分からない者ほど、表現のどぎつさを求める

 前回の「『(笑い)』も、大嫌い」では、久々に色々コメントをいただきました。自分が実際に、「!」や「?」を使っていらっしゃる方が多くて、しかもそれが効果があると思っていらっしゃるからなのでしょう。
 今回も、いただいたコメントに答えていきたいと思います。

TSUTCHIEさん

私のような若輩者に言わせてもらえば、ただの日記に強調記号云々といわれてそれは確かにそうですね。と丸のみすることはできません。
私は記号が持つ意味を活かしている文章ならば特に問題ないと思います。
もちろん小説や論文などの書籍で多用していたならば「これはおかしい」と思うかもしれませんが、文章というのは幅広いものを意味するのです。
感情をより文章に織り交ぜたい場合に記号は有効だと思います。
それ自体がないといけない、それでしか表現できないというのではありません。そうしたものを用いたほうがまわりが理解しやすいということもあるということです。
文章の書き方というのは大事ですが、記号が嫌いだという感情だけにとらわれては本当の良いところを見逃してしまわないかと思ってしまいます。

 これまで、この「日記」を読んでくださってきた方にはもうお分かりのように、わたしは、「ただの日記」というようなとらえ方で、文章を問題にしていくつもりはありません。
 「日記」であれ、何であれ、「自分が関わる文章を大切にしていきたい」という観点から、包括的な視点でいろいろ考えようとしています。

その場と、文章に応じた効果的な表現を使うべき

 そして、私の文章に対する基本的な立場は、「その場その場に応じて、最も効果的な、表現なり、言葉遣いなりをすべきだ」ということですから、何も「一つの固定した、言い回し・表現が一番すばらしい」などという気は、さらさらありません。
 というより、そういう硬直した考え方をすること自体、文章の可能性を極端に狭めることとして、私の嫌うことです。

 ですから、私が「嫌い」というのは、ただ単に、感情の問題ではありません。みなさんは、「効果的だ!」と思っているかも知れないし、そうであるが故に、多用なさるのだろうけれども、それは効果がないし、むしろマイナスですらあると私は思っているということを、「嫌い」と表現したまでのことです。

記号で表現を省略できる

 たとえば、
—————-
行った?
—————-
行った!
—————-
行った。
—————-
と、一文だけのメールを、やりとりをする場面を考えてみましょう。
 この場合だったら、「強調表現」というようなものではなくて、記号によって、ニュアンスを伝えようとしているわけです。つまり、表現として記号が、意味を担っている。
 このような表現は、特に、携帯メールなど、話言葉の延長として、短い文章のやりとりをする場面が多くなるにつれて、爆発的に多くなったと思います。
 この場合、前後の文脈に頼る、従来型の文章が書けませんから、その分を補うために、記号を多用するしかありません。このような使い方なら、私はやはり、「好き」ではありませんが、記号の効果は実際あるのですから、いくら偉い人が「使うな」と決めつけても、それは「頑固おやじが、融通の利かないことをほざいている」ということになるでしょう。
 同じく顔文字をメールで使う場合なども、
合格した ヽ(^0^)ノ
とやれば、使う相手と場所は選ぶかもしれないけれど、少なくとも文字では伝わらない情報を伝えることができている。
 私はこういう使い方について、とやかく言おうとしているわけではないです。

 私が問題にしたかったのは、このような表現を、短いメールのやりとりのようなものではない、自分の思いを説明しながら伝える長い文章でも、やはり同じようにみなさん使おうとする方が多いけれども、そんな場合は、「もうちょっと考えて使うようにしてはどうか」、ということです。
 短いメールのようなものではない場合、同じ「行った。」と書いても、そこまでの文章の流れで、疑問なのか、感慨を込めて言っているのか、ただ単に、事実を述べただけなのか、それぐらいのことが、分からないはずはないでしょう。
 それなのに、さらに「!」「?」を付け加えることで、どういう表現効果が生まれるというのでしょうか。これらの記号によって、表現することができるとしたら、「疑問」「感慨」を筆者がその表現に込めようとしている、強調しようとしているということを、読者に伝えるというだけのことにすぎません。
 たかが記号をつけたぐらいで、それ以上の細やかな感情までを追加して表現することなど、できるはずはないのです。
 ですから、もしそれ以上に、どのような「疑問の気持ち」「感慨の気持ち」を抱いているかということを伝えようとすれば、それは、やはり、文脈によって気持ちを伝えていくしか、ないわけです。

