文体の印象度比較

 前回、「文体は思考の厳密さに正しく影響を与える」(https://www.sakubun.info/?p=173)というテーマで書こうとした時に、私のつもりとしては、前々回の文章、「読者に迎合しない」(https://www.sakubun.info/?p=172)を、それぞれの文体で書いて、その印象度、あなたの好み、それぞれの効果はどうですか、と皆さんにお聞きしてみようと思っていたのですが、いざ書き出してみると、内容だけで、かなりな長文になってしまい、さらに一回分の文章を二セット付け足すことができるような状況ではありませんでした。
 それで、今回今度こそ、前々回の文章、「教科書に出てくるような、『だ・である』体」で書いたものを、後、残りの、二つの文体、「書き言葉体の中でも、かなりくだけた調子」「話言葉調の文体」で書き換えてみます。

 と前置きをして、始めた書き換えですが、うちの子どもの言葉を借りれば、「もう・・まいった!」という状態になってしまいました。それで半月余り、日記がちっとも書けない状態に。

 がちごちの文章語で書いてしまっているので、柔らかい文体にするのがとても難しい。まして、話言葉の文体なんてとっってもとっても。もう無理です。お手上げ。

 厳密に作ってあれば、それを緩くするのは簡単だと思っていた私がばかでした。厳密に作ってあるものを、ゆるめるのもできるものではありません。
 何も下敷きにしないで、似たような内容を一から書き流すのならともかく、下敷きにする文章を用意してしまうと、もう、ずらずら流れていくような思考にはなれないんです。

 まあしかし、柔らかい文章を作っておいて、それをきちんとした文章にしていく困難さとは、この努力はやっぱり全くの別物です。
 柔らかい文章を厳密にしていこうとすると、論理のつながりの甘い部分というのがすべて気になってきますから、内容だけは、このような内容の方向性ということにして、一から文書を書き始めるのと何ら変わりませんから。
 たぶん下手に下敷きになる文がない方が、思考の整理もしやすいでしょう。
 
 ということで、一度書いてしまったものを、他の文体で書き換えるのは、やっぱりそれほど簡単なものではないということのようですね。
 教科書のような文章語の文体で、文章を書けない人は、いつまでたっても論理的なつながりのしっかりした文章を書けるようにはならない。だから、まず、文章を書く練習をするのは、「だ・である」調の文体で始めるべきだ、という私の主張の根本部分が変わるわけではありませんが。

 以下一応、私の努力を見ていただくことにしますが、特に最後の話言葉の文体では、書き言葉の柔らかい文体とほとんど違いが無くなってしまいました。そのようにちょっと文末を換えただけにしておかないと、文章の内容と表現のバランスが極端に悪くなってしまいますので。

 ただ、これらの3つを見比べていただいても、私が一番重視している、「思考の厳密さ」に対する文体の影響という問題については、分析できないと思います。厳密に作ってあるものを、思考内容を変えずに表現だけを変えていっているのですから、そこの所は、あらかじめご了承ください。

 なお、前回いただいたコメントについて、まだ、一切思うことなどを書いてはおりません。これについては、また、話題を持ち越しということで、気長に待っていてください。

 ではいきます。
 まず、「書き言葉体の中でも、かなりくだけた調子」から。

書き言葉体の中でも、かなりくだけた調子

読者は自分の思うところには存在しない

 先日の、「自分をどう見てもらいたいんですか」の記事に対して、以下のようなコメントをいただきました。
 それを元に、まずはじめに、「読者は自分の思うところには、なかなか存在しないものだ」ということについて、考えておきたいと思います。

 以下が、いただいたコメントです。
   https://www.sakubun.info/?p=168

わたしの場合は結構 読んでくれる人を意識して書いてます。

その結果 あたり障りない内容になる事が多いかもしれないですねぇ
(^_^;)

わたしがmixiに求めるのは共通の趣味や気の合う友達探し・・・っていう感じです。

 「自分をどう見てもらいたいんですか」の記事で、「どういう相手に向かって 、どういう自分を見てもらうために、記事を書くのか」、ということについて、十分に振り返って考えてみることが大切だということを言いました。
 でも、このように、「どういう相手に向かって文書を書くかを考えるべきだ」というような言い方をしてしまうと、それを聞いた人たちは、「どういう相手に向かって文書を書くのか」を意識しすぎてしまって、かえって自分を素直に出せなくなり、その結果、どうしても、読者に迎合するような文章を書いてしまうということが往往にして起こります。

