なぜエッセーを書いたのか

エッセーを書こうとした理由

 前々回の日記というか、エッセー「母ちゃんを悩ませるなー」を書いた理由を書きます。

 以前、4回にわたって、「私的な日常を細々と、対象化することなく書きつづる、日記を書こうとする気持ちが分からない」ということについて、書きました。
 下のリンクを作るために改めてページに行ってみると、ついこの間書いたことのように思っていたのに、もうかなり前のことになってしまっていたようですが。

  「日記を書こうとする気持ちが分からない 1
  「日記を書こうとする気持ちが分からない 2
  「自分をどう見てもらいたいんですか
  「足跡魔ってどうなのかな
  プラス付録1回 「二十歳の原点

 今回の記事は、この「日記について」からの流れです。

 これらの記事では、「私的な日常を細々と、対象化することなく書きつづる、日記」と、私がそうではないと考えているものとの違いについて考えました。その考えの根本にあるのが、以下に引用する部分です。

 BLADEさんの日記は、その記事が対象とするそれぞれの内容について、 自分の考えをある程度客観化して整理していく中で、それに対する自分の立場というものを明らかにしようとする努力があると思うんです。

 つまりそれは、自分のその時の感情や体験を、未整理のままぶつけていく 私が、「書く気持ちが分からない」という日記とは、本質的に違うということです。

 別の説明をすれば、これらの文章は、ここではたまたま、日記の形になって、皆さんの前に示されているけれども、何も日記の形でなくてもいいものですよね。

 つまり、書かれた 日記の文章の、一つ一つが、独立した文章として、
主張を持っているし、それによって伝えたいことがある。

 ところが、こういう説明をしただけでは、どうも私の考えていることが、やっぱりおそらく伝わってはいないだろうと思うのですね。
 私が皆さんにお勧めする文章の書き方を、本当に分かっていただくためには、ここでどうしても、実例に基づいて考えておく必要がある。それで、「私的な日常を細々と、対象化することなく書きつづる、日記」のようなものではない、「自分の考えをある程度客観化して」とらえた、「独立した文章としても、それによって伝えたいことがある」文章というものがどういうものか、その実例を作ろうとしたわけです。

文章は、言いたいことを伝えるために、必要なものを効果的な順番で並べる

 このことを考えるためには、話を、「文章を書くとはどういうことか」という根本的なところに戻して、考えてみなければなりません。

 私は、文章というのは、「自分の伝えたい何か一つのことを、読者に伝えるために書くものだ」、という立場です。
 「一つのこと」という所には、異論があるかも知れません。しかし、今ここでその説明をし出すと、説明がややこしくなるだけなので、あえて説明しません。
 おおよそ、他人に向けて文章を書く以上、どんな文章であっても、「その文章を書くことで、自分が伝えたいもの」は必要である。そして、この「自分が伝えたいもの」を効率よく、読者にきちんと伝える文章が、よい文章である」と、このように私は考えています。(https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=31

 このようなことを言っても、評論的な文章なら、反論する人は、おそらくいないのでしょう。しかし、それでは、随筆や、小説などとなるとどうでしょうか。そこまで広く考えてくると、「文章というものを、そんなに限定して考えてしまうのはよくない」という反論が、聞こえてきそうです。
 しかし、私は何も、「短い抽象的な言葉で要約することのできる何か一つのこと」を、書くのが文章だ、と言っているわけではないのです。
 たとえば小説や詩のような場合、「短い抽象的な言葉で要約することのできる何か一つのこと」を伝えるだけでよいのなら、何も、様々な具体的な場面の描写をまどろっこしくする必要はないわけですよね。言いたいことを伝えるためには、その短い抽象的な言葉だけを、ずばっと読者に伝えればよい。
 ところがそんなことはできないわけです。筆者には、何か「人間の真実」について、訴えたいことがある。だけれども、評論のように、抽象的な言葉でまとめていく形では、どうも、うまくそれが伝わらない。だから、そのような内容を伝えるために、評論などのような方法をとるのではなくて、具体的な個々の登場人物を、特殊な環境で登場させて、その登場人物に、色々なことを言わせたり、考えさせたり、行動させたりして、言いたいことを一生懸命読者に感じさせようとするのです。
 もちろん、文章が、作者の意図を裏切って、違うことを示している場合もたくさんあるし、意図以上に多様な内容を含んでいる場合も当然あります。しかし、それだからといって、「伝えたい一つのことなんて、そんな薄っぺらいことを伝えたいために私は小説を書いてはいません」という人がいたら、やっぱりそれはおかしいのではないでしょうか。