 そしてもし、そのような細かい感情を、もう既に、文脈によって伝えることができているなら、その上だめ押しで、「疑問」「感慨」くらいのおおざっぱな気持ちしか伝えることができない、記号を用いて、感情を強調する必要など、あるはずがありません。
 必要がないというより、これらの記号を使うことによって、気持ちをおおざっぱに類型化して、表現をどぎつくしてしまうだけになるのですから、これらの記号を使いたくなくなる方が、むしろ、自然なのです。

 「前後の文脈というようなものに頼る、従来型の文章が書けない場合には、その分を補うために、記号を多用するしかない」ということを、上で言いました。これを裏返していうと、「?」「!」などの記号を使えば、細かなニュアンスを説明するのを省くことができるということです。「細かなニュアンスを伝える」という、そういう、まどろっこしい努力を一切省いて、細かなニュアンスまで伝えた気になれるのが、こういう記号を使う表現方法の特徴です。

強調表現?

 みなさん強調表現がお好きですよね。多分。

 でも、たかが「?」や「!」を使うことで、どのような気持ちを、よりよく表現できるというのでしょうか。

 前回、「『?』や『!』が、強調表現になるという意識さえ持たずに、それを多用することが、どのような結果をもたらすか」いうことを、もう一度、考えてみるべきだ」というような書き方をしました。
 しかしこれは、当たっていない書き方だったかも知れません。「強調表現」だということは、十分知っていて、

zazaさんのコメントのように

「?」は使いますよ。必要です。もちろん強調として。
例えば「xxxxですか。」と「xxxxですか?」相手に後者の方が答えを期待してる印象をより与えると思います。確かに幼稚になるの否めないですが、、、。

 「『xxxxですか。』と『xxxxですか?』相手に後者の方が答えを期待してる印象をより与える」というのは、一面でそういうことはあるかもしれません。ですが、疑問文ごとにこれをやったらどうなるか。どの疑問文もどぎつい表現になってしまうだけだから、結局 ? を付けたほうが、「答えをより期待している印象を与える」ということなどできません。
 もし、? のそういう効果を期待するなら、少なくとも普段疑問文では ? など一切使ってはいない文脈の中で、「 ? を使っただけで、疑問の気持ちの細かなニュアンスまでがよりよく伝わると、本気でそんなこと思っているんですかぁ?」というような使い方になるのではないでしょうか。
 これなら、確かに単なる疑問の気持ちの強調ではなくて、「そんなのありえなーい!」というようなニュアンスが加わります。
 こういう風に、なぜ、どこで何を強調するために ! や ? を使うのかということをもう一度振り返って考えてみてはいかがでしょうか。
  ! や ? など、こういう記号を使って表現をどぎつくすれば、「気持ちをよりよく伝えることができた」と思ってしまうのだけれども、しかしそれは自己満足にぎず、 そういう自己満足に陥っているだけの自分に気づかなくなってしまっているということもあるのではないでしょうか。

薄味がいい!

 料理の「薄味」というのがありますよね。素材がよくないほど、味を濃くしてごまかすしかありません。そして、ものの味を知らない者ほど、濃い味でないと、我慢がならない。

 文章もこれと同じことです。「表現をどぎつくすれば、思いがよりよく伝わる」ということは、ありません。思いをよりよく伝えようとすれば、それは、内容を濃くして伝えていくしかない。

