしゃる。だから、文章の不足は、表現力の不足からくるだけで、思考そのものがなっていない証拠だとは考えてはいないはずなんです。
でも、「文章にならない書きたいこと」というのは、本当にしっかりまとまった形で存在するものなのでしょうか。私は、そのようなしっかりしたまとまった思考が、表現にならない前に既に存在するというような、机上の空論には反対です。そのことは、 「書きたいことがあるんだけれど、文章が下手で文章にならない」という事実そのものが、それが誤りであることを証明している。つまり、しっかりしたまとまった考えなどないからこそ、文章にできないのではないでしょうか。
https://www.syouron.com/nyuumon/?page_id=15
もちろん、「こんなことを書きたい」というような、漠然とした「書きたいこと」があることは、私も否定しません。でも、頭の中で考える書きたいことというのは、とってもいい加減で、つながりの薄いことでも関係があるように感じていたり、関係があると感じていて、確かに関係がある場合であっても、どういう意味で関係があるのかを、自分自身きちんと把握できていなかったり、そういうことが普通なんです。ですから、こういう分かり方をしていて、分かったつもりでいると、当然、「書きたいことはあって、分かっちゃあいるけど、書けない」というようになってくるわけですね。
でもこれは、本当のところは、文章に書けるほど分かっていたわけではないという、ただそれだけの話です。文章にする作業というのは、そのような分かったつもりの材料の関係や、内容をもう一度捉え直して、きちんと読者にわかりやすいように再構成していくという作業なんです。
教科書に出てくる、こういう生分かりで書いた文章の例
そして、この間からお話しているように、「話言葉の文体」「書き言葉の『です・ます』を使った柔らかい文体」「書き言葉の『だ・である』で書いた文体」になるに従って、書いたときに論理的構成に違和感を感じさせる限界のレベルも、だんだん高くなっていきます。だから、みんな、「話言葉の文体」の日記は書けても、「書き言葉の『だ・である』で書いた文体」の何かをきちんと主張する文章は書けないわけですね。
このように考えてみると、「書こうと思っていること」は、文章という、頭の外から出した一応の形にしてみて、初めて「自分が書こうとしていたのは、こういうことであった」と確認できる種類のものであるということです。そこまで行かなければ、なかなか厳密な思考などできるものではないのですね。
だから逆に言えば、書きたいことを文章にしようとして、さんざん悩んで完成させた結果、「なるほど自分の言いたかったことは実はこういうことであったのか」と気づくことが実際によくあるのです。そうして、そうやって分かったことというのは、それ以後の自分の思考を形成していく強力な武器になっていきます。
このように、文章として形になる前の「書きたいこと」というのは、頭の中で、分かったつもりになっている、きっちりとした思考になる前の、素材でしかないと、厳密にいえばそのように考えるべきものだと私は考えています。
思考が言葉によって、文章にされて初めて形を持つ以上、どのような形になっていくかということが、使う言葉・文体によって変わってくるということは、それほど難しい議論をしなくても、すぐに納得できる、当たり前のことなのではないでしょうか。
やっぱり、文体は思考に正しく影響を与える
Takami-nekoさんからいただいたコメントです。
その最大の原因を考えてみますと、「です・ます調」は、形式的とは言え敬語である丁寧語を使っている点が挙げられます。敬語は、感情を含むものです。一方、真に論理的な文章は、書き手からさえも離れて客観的に吟味されるべきものです。とすれば、論理的文章に敬語の一種の丁寧語を用いることに違和感が生じても不思議ではないということになります。それは、つきつめると「書き手=文章」対「読み手」という構図になってしまうからです。
かかる背景があって、論理的文章では常体を用いるのが、言ってみれば「作法」になっているのだと認識しています。
正反対のアプローチにも関わらず、「論理的文章には常体を使うほうがよい」という結論は同じです。
正しいかどうか不安が残るところですが、私は以上のように理解しています。
このコメントは、今まで私が気づかなかった、「『です・ます』を使った文章は、なぜ論理的構成が厳密でなくてもつながったような気にさせるのか」という理屈をとてもよく気づかせてくれました。
私の主張を突き詰めていけば、確かに、「『です・ます』調を用いることが論理的文章を書く妨げになる」ということになるのでしょうし、そこまで主張してしまえば、反対する方がでてくるのも分からないでもありません。
しかし、違和感を感じさせる文体をあえて選んで、というか、そういうことに違和感を感じもせずに、「です・ます」で、内容を書いたときに、その文章が文体の影響を全く受けないと考えるのは、その方がむしろ不自然ではないでしょうか。