 本来、この「どういう相手に向かって文章を書くか、を意識する」ということは、「読者を意識するあまり、それに迎合してしまうということ」とは、切り離して考えなければならないのに、それをあたかも同じものであるかのように錯覚してしまう方が多いのです。

 「読者を意識しようとする」と、「読者が、どういう記事を喜ぶのか」を考えてみたくなります。そしてそうすると今度は、読者が喜ぶような記事を書きたくなります。皆さんが、「読者を意識しようとして」、読者に迎合してしまう心理というのは、おおむねこのような経過で発生するのです。
 しかし、それをやろうとして、実際にやってみても、「読者が喜んでくれるだろう」と、私たちが予想したところには、実は案外、読者の興味はないものなのです。
 「読者が喜ぶだろう」というのは、あくまで私たちの希望的観測であって、読者の興味というのは、そんなに簡単に予測できるものではないからです。

 たとえば、まだきちんとした文章経験に乏しい高校生や中学生を相手にしようと考えます。その時、相手は、きちんとした言葉遣いには違和感を感じる対象だから、まずは、砕けた会話体を使おうとします。そして、考える内容も、社会的なテーマについて考えるようなことはしないで、浅くミーハーに物事を考えているのだろうから、そのような心理を再現して、受けをはかろうとするわけですね。

 実際そのような文章を書いて、絶大な人気を得ている流行作家もいるのですから、それを自分もやれば、受けるに違いないと考えても不思議はない。
 ところが、それを実際やってみても、たいていの場合、もくろみはやはりはずれます。それは、流行作家の文章に対して、私たちが実は何も分かってはいないのだから、当然そうなるのです。つまり、流行作家の文章には、我々が不注意に分析するのでは気がつかない、読者を引きつける、どこか奥深い要素があるのに、それに気づかないまま、付属的な要素ばかりをまねて文章を書いてしまっているからです。

読者は本質をかぎ分ける鼻を持っている

 そのようなことになってしまう背景の一つには、我々が、相手の受け取るセンスを、見くびっているということがあげられます。

 ベストセラーというのは、内容以外の要素で、作られる部分というのも確かにあります。しかし、よく好まれる作家の書くものには、多くの人に好んで読まれるだけの、何らかの意味で、本質的な要素が、やはりどこか含まれていると考えるべきではないでしょうか。
 「ものを考えない?中学生や、高校生に受け入れられる何物か」を、流行作家の文章は持っているのに、我々はその何かに気づくことなく、読者の受け取る嗅覚を軽く見て、軽薄な文体の形ばかりをまねようとしてしまうのです。

 これは何も、中学生や高校生を対象にする場合だけではありません。誰かと話をしていて、「この人はこういうところで、共感してくれるはずだ」と思ってした行動に、思わぬ反応が返ってきたことはないでしょうか。
 このときのことを、自分自身で振り返って見ると、相手の反応の深さに対して、自分が普段、どれだけ浅いところでしか、相手の反応を予測してはいなかったのか、ということに気がつくはずです。

 人の思考を深く正確に捉えて、それに正しく応える思考を巡らせるということは、普通の人間が軽く考えているほど、それほど簡単なことではありません。そこの所を簡単に考えて、その底の浅い憶測に基づいて、読者に迎合した文章を書いてしまうから、その予想は当然はずれるし、内容の薄い文章しか書けず、もくろみ通りに、読者から歓迎されるはずもないのです。
 このようにして、私たちは、読者のことを考えたつもりになって、似て非なるものを作り、魚がいないところで、一生懸命魚釣りをやるようなことを平気でやってしまっているのです。

創作の難しさ

 私は以前、

 創作には、私が主題にしている、考えを伝えるしっかりした文章とは違う要素が入ってくるので、創作というのは難しい。。
 売れている、読者の心をつかむ文章と、だらだらと思いつくままを書いただけの、カタコトで、自己満足の文章とは、よく分からない人が見たら紙一重だ。
 日記や創作を書こうとしている人の気になるところ
noncoさんの、プロフィール( )にある、取扱説明書。 それからこういうの。  脳内変換辞書()  観察日記()  こういう試みは面白いですよね。  2008年01月13日のコメントで、 &gt...