 この前、作文の所でも、「自分の良さを伝えるには、それを裏付ける事実をしっかり伝えていくしかない」というような話をしました。
 いくら「わたしはすばらしいんです」と叫んでも、それを繰り返せば繰り返すほど、読者はしらける。
 表現技法でも、書く内容でもそれは同じ事です。表現をどぎつくすればするほど、読者はうんざりする。
 「歯ぎしりして悔しがった」「歓喜の歓声をあげた」と言ってみて、ましてこれに、「歯ぎしりして悔しがった!」「歓喜の歓声をあげた!!!」と付け加えてみて、どれだけの気持ちが伝わるでしょうか。気持ちを本当に伝えようとすれば、その時の状況を感じ取ることができるように、よりリアルに内容を伝えていくしかないのです。

 強調表現は、「何を強調するのか」「なぜ強調するのか」「それを強調することが、全体の中で本当に必要なのか」、そういうことをきちんと考えて、必要最低限の場合に限り使っていくからこそ、隠し味として有効に働くのです。

本当に有効なのなら、堅物おやじがどんなに反対しても広まる

 「小説や論文などの書籍で多用していたならば『これはおかしい』と思うかもしれない」のは、なぜなのでしょうか。「感情をより文章に織り交ぜたい場合に記号は有効」なのなら、論文はともかくとして、なぜ小説でこのような表記が広まっていかないのか、それを考えていくべきなのではないでしょうか。
 それは、上で私が問題にしたようなことを、みなさんが感じ取っているからこそ、「おかしい」と感じてしまうのです。
 これが、「がきっぽさ」を感じるということです。教養ある人があまり使わない表現だから、「がきっぽい」のではありません。内容がないから、「がきっぽい」のです。
 ですから、「記号が持つ意味を活かしている文章」など、これを多用している方が本当に書けているなどとは、私にはとても思えません。
 
 もし本当に、このような表現が有効なのなら、私のような堅物おやじがどんなに反対しても、どんどん一般の文章にも、広まっていくでしょう。
 しかし、それがもしどこかで、拡大がとどまってしまうなら、それをとどめる要素があるということです。その、「拡大をとどめる要素は何なのか」、それを、考えてみる必要があります。

 事実として、「?」「!」のような記号を多用する小説は、コバルト文庫などには、もうずっと以前から、たくさんありました。本当の「ものの味わい」を知らない、「濃い口」を好む連中を、対象とした小説ですね。

 これが、一般読者を対象とした小説にまで広まっていくのは、果たして、何年後のことになるのでしょうか。

BLADEさん

文章に限らず表現を、相手に自分の思い、考えを伝えるための手段だとしたら、子どもっぽくてもいいんじゃないかな、と思いますが。
判断するのは、受取る側でありその方の評価を気にするのであれば、とうぜん文体は変化するはずです。

絵文字や!、?などにあふれた文章は、正直自分も辟易としますが、最近はそれでしか伝わらない気持ちがあるような気がして。
その気持ちを表現しようとすれば、文字を重ねなければならず、くどくなり、自分の意図とははずれてしまったり。
日本語は、中国から漢字を輸入し、平仮名などへと変化させていったのですよね?つまり言語は変化する。広い意味でいえば、絵文字はその一部なのでは。それでしか通用しないコミュニケーションが若い世代で起きているのではないでしょうか。

「それでいい」人には、いらぬお節介をする気はない

 上で説明したとおり、「がきっぽさ」というのは、内容の伝え方と密接に関係しているものですから、ただ単に、「知識ある大人が使わないから」という問題ではありません。「相手に自分の思い、考えを伝えるための手段」としては、不十分な要素があるから、「がきっぽい」のです。

 ただし、おっしゃるとおり、コミュニケーションの手段として考えた場合、「Nekoが言うような表現が正しいから」と、どのような集団に対しても、意固地になってこれを押し通すのは、やはり考え物です。
 事実として、顔文字や、「?」「!」を多用することを好む人たちがいるのですから、そういう相手に向かって、私のような文章を書いても、疎外されるのがおちでしょう。

