この文章は、前の文章からの続きです。字数制限で、一つの日記に収まりませんでしたので、2回分の日記に分けてあります。
次は、「話言葉調の文体」で書き換えてみます。あまり、前回と変わりませんが。
「話言葉調の文体」で書き換え
読者は自分の思うところには存在しない
先日の、「自分をどう見てもらいたいんですか」の記事にいただいたコメントを元にして、「読者は自分の思うところには、なかなか存在しない」ということについて、考えておきたいと思います。
以下が、いただいたコメントです。
https://www.sakubun.info/?p=168
その結果 あたり障りない内容になる事が多いかもしれないですねぇ
(^_^;)
わたしがmixiに求めるのは共通の趣味や気の合う友達探し・・・っていう感じです。
「自分をどう見てもらいたいんですか」の記事で、「どういう相手に向かって 、どういう自分を見てもらうために、記事を書くのか」、ということを、十分振り返って、考えてみることが大切だといいました。
でも、このように、「どういう相手に向かって文章を書くかを考えるべきだ」というような言い方をしてしまうと、それを聞いた人たちは、「どういう相手に向かって文章を書くのか」を逆に強く意識してしまって、かえって自分を素直に出せなくなり、その結果、どうしても、読者に迎合するような文章を書いてしまうということが起こります。
もともとは、この「どういう相手に向かって文章を書くのかを意識するということ」と、「読者を意識するあまり、それに迎合してしまうということ」とは、全く切り離して考えないといけないんですけれども、それを、同じものであるかのように錯覚してしまうんですね。
「読者を意識しようとする」と、「読者が、どういう記事を喜ぶのか」を考えてみたくなりますよね。そうすると今度は、読者が喜ぶような記事を書こうと思ってしまいます。皆さんが、「読者を意識しようとして」、読者に迎合してしまう心理というのは、だいたいこのようなことだろうと思います。
でも、実際それをやろうとして、やってみても、「読者が喜んでくれるだろう」と、私たちが予想したところには、実は案外、読者の興味なんてないものなんです。
「読者が喜ぶだろう」というのは、あくまで私たちの希望的観測であって、読者の興味というのは、そんなに簡単に予測できるものではありませんから。
たとえば、まだきちんとした文章経験に乏しい高校生や中学生を相手にしようとしますよね。その時、相手は、きちんとした言葉遣いには違和感を感じる対象だから、まずは、砕けた会話体を使おうと考えます。そして、考える内容も、社会的なテーマについて考えるようなことはしないで、浅くミーハーに物事を考えているだろうから、そのような心理を再現して、受けをはかろうとするわけです。
現実にそのような文章を書いて、絶大な人気を得ている流行作家もいるわけですから、それを自分もやれば、受けるに違いないと考えても全く不思議はないわけです。
ところが、実際にそれをやってみても、やっぱり、たいてい思い通りにはなりません。それは、流行作家の文章を、私たちが実は何も分かりもせずにまねていただけなのだから、そうなるのが当然なんです。流行作家の文章には、私たちが不注意に分析するのでは気づかない、読者を引きつける、どこか奥深い要素があるのに、それに気づかないまま、付属的な要素ばかりをまねて文章を書いてしまっているからです。
読者は本質をかぎ分ける鼻を持っている
そんなことにどうしてなってしまうのかというと、一つには、私たちが、相手の受け取るセンスを見くびっているということがあります。
ベストセラーというのは、内容以外の要素で作られる部分というのも、確かにあるにはあるんです。でも、よく好まれる作家の書くものには、多くの人に好んで読まれるだけの、何か本質的な要素が、やっぱり、どこかに含まれていると考えないといけないのではないでしょうか。
「ものを考えない?中学生や、高校生に受け入れられる何物か」を、流行作家の文章は持っているのに、私たちはその何かに気づかないで、読者の受け取る嗅覚を軽く見て、軽薄な文体の形ばっかりをまねちゃうんですね。
これは何も、中学生や高校生を対象にする場合だけではありません。誰かと話をしていて、「この人はこういうところで、きっと共感してくれるはずだ」と思っていたのに、思わぬ反応が返ってきたことはありませんか。