そういう文体を選んで、「違和感を感じさせる」方に、文章自体が必ず影響を受ける。そして、できあがった文章が、自分の思考そのものだということなら、やっぱり、「文体は思考に正しく影響を与える」と、こういうことになると思うんですね。
なぜ、「です・ます」を使って、論理関係の厳密な思考をしにくいかということですが、それは、上の説明の通り、「だ・である」だと、純粋に、内容に集中できるところを、「です・ます」を使うと、内容の他に、聞き手(読み手)という別な要素が加わってくるということですね。これで内容だけに集中しにくい。結果、内容がある程度散漫でも、余り気にならなくなるということが起こってくるのでしょう。
文体による新しい思考の出現
上にご紹介した、BLADEさんからいただいたコメントに出てくる、「村上龍の詩人のイシハラ」の話、面白いですね。
おっしゃるようにたぶん、そういう表現でしか表せない新しい形の思考形態だと私も思います。
生分かりの知識でいうと、大江健三郎なども、どこかもっちりした独特の文体です。これなども新しい思考形態の表れだと捉えている方もいるのではないでしょうか。どこかでそんな話を読んだような、読まないような。
文学史上では、和漢混淆(わかんこんこう)文体、言文一致体なども、エポックメーキングなパラダイムの変換だと思います。
書く内容は分かっていて同じなのに、ただ単に書き方が変わったというようなものではなくて、新しい表現方法の工夫によって、感じ方・考え・思考も新しいものが出てきた、こう考えるべきだと思います。
和歌の世界では、古今和歌集を手本としていたのが、正岡子規によって、写生へ、そして最近の俵万智の出現で、大きくその世界を変えていますね。
コメント
「文体」という言葉が、偶然でしょうけどここ一年で自分が接した情報(本、TV、人の話、ネットなど)の中で、科学者、数学者、文学者などさまざまな分野の方が使われていました。何かを語ろうとするときに必要とするものが「文体」だとすれば、それはすなわち「思考」と同じような意味になります。その意味で、Neko fumioさんが書かれている、新しい文体による新しい思考の出現、というのは納得ができます。
(うーん、すばらしい)と、表現するしかない自分が残念です。
これは、一度白い紙に書き写して、鉛筆を片手に勉強させていただき、自分の言葉に変換できるようにしたいと思っています。
応援ありがとうございます。
こうやって記事をどんどん書けるのも、BLADEさん、ひまわりなつこさんをはじめとする多くの方々が、まじめに記事を書き付けてくださって、私の思いも寄らなかったところ、言い足りなかったところに気づかせてくださるからです。
ひょっとすると、「せっかくコメントを書いたのに、揚げ足を取られた。個人攻撃をされた。もう書かないぞ」と思う方もいらっしゃるのかなという気もします。
私は、よく寄せられる一般論を、コメントの中から抽象して、それについて考え・意見を述べているだけで、個人攻撃や反論をしようという意図は全くないので、その点善意に解釈してくだされば幸いです。
>一度白い紙に書き写して、鉛筆を片手に勉強
と言われると、ちょっと恥ずかしいです。
自分自身、この文章では話の続き具合のあまりうまくいっていない部分があることに、薄々気づいていますので、
大江健三郎の例は「文体が思考に影響を与える」例ではなくて、正反対に「思考が文体を規定している」例になっているのではないでしょうか。一方で、和歌の例はいささか極端な例ではありますが、確かに、文体が思考に影響を与えるよい例になっています。これらのことと、私が前回コメントで述べた内容を総合的に勘案すると、「文体と思考の間には相互作用がある」というのが妥当な結論のように思います。
そして、論理的文章を書けるようになるためには、「論理的思考ができるようにせよ」と要求するだけでは、その要求の内容が抽象的過ぎるだけでなく、手順としても全く不十分で、「論理的文章にふさわしい文体を身につけよ」という要求が伴って初めて十分なものになる。これが、このテーマの技術論的側面に関する結論なのでしょう。
さて、今回のNeko Fumioさんの補足説明を読んで、前回よりは言わんとするところが多少は理解できるようになったつもりです。例えば、一つ新しい記事でお書きになっているように、「だ・である体」を用いること自体への抵抗感を持つ人が少なからずいるのであれば、「文体→思考」という流れの重要性を力説されることに意義があると認めるのにやぶさかではありません。
ただ、そうではなくて「文体→思考」があくまでメインだという考えでしたら、ぜひ上述の「相互作用説」についても検討してみてください。
Takami-nekoさん
返事を次の日記に書いてみました。
https://www.sakubun.info/?p=182