 しかしこれは、逆に言えば、それを嫌う人たちも、大勢いるということです。特に公式の場では、顔文字や、「?」「!」を多用することを好む人たちの文章は、容認されていません。
 ですから、身内のコミュニケーションをはかるだけではなく、社会生活の中で、何らかの文章を、自信を持って書きたいという気持ちがあるのであれば、私のいう「がきっぽさ」が、なぜ起こってくるのかということを、理解しておくべきだと思います。

 「自分がそれを必要だと感じて使っているのだから、それはそれでいいだろう。カラスの勝手だ」という議論をするなら、そういう言い方をし出すと、それ以上、話は進みません。
 このように、もう今以上の成長を望まない方には、私がいらぬ口出しをする筋合いはありません。
 しかし、もし、「自分のやっていることを、もうちょっと突き詰めて考えてみよう」、「もっといい文章を書きたい」ということであるなら、「?」「!」を使って強調したくなる自分の気持ちの底にあるものを、もう一度振り返って考えてみることは必要なことだと思います。

顔文字と ? ! などの記号は分けて考えたほうが良いかも

 これまで特に問題にしてきたのは、? ! などの記号を使いたくなる気持ちで、顔文字についてはあまり言及してきませんでした。
 一括して論じられることが多い顔文字と ? ! などの記号ですが、これらは分けて考えたほうが良いかもしれません。
 顔文字はそれを使ったからといって、別に強調ではないわけで、その記号によって文字情報以外の何らかの意味を伝えようとしている。それに対して、 ? ! などの記号は、文字情報で十分伝わるべきものをさらにこれらの記号を使って強調ようとしているからです。
 これらはどちらも公的な場では嫌われることの多い表現ですが、今ここで議論している内容については、使われ方のニュアンスの違いを把握しておいたほうが良いように思います。

コミュニケーションの形態が変わりつつある?

 確かに、「コミュニケーションの形態が変わりつつある」ということは、あるのです。特に、パソコン、携帯のメールが登場して、上で書いたような、「会話の延長としての、文章のやりとり」が盛んに行われています。
 このような場では、私が主張しているような、従来型の文章では、「かたすぎる」として、おそらく敬遠されるのでしょう。
 顔文字も、コミュニケーションを円滑に図るための、有効な手段だと思います。

 しかし、「言葉というのは、変わっていくものだから、変わっていけばいいのだ」というような考え方には、私は賛成できません。

 文化というものは、色々問題点を含んでいるにしろ、よいものを上積みしながら、何年も何年も気の遠くなるような年月を経て形成されたものです。
 それに対して、新しいものは、よいものもあるかも知れないけれども、そのある特定の一時代の人がよいと勝手に思いこんでいるだけで、本当は、くだらないものである場合が、圧倒的に多い。

 このような文化に対して、「文化というのは、変わっていくものだから、変わっていけばいいのだ」というような考え方をして、守る努力をしないと、今まで積み重ねてきたものが、すぐに消し飛んで、薄っぺらいものになってしまいます。
 明治以降の日本文化、太平洋戦争後の日本の文化も、まさにそういうところがあるでしょう。

 だから、これまで積み重ねてきたよいものを、守る努力を最大限しなければいけない。その上で、なおかつしぶとく残って、いずれ主流になっていくようなものが、本物だと私は思っています。
 お書きになっている、「中国から漢字を輸入し、平仮名などへと変化させていった」というのなど、まさにこの例ですね。

 言葉も、文化の中の一要素ですから、当然同じことがいえます。「知識人」から、「だめだ、だめだ」と言われながら、顔文字がどのような形で、生き残っていくのかということは、とても興味深いところです。

 しかし、今現在においては、「顔文字や、『!』『?』を多用する文章しか書けない」「それだけでいいと思っている」とすれば、それは、やはり人間の幅を著しく狭めることになるし、言葉を守るべき教師が、本気でそんなことを言いだしたら、あっという間に、日本語が破壊されると、私は思います。

トトコさん

Neko先生こんにちは。
なかなか、厳しい意見で、わかりやすく、多用することで、がきっぽい文章になるのがわかりました。私は、がきっぽい表記を、好む傾向がありますが、嫌いな人には、つかわないように、気をつけたいと思います。
表記を変えて強調を「」に囲むと、強調したい部分が、はっきりわかりますね。