このときのことを、振り返って見ると、相手の反応の深さに対して、私たちが普段、どれだけ浅いところでしか、相手の反応を予測していないのか、ということがよく分かるはずです。
人の思考を深く正確に捉えて、それに正しく応える思考を巡らせるということは、普通の人間が軽く考えているほど、それほど簡単なことではありません。そこの所を簡単に考えて、その底の浅い憶測に基づいて、読者に迎合した文章を書いてしまうから、予想通りになるはずはないし、内容の薄い文章しか書けないから、もくろみ通り、読者から歓迎されるはずもないんです。
こうやって、私たちは、読者のことを考えたつもりになって、似て非なるものを作って、魚がいないところで、一生懸命魚釣りをやるというようなおかしなことを、平気でやってしまっているわけですね。
創作の難しさ
私は以前、
売れている、読者の心をつかむ文章と、だらだらと思いつくままを書いただけの、カタコトで、自己満足の文章とは、よく分からない人が見たら紙一重だ。
https://www.sakubun.info/?p=160
ということを書きました。
「考えを伝えるためのしっかりした文章」を書くには、伝えるための思考をはっきりさせて、作っていくようにして、それを読者に正確に伝えていくことを考えていけば、それだけでいいですよね。
ところが、創作となると、そういうわけにはいきません、その人が、「人間」というものをどういうふうに捉えて、それをどう表現していくのかが問われてくるわけです。
その捉えたものを、どのように読者に向けて訴えかけていくかというところになってくると、あえて物事を曖昧にして、はっきりとは言わないような選択肢も当然でてきます。
ですから、そのような捉え方、表現の仕方の工夫を深いところで理解しようとはせずに、浅いところだけで分かったつもりでいると、「何か気の利いたようなことは言っているんだけれど」、もしくは、「何か似たようなことは書いているんだけれども」、全然心に響かないということになってしまうわけです。
こうやって考えると、創作の場合は、少なくとも、そこのところをある程度はつかんでいるだろう流行作家ぐらいでないと、まず、指導するなどというようなことができるはずはありません。
もし本当に指導できるような人物だったなら、その人は、そのノウハウを使って、もうとっくに流行作家かカリスマブロッガーの仲間入りを果たしているはずです。
徹底的は自己表現の追求
では、流行作家を目指す方はともかくとして、私たち一般の文章を書くのが好きな人間は、どのようなことを考えて、文章を書けばよいのでしょうか。
考えても分からないのなら、そんなことをあまり深く追求しようとしなければいいんです。読者に迎合しようとして、それに合わせようとした結果、自分を「曲げ」たり、「押さえ」たりして表現してみても、それが全く効果を生まないのなら、そんなことは考えるだけ損です。
「自分が切実に感じている、そして誰かに言ってみたい」、そういうことを、一生懸命、読者に分かってもらおうとして文章を書いてみる。そうやって、自己表現の欲求を満たす方が、変に読者に迎合した文章を書いて、相変わらず欲求不満に陥っているよりも、よっぽど健全だと思いませんか。
自己表現のために自分の興味を徹底的に追求すれば、変に読者に追従しようとしない分だけ、認識が浅いところでとどまらなくてすみます。自身ができる最大限の深さにまで、掘り下げた文章を作ることができます。そうやって書かれる文章は、やっぱり下手に読者のことを考えて、力の入っていないものなどと較べ、はるかに強い威力を持ちます。
上に引用したコメントのように、「読んでくれる人を意識」して、結果、「あたり障りのない内容」しか書けなくなってしまうのであれば、それは八方美人です。そうなってしまうと、せっかくの「自己表現」が自己表現ではなくなってしまい、求めたはずの友人も寄りつかない、というような皮肉な結果になってしまいます。
「共通の趣味や気の合う友達」を求めるのなら、それを求めるからこそ、とことん自分のこだわりを前面に出していく方が、より濃い関係を作れるのではないでしょうか。
https://www.syouron.com/hp/?page_id=23
理解を求めるための努力は必要
ただ、「自己表現のために、自分の興味を徹底的に追求」するからといって、「読者の理解を得るための最大限の努力」をしなくっても良いというわけではありません。