 「自分がその小説を通して、読者に伝えたいことを考え、それを伝えるために、どういう人物にどういう行動・思考をさせるか、そのためにどのような環境を用意するのか」、そのようなことをきちんと考えようとしないで、ただそれらしい話を、雰囲気で寄せ集めて小説を書いたとして、その人は、何のためにその小説を書くのでしょうか。もしそれだったら、世の中で「小説」といわれてもてはやされているものと似たものを作ったつもりになって、自己満足しているだけではないでしょうか。
 そもそも、「伝えたい一つのことなんて、そんな薄っぺらいこと」というような反論をすること自体に、ほとんどの場合、問題があります。
 つまり、こんな言い方をするときというのは、たいてい、ただ単に自分の思っていることを整理し切れていないだけなのに、その整理し切れていない自分を、あたかも言うに言われぬ豊かなものを持っているかのように錯覚している場合なのですね。
 自分の目指す所をはっきりと捉えることができていない自分を称して、「一つに絞りきれない豊かさを持っていると、買いかぶっているだけなのです。
 

 何か人にどうしても伝えて、納得してもらいたいことがあるとします。この場合、それを伝えるために、いつ、どこで、どのような手段で、と考えるでしょう。その手段の一つが、文章なのです。これは、論文だけではなく、文芸的と言われる小説や詩でもおなじことです。

 話をもっと広げます。たとえば、何かを発表するとします。ついこの間も、私の生徒に発表をさせたときに、「発表なんだから、あったことをあった時間の流れで言ってもいいでしょう」とか、「少々、関連した余分の話があってもいいんでしょう」と言うんですね。
 さんざん一年間、文章を書くとは、「伝えたいことを一番うまく伝えるために、必要な材料だけをきちんと並べて説明していくことだ」ということを伝えてきて、そのためにうんざりするほど作文練習を積み重ねてきた生徒たちが、こういうことを、平気で言うんです。
 何かを考察する文章だったら、「そういう無駄があってはいけない」と考えるようになっていて、まあなんとかそれなりの文章が書けるのに、「自分のもっとも関心があることについての発表」なんてことになると、もういけません。そういう思考が途端に停止してしまいます。
 たぶん読書感想文などでもだめですね。「言いたいこと」とは関係なしに、「感想文だから、あらすじを書いてもいいでしょう」とすぐに言うに違いありません。

 言いたいことを伝えるために、必要だから、それを聞いている人には、「余談」だと思えるような関連エピソードを、あえてそのために挟むんです。
 感想を伝えるためには、そこのあらすじの部分を説明しないと、感想を伝えること自体が成立しないから、最低限のあらすじを説明しなくっちゃあいけない。

 普通、「何のために」という目的意識と、「その目的に、無駄を省いて、最短距離で到達するためにはどうするか」ということは、何をする場合でも、一番重要なはずです。
 何も、作文を書くとか、発表をするとか、国語の、しかも勉強だけにかぎった話ではありませんよね。

 それを、作文をする場合にも、常に考えておかなければならないという、そういう話です。

「時間順・考えた順」はだめ作文の典型

 ここで、上の話と関連して、もっと技術的な話をしておきましょう。

 文章を書いた経験の少ない人は、文章を書くときに、自分が考えた順番、体験した順番の通りに文章を組み立てたがります。「あったのがその順番なんだから、それを偽ってはいけないだろう」というような発想になってしまうんですね。もしくは、自分が発見した発想の過程を、読者にも追体験させたいとか。