 トトコさんに言いたいことも、上までで、ほとんど言いました。
 「嫌いな人には、つかわないように」といっても、公式の場では、嫌う人がいないわけがないのですから、そのような場では、使うべきではないということです。

何を強調するのか

>表記を変えて強調を「」に囲むと、強調したい部分が、はっきりわかりますね。

 私が、単語を、「」でくくって説明している箇所のことをおっしゃっているのでしょうか。

 「」でくくると「強調」。確かに「強調」ですが、「何が強調されるのか」を考えておかなければいけません。ただ単に、「強調」というだけではなくて、かっこがつく場合と、つかない場合とで、どのような意味の持たせ方が違うのか。そこのところが重要です。闇雲に、強調するために、かっこをつけるわけではありません。

 今の私のここでの使い分けならば、

強調  =「意味を強める」
「強調」=「表現技法として、(世間の人が、ごく普通に捉えている意味で)の、強調」

のように、ただ単に強調するだけではなしに、「どういう意味を持たせるのか」ということを考えながら、使い分けています。
 そうすることによって初めて、「強調」の意味が出てくるのであって、ただ単に、表現をどぎつくさせるために、強調しても、意味がありません。

コメント

  1. BLADE より:

    前回の日記に対するコメントから、どんな風に展開されるのかを楽しみにしていたところでした。
    >しかし、「言葉というのは、変わっていくものだから、変わっていけばいいのだ」というような考え方には、私は賛成できません。
    この点に関しての関わり方が私とNekoさんの違いです。
    Nekoさんは、国語という教科に携わり言葉に関しての知識・感受性が強く、言葉はこうあるべきだ、という強い信念が日記を通して伝わってきます。
    昨今のいわゆる「日本語の乱れ」を許せるのか、許せないのか。Nekoさんと私両者は嫌悪感を抱いています。
    Nekoさんは、乱れを打ち砕く、もしくはくいとめるために変化に対し積極的な活動をされています。
    私は、悪い物であれば勝手に淘汰されていくのではないか、という受動的な立場。
    いろんな考えの人がいて、どれが完璧に正しいということもなく、それぞれが自分が正しいと信ずることを行う。その結果残るものはどのようなものなのか。実に興味深いです。
    以上感じたことを書きました。
    今筒井康隆の「ダンシング・ヴァニティ」を読んでいます。パッヘルベルの「カノン」のようなことを文章で行っています。同じような文章が少しずつ変化していき、物語が展開します。実験的な意味合いが強い小説です。自分には理解しがたい作品です。もし、Nekoさんが読まれたら、どういう感想を持たれるのかな、とふと思いました。

  2. こうのすけ より:

    現在のメールに代表されるような若者の文章は、ある世界観が共有された文化集団の内側で、何らかの思いや雰囲気を「伝達」することにその特徴がある。つまり記号や絵文字などの多用と短文で、ある種の感覚を伝え合っているのだと考えられるわけだ。そのこと自体は、否定する事でも肯定する事でもなく、新しいコミュニケーションが生じたというだけのことである。ただ、若者の文章を擁護する者は、「伝達」として優れているのだからいいじゃないか、ということになる。
    たしかに、そりゃそうだとは思うが、中年側は、文章は「伝達」のみにその意味があるのではない、と思ってしまう。たとえば、全く知らない、文化の異なる相手に何かを「伝達」するには、工夫が必要である。どうやったら相手に伝わるのだろうかと考え、どういう言葉を、どのように使用すべきかこだわる。もちろん知っている人であっても、自分という人間が、その文章を通してどのように映るのかを気にしながら書いていく。これが「表現」の始まりではないだろうか。
    しかし、若者の文章を「伝達」の手段として評価するか、「表現」のレベルの低さを非難するか、そういう対立は水掛け論に陥りがちだし、面白いものではないだろう。もちろん文章を「伝達」と「表現」にきっちり分けることは出来ないし、分類して若者と中年の対立構造を分析したというつもりもない。ただ対立する双方の理屈の根拠になるところがずれているのではないかと思うのだ。
    若い世代の言葉と、それに対する中年以上の世代の嫌悪感という構造は、いつの時代にも生じるものなのだろうが、大切なのはその対立の特徴は何かという事を少しでも明らかにしていき、議論の中身を充実していく事ではないかと思う。