ということを書きました。
 「考えを伝えるためのしっかりした文章」を書くには、伝えるための思考を明確に形成していくように努め、それを読者に如何に正確に伝えていくのかを考えていけばそれでよいです。
 ところが創作となると、そうはいきません、その人が、「人間」というものをどう捉え、それをどう表現していくのかが問われてきます。
 その捉えたものを、どう読者に向けて訴えかけていくのかという段階で、あえて物事を曖昧にして、はっきりとは言わないような選択肢も当然でてきます。
 ですから、そのような捉え方、表現の仕方の工夫を深く理解しようとはせず、浅いところで分かったつもりでいると、何か気の利いたようなことは言っているのだけれど、もしくは、何か似たようなことは書いているのだけれども、心に響かないということになってしまうのです。

 このように考えれば、創作の場合には、少なくとも、そこのところをある程度はつかんでいるはずの流行作家ぐらいでなければ、まず、指導することなどおぼつかない、ということも当然のこととして理解できるでしょう。
 しかし、もし本当に指導できるような人物なら、その人は、そのノウハウを使って、もうとっくに流行作家かカリスマブロッガーの仲間入りを果たしているのではないでしょうか。

徹底的は自己表現の追求

 それでは、流行作家を目指すのならいざ知らず、私たち一般の文章を書くのが好きな人達は、どのようなことを考えて、文章を書けばよいのでしょうか。

 考えても分からないのなら、それをあまり深く追求しようとはしないほうがいいのではないでしょうか。読者に迎合しようとして、それに合わせようとした結果、自分を「曲げて」、もしくは「押さえて」表現しても、それが効果を生まないのなら、そんなことを考えるだけ損なのです。
 「自分が切実に感じている、そして誰かに言ってみたい」、そういうことを、一生懸命、読者に分かってもらおうとして文章を書いてみる。そのことで、自己表現の欲求を満たす方が、変に読者に迎合した文章を書いて、相変わらず欲求不満に陥っているよりも、よっぽど健全です。

 このように自己表現のために自分の興味を徹底追求することで、変に読者に追従しようとしない分だけ、認識が浅いところでとどまらなくてすみ、自身ができる最大限の深さにまで、掘り下げた文章を作ることができます。そのようにして書かれる文章の威力は、下手に読者のことを考えて、力の入っていないものよりも、はるかに強い威力を持つはずです。

 上に引用したコメントのように、「読んでくれる人を意識」した結果、「あたり障りのない内容」しか書けなくなってしまうのであれば、それは八方美人です。そうなってしまうと、せっかくの「自己表現」が自己表現ではなくなってしまい、求めたはずの友人も寄りつかない、という皮肉な結果が待っています。
 「共通の趣味や気の合う友達」を求めるのなら、それを求めるからこそ、とことん自分のこだわりを前面に出していく方が、より濃い関係を作れるのではないでしょうか。

https://www.syouron.com/hp/?page_id=23

理解を求めるための努力は必要

 ただ、「自己表現のために、自分の興味を徹底追求」するということと、「読者の理解を得るために最大限の努力を怠らない」ということとは、必ずしも矛盾するものではありません。このことを我々は、しっかりと頭に置いておく必要があります。

 「誰がなんと言おうと、私はこう考える」「理屈はどうか知らないが、私がそう思うのだから、カラスの勝手でしょ。」というような文章では、ただの独りよがりです。それでは到底、「自己表現のために、自分の興味を徹底追求」しているなどとはいえません。自分の思考を相対化して深めない人には、真の「自己表現」も、「自分の興味の徹底追求」も、できるはずがありません。
 「自分の文章がどのような反応を生みそうか」ということを、できるだけ予測し、相手を説得するために、できる手はすべて打って、自分を分かってもらおうとするからこそ、初めて、「自己表現のための、自分の興味の徹底追求」が、可能になるのです。

 前回の項で取り上げた、「改行の工夫」、「確かに〜しかし〜」を使う説得術、などそれらすべての読者に対する配慮というのは、そうした考えから、重視されるべきものなのです。

https://www.syouron.com/hp/?page_id=16


  次は、「話言葉調の文体」で書き換えてみます。

 と書こうとしたら、字数制限で、一つの日記には掲載できませんでした。書き換えはすぐ次の日記にということで。

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