「誰がなんと言おうと、私はこう考える」「理屈はどうか知らないが、私がそう思うのだから、カラスの勝手でしょ。」というような文章は、ただの独りよがりです。それでは到底、「自己表現のために、自分の興味を徹底追求」しているなどとはいえません。自分の思考を相対化して深めない人には、真の「自己表現」も、「自分の興味の徹底追求」も、できるはずがありません。
「自分の文章がどのような反応を生みそうか」ということを、できるだけ予測し、相手を説得するために、できる手はすべて打って、自分を分かってもらおうとするからこそ、初めて、「自己表現のための、自分の興味の徹底追求」もできるのです。
前回の項で取り上げた、「改行の工夫」、「確かに〜しかし〜」を使う説得術、なども、そうした考えで、重視していかなければいけないものなのです。
コメント
文体の事から 話が逸れますが、mixiの場合は
日記のタイトルによっても 読者の食いつきがだいぶ違う気がします。
(日記の内容はともかく)
遊び半分で ちょっといやらしいタイトルを付けると興味を引くみたいで
普段よりも 200ぐらいアクセス数が違う(増える)んですよね。
ただ、わたしの場合は
タイトルだけがいやらしくて 日記の内容は
至って普通なんですけど なんか面白くて たまにやってます。
(^_^;)
あとはmixiって 不特定多数の人が見る可能性がある(というか、実際 そうですよね)ので
なかなかこういう場では 自己主張(個性かな)のある文章って書くのは勇気いりますよね・・・
現にネットで叩かれて
ちょっとノイローゼ気味になってしまった人もいるし・・・
やはり早く拝読したくて、仕事をおっぱらかして飛んできました。
あとで、また熟考させていただきたいと思いますが。
学生さんが、エントリーシート(就職用)を作成するとき、
〜です調で書くべきですか?〜ある調で書くべくですかとよく質問されます。
また、「〜です調」と「〜ある調」をやたら混用される方もいます。
この人の作文はどちらかというと「〜です調」が似合ってるなとか、
いや「〜ある調」方がイメージいいぞとか、感覚的な私の判断で、
統一するようアドバイスをしていたのですが、なぜ私がそう感じたのか、
先生の文面からしっかり学ばせていただきたいと思います。
読み手の御社を意識しすぎて、御社のよさを書き連ねて紹介文が終わる方もいますね。
一例ですが
息子が高校受験の自己推薦文を持ってきて、添削してくれという。
先生の指導が入っていちおう完成品になっているのだが。
たかが100文字の作文に「貴校」が4つも入っていて、流れが悪い。
先生が貴校を何度も書き入れさせたらしく、赤ペンが入っている。
「貴校の校風と明るさにひかれ〜」とかおきまり文句も数回かいてある。
そんな誰が書いても同じものを書くくらいなら書かないほうがいい。
だいたい、いつ、何を見て、貴校が明るいと思ったのよ?と、問いかけましたよ。
学校がこういう指導をするのならしないほうがいいような気がしました。
ちなみに、面接に答える模範解答というのがあって、もう、涙が出ました。
せっかくの機会ですから、進学にあわせてでも、自己表現という力をつけてほしいものです。
匿名さん
>日記のタイトルによっても 読者の食いつきがだいぶ違う気がします。
というのはそうでしょうね。学生などは、やたらとありきたりな題を付ける傾向が強いですが、内容を表す魅力的な題を考えるということも、文章表現の一環としては考えておかなければなりません。
https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=88
「ちょっといやらしいタイトル」を見ると、やっぱり見てみたくなるのは、人間のさがというものでしょうか。
ひまわりなつこさん
「だ・である」体を使いこなして、厳密な思考ができる人間なら、時と場合に応じて、文体は使い分けることが大切です。
「です・ます」でしか書かない人間は、「だ・である」体では書けない人間になってしまうことが一番の問題なのですから、使えるものは何でも活かしながら適切に使うべきで、何が何でも「だ・である」体だと、凝り固まってしまうのも問題です。
お説の様に、人に応じて似合う方を選んで使うというようなことも、あるいは必要かもしえれません。
内容については、おっしゃるように、自分の本気度が伝わる表現を選ぶことが大切です。ありきたりな抽象的紋切り型では、全く相手の心を揺さぶりません。
https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=19