  3. トトコ より:

    Neko先生こんにちは
    解説はありがたく、読ませていただいてます。しかし、正確に捉えることの難しさを感します。とゆうのも、都合よく解釈することがあるからです。
    文章の作り方がわかってくれば、きちんとかけるし、読めるとなってくるのだと、わかりました。(HPを拝見して)
    構成などの、知識が増えてきたら、違った伝え方ができるようになるのが、少し楽しみです。

  4. マ/げ より:

    まさかこんな真面目な人から足跡つくと思ってませんでしたよ

  5. *Lily* より:

    はじめまして、足あとからおじゃましました。
    読み応えのある記事ばかりで、
    興味深く拝読させていただきました
    (まだ一部だけですが)。
    絵文字や顔文字は、私自身は好きでよく使うものの、
    嫌う方がおられるということは理解していましたが
    「!」や「?」も強調表現だとは全く意識していませんでした。
    私の中ではすでに句読点と同じような存在になっている気がします。
    むしろ絵文字や顔文字と並べて語られることに
    少々違和感を覚えたくらいです。
    あくまで個人的な感想ですが……。
    また訪問させていただきますね。

  6. サンタまりぁ(笑) より:

    足跡から来ました。
    謹んで貴殿の日記拝受いたしましたw(藁)
    「王侯貴族に召し抱えられ虚空の美を描く宮廷画家たれ」と言われたような感じを受けました。
    というのも、ここは日記を書くことで成り立っています。論文を投稿する場でありながら、「(笑)?!」などが多用されているのであれば、おっしゃることも理解できますが、日記は論文と違い、作者が思ったまま感じたままを表現すればよく、客観判断や反論への考察は必要ないように思います。
    Neko Fumio様の主張される事を突き詰めれば、
    タイトル
    「郷愁」
    本文
    気がついてみれば、もう五年も田舎に帰ってなかった(笑)
    んで、久々にオフクロに会ってきたww。
    『別に、腹減ってねぇから、いらねぇ』って言ったんだけど、
    カレーライス作ってくれてね・・・・・
    あっ、カレーっつっても、ジャガイモだらけの『肉じゃがかっ!!』
    って突っ込みたくなるようなシロモノでねぇ・・・
    食べたんだけど、ちょ〜美味かった!!(泣)
    これは論外となるんでしょうか?
    文頭の(笑)は冷笑なのか?微笑なのか?爆笑なのか?嘲笑なのか?
    贅言を要すものではなく、読者が作者の個性を感じ取り読み進めるものではないでしょうか?
    あえて心情を詳細にわたり書き記さないことで伝える、それを読み取れる共通の感性で成り立つコミュニケーション方法というのは、ある意味、洗練されたもののように思います。
    同列に語るのは乱暴ですが、短歌や俳句などは、文字数にあえて制約し作成されています。どこかそんな感覚に通じるものも感じます。(サブカルチャーではありながら)
    独りよがりなディテールにこだわった冗長な駄文よりも
    ?!絵文字も使いわけで、要約効果があがると思うのですが・・・。

  7. ふくちゃん より:

    足跡からお邪魔しました。
    少し驚きました、人によって文章の捉え方がそこまでちがうのかと。
    面白く拝見させて頂きました、猫先生の真面目さが伝わってきます
    勉強になりましたし、また拝見したいと思いました
    ただ、私の知り合いに国語の先生がいるのですが、
    その方が経験されたある出来事の前に似ています。
    猫先生を否定するつもりは全くないのですが、
    もう少し物事を柔らかく、もしくは「丸く」見て欲しいです。
    正しい事だけが正解ではないと私は思うのです。
    勉強になりました、有難う御座います。
    また、私も変化して行きたいです。失礼しました。