 確かに、「自分が発見した発想の過程を、読者にも追体験させる」ことを目的とした文章も、場合によっては必要でしょう。しかし、多くの場合、私たちが、伝えなければならないことは、「今、自分が何を考えているか」、「今、自分が到達している高みはどのようなところか」ということのはずです。
 それを伝えるのに、「最初は、こう考えていた。それが、経験1で、こう変わった。もっと調べていくと、こういうことが分かってきた。それで最終的に考えをまとめて、このような結論に達している」という書き方が、果たして本当に一番効果的でしょうか。
 それを伝えるなら、むしろ、「私は、このように考えている。理由はこれこれだ。実は以前は、〜のような考えだったが、それではこういう点でだめなことが分かってきた。また〜についても〜の様に考える人がいるかの知れないけれども、〜のような理由で、そう考えるのはいけない。」と説明するのと、どちらが、読者にとって親切でしょうか。(https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=34

 自分のよさを知ってもらうために書くのが、自己推薦文ですよね。そこでは、今の一番よい自分を感じてもらうことが、文章を書く目的になります。それなのに、「高校に入る前は、〜。1年の頃は〜。2年の頃は〜。3年生になってやっと、自覚が芽生えてきて〜。優勝」と書きますか。
 こんなことをいつまでもやっているから、「小学生の作文」から、脱出できないのです。
 「3年生の大会の〜の場面で、こういう事を考えながら、困難を乗り越えて、こういう感動をした。1年生の時にはそこまで考えることのできなかった自分が、部長になってこういう風に大きく成長できた。今はこの経験を通して、このように考えている」とやるのと較べて、どうでしょうか。
 どちらが、「言いたいこと」「伝えたいこと」、すなわち、「筆者の人間的なすばらしさ」が伝わってくるかは、一目瞭然でしょう。

 この違いは、一方が単に、時間順、思考順、体験順なのに対して、もう一方は、言いたいことを最もよく伝えるための部品と、それを伝える順番とを吟味して、それらを適切に並べたところから生まれたものです。
 もし、これで違いが出てこなかったら、その方がおかしいでしょう。(https://www.syouron.com/nekoron/?page_id=34

宿題を出します

 前々回、話題として提供した日記で、「『私が伝えようとしたこと』は何でしょうか」
 この課題を、皆さんに考えていただきたいと思います。

 私が一方的に、ここで私の思いを伝えてもよろしいのですが、皆さんに考えていただく方が、内容もきっと深まるだろうし、私のこの日記を書いた時の、文章で伝えようとした意図が、果たして成功していたのか、失敗だったのかも、分かるでしょう。

 たまには、「学校ごっこ」の気分でやってみるのも面白いかもしれませんので、コメント欄に、皆さんそれぞれの解答を書き付けてみてくださいね。

 もちろんコメント欄は、それ以外の感想を書いてくださっても結構ですよ。

コメント

  1. 夢遊 より:

    特定の読者を意識して書くなら日記でもいいかもしれないってことでしょうか。
    私としては、こういうことが書かれているとは予期していませんので、あれを読んだときは、少しがっかりしました。
    それで、コメント要請と今回の宿題で最低3回読むことになりましたよね。
    コメントに赤点のことを書いたのは、軽い受け流しのつもりでした。

  2. トトコ より:

    宿題出しの答え
    昔の話をする中で、思い出される笑い話。
    こんにちは、はじめまして。国語得意ではないので、ここのコーナーでよく勉強できたらいいですが。答えはナンだろう??楽しみです。

  3. やまままま より:

    初めまして。
    宿題について
    健康に気をつけて、永く生きなさい
    ということでしょうか。
    私も答えが楽しみです。

  4. Neko Fumio より:

     コメントありがとうございます。
    次の日記に返事を書きました。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=737025132&owner_id=14874745