  8. かっつん より:

    から来ました
    理解できない 私のレベル ・・・・・・チンプンカンプンです。

  9. ひまわりなつこ より:

    おひさしぶりです。最近の絵文字文化はすごいですねえ。
    「絵文字を使わないで返信するのは、私を大事に思っていないからだ」とかいう人もいるそうですから。
    私のマイミクさんの日記などは、
    片言の言葉に絵文字を並べて一文を形成しています。
    例えば、
    「おっはー! 
     今日はいい天気だねえ    」
          ↓
    「おはよう! う〜ん いい天気 
     やっぱお出かけピクニックですか?
     食べ過ぎないでね。」
          ↓
    「なになに? ダイエットしてるの? 
     嫌だなあ。俺は太っているくらいが好きだぜ」
          ↓
    「う〜んばかあ。私のこと太っているって思っているんでしょう?
     おみせできないのが」
    みたいな感じで、延々200コメントくらい続きます。
    意味がないといえば意味がない。
    こういう方の中には、親が病気と聞いて
    「心配してます」なんてコメントを入れたりする人もいます。
          いらぬおせっかいとおもいましたが、
          「心配してます」はやめとこうよ と、
          メッセージをいれました。
    私の母が危篤と聞いて、
    「ええ〜! うそう〜!! そんなことになっていたんだ!!!
    いないと思ったら、田舎で活躍していたんだね^^
    心配です。回復されることを祈っています。また連絡します」
             というようなメールで、返事をくれた人もいました。
    危篤と聞いて、びっくりマークをいれるのはいかがなものか?
    母の危篤が軽く扱われている気分と思いましたが、
    でも、最後の一行が本当の気持ちとわかりますから。
    そして本当にびっくりしたんだろうから。
    「心配かけてるね」と、返事をしましたが。
    絵文字一文で続く200コメントなどは、掛け合いがおもしろいです。
    始めはちんぷんかんぷんで、勉強だと思って覗いていたのですが、
    慣れてくると、微妙な感覚が私なりにわかってきて、
    そうなるとなんともいえない心の通い合いもあって、
    さいきんでは、私、はまっています。
    なんだか、元気がでるんです。ほのぼのしていて。
    もちろん、就職作文などでは、「?」「………」ですら、
    極力赤ペンで削除してもらっていますが。
    そういうものを使わず、しかも短い一文で簡潔に書こうという指導です。
    採用担当者はたくさん読んでつかれているから、
    できるだけ負担をかけない文章にしましょうというところでしょうか。
    でも、先日、テレビの就職セミナーに「かごめ」の社長が出ていて、
    「明るく前向きで〜」みたいな、指導をうけた人間ばかりじゃつまらない。
    暗さのあふれた人間もいいじゃないですか。
    そういうのがあって社会はなりたってます。的な発言をされていて、
    さて、今度履歴書がきたら、添削をどうしようかなと、悩んでいるところです。

  10. Neko Fumio より:

     BLADEさん、 こうのすけさん、トトコさん、サンタ まりぁさん、ふくちゃんさん、コメントを次の日記に使わせていただきました。
    https://www.sakubun.info/?p=199
     *Lily*さん、書いてくださったことを受けて、続きを書きました。
    https://www.sakubun.info/?p=204
     ひまわりなつこさん、書いてくださったことを受けて、続きを書きました。
    https://www.sakubun.info/?p=205
    トトコさん
     「読む」と「書く」とは、車の両輪です。
     「構成などの、知識」などより、一番大切なのは、文章にこだわっていることだと、私は思っています。
     マハードさん
     ちょっと全体に、堅すぎるかもしれませんけどね。
     かっつんさん
     分かるところから、気をつけていけばいいのではないでしょうか。
     普通だったら、ここまで考えないで、無意識のうちにやっていることを、理屈で説明すると、長く、難しくなっているだけですから。
     ひまわりなつこさん
     いつもお世話になります。
     絵文字も使ってみれば、それなりの「場を作る威力」というのは強力なんでしょうねえ。

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